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4 千冬
六は今、駅前の新しいファミリーマンションの前にいた。
ふらふらしていた男性に肩を貸しながらここまで歩いてきたのだが、顔色は良くなるどころか青白くなり、意識も朦朧とした様子なので、いつ倒れてもおかしくなさそうだった。
エントランスに入り、男性がのろのろとした動作でオートロックを解除する。
もし嫌ならここで帰されるだろう。
そう思っていたのだが、男性は六を追い返す気力もないようなので、乗りかかった船だ、と部屋に入るまで見届けることにした。
部屋の階を訊き十八階を押せば、エレベーターは静かに、なめらかに、上へ上へと昇っていった。
ガラス張りのエレベーターから見える街は、日付が変わってもなお明るい。でも、あの明かりの中に帰る場所はなく、六の心は先行き不透明な不安で真っ暗になっていた。
男性の部屋は、最上階の角部屋らしい。
千鳥足の男性を引きずるように、何とか部屋の前まで連れてきた。
「着きましたよ」
「……う」
声を掛けられ、男性がたどたどしい手つきでクラッチバッグを開けた。
あ、まずい。
声に出す前に鞄の中身はぶちまけられ、深夜の静まり返った廊下に落下音が響き渡った。六は急いで落ちたものをかき集め、泥棒のようで気が咎めたのだが、拾ったカードキーでドアを開けた。
ここまでおせっかいを焼いてしまったのなら、責任をもって最後まで面倒を見よう。
そう決めた六は、男性を玄関に座らせ荷物を置くと、苦しそうに眉を顰める男性の頬を、指先で軽く叩いた。
「まだ気持ち悪いですか?」
「……あ、の。吐き、そう……だから、離れて……」
「えっ!? 袋、袋……!」
男性は微弱な力で六の身体を離そうとした。でも、近くに吐瀉物を受け止められそうなものがない。
(ちょっと待って……! この人の着てる服、どう見てもめちゃめちゃ高いやつだろ……! どうしよう、どうしよう……。あ、そうだ……!)
六は急いでトレンチコートを脱いだ。
そして袖を男性の首に回して軽く結び、ハンモックのように広げた。その行動に驚いた男性はトレンチコートを外そうとしたのだが、力が入らず、ただ首元を引っ掻くしかできなかった。
「遠慮しなくていいですから、ここに吐いて!」
男性は最後の最後まで首を横に振っていたが、身体が言うことを聞いてくれなかったらしい。
今夜限りで、六のトレンチコートは着られなくなった。
男性は長谷川千冬というらしい。
吐いて意識がはっきりした後、土下座でもしそうな勢いで何度も謝罪され、そのときに名前を訊かれたので名刺を交換し、千冬の名前を知るに至った。
名刺には『株式会社trinken 代表取締役 長谷川千冬』と書いてある。これまでアルファらしいところがひとつもない千冬だが、やっぱりアルファだったんだな、と六は思った。
挨拶もそこそこに、千冬から「遅いけれどうちに上がっていってくれませんか」と申し出があった。
明日は土曜日で仕事も休み。宿なしの六にとってはありがたく、二つ返事でお邪魔することにしたのだった。
北欧デザインのあたたかな木製家具に囲まれたリビングで、六はマスカットフレーバーの紅茶をご馳走になっていた。
普段あまり紅茶を飲まない六だが、千冬が淹れてくれた紅茶は渋みもなく、鼻腔を抜けるマスカットの青く甘い香りが爽やかで実においしかった。外の寒さで身体が冷えていたこともあり、ついがぶがぶ飲んでしまったのはご愛嬌だ。
「藤原さん、ほんとうにありがとうございました」
キャメル色のレザーソファの上で紅茶の余韻に浸っていると、斜め向かいに座った千冬が、深く頭を下げた。
「いえ、とんでもない。あと……もしよかったら『六』と呼んで貰えませんか」
どうせもうすぐ離婚するのに、藤原の姓で呼ばれたくなかった。戸籍上は離婚しても苗字を戻さなくていいのだが、思い出すだけで腹が立つので、六は離婚が成立次第、至急旧姓に戻すつもりでいた。
「では、六さんで」
「……長谷川さんって、僕より大分年上ですよね? 敬語も使わなくていいですし、気安く六と呼んでください」
千冬はどれだけ若く見積もっても、六より十歳は上に見える。
それに、しがない中小企業で勤める六が、仮にも経営者である千冬から敬語で話されるのは、どうもむず痒かった。
「じゃあ、お言葉に甘えて六で。それなら、僕のことも千冬って呼んでくれるかな。こっちも敬語はいらないし」
「千冬さん?」
「千冬でもいいけど、流石にこんなおじさんを呼び捨てには、しにくいよね」
そう言って千冬が笑った。
目尻がふにゃりと下がる千冬の笑顔には、人をほっとさせる力があるのだろうか。家を出てからずっと強張っていた六の身体から、力が抜けていった。
(こんなアルファもいるんだなあ。翔もアルファらしくないっちゃないけど、光輝とは大違いだ。……くそ、また光輝のこと考えてる)
頭を振って光輝の影を追い払うと、六は千冬に訊ねた。
「千冬さんって、今日は体調が悪かったの?」
ずっと気になっていたのだ。ヒートにあてられたアルファは何度も見たことがあるけれど、千冬のように体調まで悪くなり、あまつさえ嘔吐してしまった人は見たことが無かった。
体調が悪いのなら長居するべきじゃない。そんな軽い質問だった。
「……いや、体調が悪かったわけじゃないんだけど」
「言いにくいなら、無理には訊かないけど」
千冬が言い淀んだので、六はすかさず返した。千冬よりずっと若いとはいえ六もいい大人だから、その辺は弁えている。
「六には迷惑をかけたから、ちゃんと話すよ。……恥ずかしながら、僕はヒート酔いする体質なんだ」
「ヒート酔い?」
そんな単語、聞いたことが無い。
六が怪訝な顔をしているのが分かったのだろう。千冬は静かに説明し始めた。
「ヒートにあてられると気分が悪くなって、船酔いしたような症状に陥る。……医者には精神的なものだと言われているけど、アルファなのにヒートを受け付けないから、四十三にもなって独り身なんだよね」
千冬は恥ずかしそうに頬を掻いた。
アルファとオメガの未婚率は、ベータに比べてずっと低い。アルファの子はオメガでないと授かりにくいし、オメガだってアルファがいなければ発情期に苦しみ続ける。だからアルファとオメガの結婚観は、ベータとはまるで違うのだ。ベータなら千冬と同年代の独身も珍しくないが、アルファでは滅多にいなかった。
(なるほど。だからこの広い部屋に、ふたり用の物がひとつもないのか)
独身のアルファなら、オメガもベータも選び放題だろうに。六はすこし同情を覚えた。
六も気の迷いで光輝と結婚したけれど、本来の性的指向を考えれば、ベータ女性と付き合うのが順当な気がする。とはいえベータの女性が、アルファの男と結婚歴のあるベータの男と、付き合ってくれるとは思えなかった。
ベータはヒートに左右されないから、ベータはベータ以外と結婚したがらない傾向にある。
事実、六だってアルファとオメガの関係に巻き込まれ、家を追い出される羽目になったのだから、その判断もあながち間違いとは言えないだろう。ベータにはアルファとオメガの関係性に憧れる者も多いが、あくまで物語を外側から見た感情に過ぎない。
だけど、惹かれてしまうのだ。アルファの輝きに。オメガの美しさに。
理想と現実は、大きく乖離していると知っていても――。
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