5 仔ヤギ

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5 仔ヤギ

(りく)、好きだ』  ――ああ、光輝(みつき)。オレだって大好きだ。 『一生幸せにするから、結婚してくれないか』  ――嬉しい!  でも、なぜだろう。光輝の言葉が信じられないんだ。  なあ、いつもみたいに力いっぱい抱きしめて、すべてを溶かすような熱いキスをしてくれないか。それならきっと信じられる。  オレはお前を信じたい。信じたいよ、光輝――。   「――六、起きて」 (今日は随分かわいい起こし方をするなあ。そういえば、今週の土曜日は映画を見に行く約束をしていたんだっけ。光輝の好きな、山場がどこだか分からないフランス映画のリバイバル上映。そういや、新しくできたセレクトショップも見たいって言ってたよな)  くすりと笑って、体を起こしてから声の主の首に腕を回し、六は朝のキスをした。 「光輝、おはよう」 「六、相手を間違えてるよ」 「え? おわっ……!? ち、千冬さん……!」  実際は、しようとしたが千冬の掌が六の唇を止めたので、未遂に終わった、といったほうが正しい。  ここは、千冬が住むマンションのゲストルーム。客人用のベッドで寝たのだが、たいそう寝心地が良かった。だから、六はすっかり忘れていたのだ。  ――昨夜、光輝に運命の番が現れて、棄てられたということを。  にもかかわらず、変わらない日常を描こうとする自分がどうしようもなく憐れでみっともなく、たまらず六は俯いた。それだけじゃなく、千冬にキスしようとするなんて。恥の塗り重ねでいたたまれなくなり、六は現実逃避がてら、泊まったいきさつを思い出していた。    ***   「変な話を聞かせて悪かったね。……もう二時か。遅いし、今日は泊まっていったらいいよ」 「へ?」  素っ頓狂な声が出た。いくら恩があると言ったって、あまりにも無防備すぎやしないだろうか。ファミリーマンションとはいえ、最上階に住むような人がそんなことではいけない。だから断ろう。  でもどこか抜けた雰囲気を持ちながらも、千冬は案外目ざとかった。 「だってその荷物、家出でしょう?」  宿を取るにしても遅すぎるし、スーツを着てないから出張ってわけでもなさそうだし、と千冬は続けた。 「う……。そう、だけど。追い出されて、帰る家が無いっていうか……」  こんなことを話すつもりはなかったのに、不意打ちを食らったせいで、うっかり口を滑らせた。改めて言葉にしてみると惨め極まりないが、紛れもない事実だ。  怒りと悲しみの勢いで家を飛び出したはいいものの、後先を全く考えていなかったので、その提案はとてもありがたい。図々しいとは思いながらも、泊めてもらおうか、と気持ちが傾きかけていたところに、千冬のもう一押しがあった。 「僕が六のコートを駄目にしちゃったしね。それに、いまから外へ出たら寒いよ?」  それもそうだ。コートを着ていても寒かったんだから、無ければもっと寒いだろう。折角淹れてもらった紅茶で温まったのに、また体を冷やすことも無い。  脳内で言い訳を連ね、考えた結果、六はようやく「お願いします」と頭を下げたのだった。    *** 「六?」  気遣わし気に声を掛けられ、はっと意識を取り戻した。 「あ、ごめん……」 「僕を誰と間違えたの? 家出の原因、その人でしょう」  優しげな顔と話し方の割に、千冬は臆さずはっきり訊いてきた。  だが不思議なことに、嫌ではなかった。腫物のように扱われるより、こうやって遠慮なしに訊かれた方が楽だったのだ。 「……あんまり楽しい話じゃないけど、聴きたい? オレ、途中で泣くかもしれないよ」  あれから丸一日も経っていない。  光輝につけられた深い傷は、かさぶたになるどころか膿むことさえできず、血を流し続けている。  いっそ、恨んでしまいたい。恨んで、一生光輝に囚われ続けるのも、ある意味で幸せなのかもしれなかった。  でも、自分を切り捨てた人間の影を追って生きるなんて、プライドが許さない。六は渦巻く複雑な感情を鼻で笑うと、目の前の千冬を見た。  千冬はこれまで出逢ったことのないタイプのアルファだ。特にヒート酔いなんて聞いたことがなかったし、間違いなくデリケートで個人的な問題だろう。  それを千冬は「迷惑をかけたから」という理由だけで、初対面の六にしてくれたのだ。  だから六も誤魔化さずに話したくなった。  光輝から一方的に棄てられた日に、千冬が誠意を持って話してくれたことは、六にとって、とても幸運なことのように思えたから。  ちいさく息を吸って覚悟を決めると、千冬のあたたかいセーターのようなやさしい灰色の瞳を、じっと見た。 「オレは昨日、籍まで入れたパートナーに運命の番が現れて、棄てられたんだ――」  憐れな出来事だとしても、嘘はつかない。  なぜならひとつ嘘をつけば、嘘を繋ぐために、また嘘をつかなければならないからだ。  この人は信頼できると直感していたから、嘘はつきたくなかった。  だって千冬は、一度も六の話を遮らなかった。六が泣いても、ただ、静かにタオルを渡してくれた。  きっと千冬は別れの痛みを知っているのだ。胸を掻きむしって、そのまま死んでしまいたいほどの、痛みを。 「――ってな感じで、現在に至る。……わかった?」 「わかった。じゃあ、六は今日からうちに住んだらいいよ」  どういう結論を出したらそうなるのだろう。心の中でずっこけた。 「……千冬さん、ほんとうにわかってる? オレ、まだ既婚者なんだよ?」  千冬がベータの、それも男の六をどうこうするとは思えないが、一応伝えておかなければならない。何かあったとき、立場が危うくなるのは千冬なのだから。 「でも、向こうが出て行けって言ったんでしょう? なら、六も好きにしたらいいんじゃないかな。僕はいざというときに頼れる弁護士の友人がいるから、大丈夫だよ。だから六はここで暮らすこと。はい、決まり」  すらすら言われ、「じゃあいいかな」と納得しそうになった。やはり経営者だけあって、人を丸め込むのが上手いようだ。 「いやいやいや、おかしいって。……何で、そこまでしてくれんの?」 「トレンチコートのお詫び。あとは、そうだね……」  千冬は六に近づくと、肩に手を置き、六の藍色の瞳にその姿を映した。まつげの瞬きが感じられるほど接近され、六は困惑してしまった。  「寝起きの六が可愛かったから、かな。……油断してると悪いオオカミに食べられてしまうよ、仔ヤギちゃん」  そう言って、千冬が六の額にキスをした。
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