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6 読み違い
土曜日の昼前。駅前のファミリーマンションに、乾いた打擲音が響いた。
「い、いきなり何すんだ!」
それは六が千冬の頬を打った音で、ぶたれると予想していなかった千冬も目を白黒させている。
「そういうことなら、絶対に住まない!」
頬が怒りで紅潮し、不意打ちのキスに動揺して涙が滲んだ。それでも六は怯まず、千冬を睨みつける。
突然ぶたれた千冬は驚いて頬に手を当てたが、気が立った六を見て、人の良さそうな表情を引っ込めた。
そして思わず見惚れてしまうような、艶っぽい笑みを浮かべてみせたのだ。
「――そう? 六にとって、悪い話じゃないと思うけど」
すこし前までの優しげで柔らかな空気を纏った千冬はどこへ。
混乱で目が回りそうだった。
それにどうして千冬は、さっき叩かれたばかりだと言うのに、また距離を詰めてくるのだろう。
「千冬さん、オレ、アルファの男なら誰でもいい尻軽じゃねえから……!」
千冬から顔を背けて抗議したが、千冬の豹変についていけない六の顔は真っ赤になっており、あまり意味をなしていなかった。
「でも、この家なら六のオフィスまで歩いて行けるから、定期代もかからないよ?」
名刺なんか交換するんじゃなかった。そのせいで、職場の場所まで把握されている。
(誰だよ、千冬さんのことをアルファっぽくないとか言ったやつ……!)
第一印象だけで千冬の人物像を決め付けた、単純な自分に腹が立った。
外堀を埋め、有無を言わさず了承させようとする千冬は、他者のコントロールに長けた敏腕なアルファそのものではないか。
「それにね、六。君はいま、ひとりでいるべきじゃない」
「――え?」
いきなり真剣な色が宿った千冬の声に、六は虚を突かれた。
「僕は、愛を失った悲しみに唆されて、首をくくった人を知ってるよ」
翔に同じような心配をされた時は、冗談もほどほどにしろ、と笑っていた。
けれど、六に死を選ぶ意思がなくても、「唆されて」しまったらどうなるのだろう。もし、たまらなく嫌なことがあって、そのときに光輝に棄てられたことを思いだしたら――。
ざあっと血の気が引いた。
生と死は非常に危ういバランスの上に成り立っていて、今日生きている人間が明日生きている確証など、どこにもない。死は時に甘美な誘いだ。己の苦しみを断ち切るため、命をも絶ってしまうなんて話は、古今東西溢れかえっている。
今の六の精神は、薄氷と違わない。一見きちんと固まっているように見えるが、ふとしたことで割れてしまうくらい脆くなっている。それこそ、きっかけさえあれば簡単に「唆されて」しまうくらいに。
千冬に言われるまで、人間の心の弱さを甘く見ていた。無意識のうちに生死の境が曖昧になりかけていた自分に気付き、六の手は震え出した。
「だから一緒に暮らそう、六」
まるで子を案じる父親のような千冬の口調に、六は言われるがまま「はい」と返していた。
「それに六が嫌なら、手は出さないよ」
シリアスな雰囲気を拭い、千冬は目尻が下がる特有の笑みを見せた。
「……嘘ばっかり。さっきオレにキスしたの、どこのどいつだよ」
「アルファの配偶者がいた割には、随分蒲魚ぶったことを言うんだね。この歳の男の『手を出す』が、キス程度で終わると思う?」
千冬に顎をすくわれ、睫毛の長いグレーの瞳と目が合った。
このままだと、またキスをされてしまうかもしれない。
二度もキスされてたまるか。六は接近する千冬の腹部に、ボディブローを決めた。
「――いっ……てえ! 千冬さん、腹筋に鉄板でも仕込んでんの!?」
殴ったのは六だ。けれどダメージを受けたのは、千冬ではなく、六の拳だった。
「はは。ここ数年、恋人もいなくて暇だったから、身体を鍛えるのにハマっちゃって」
育ちの良さを感じる優しげな笑顔を見せる千冬という人は、ことごとく六の想像を裏切ってくれる。
思えば、光輝だってそうだった。
初めはただの偉そうな奴にしか見えなかったのに、意外と無邪気でかわいいところがあったのだ。抱き枕が無ければ寝られない、と、六を抱き締めて寝ていた光輝は、昨晩よく眠れただろうか。
(……馬鹿。光輝にはもう、オレなんか必要ないんだっての……)
隙あらば光輝のことを考えてしまう。六は呆れのため息をついた。
こんなの、自ら傷を広げているようなものだ。
「それにね、六。愛で空いた穴は、愛で埋めるしかないんだよ?」
黙り込んだ六に、千冬は使い古された口説き文句で迫った。
本人も笑ってしまっているから、性質の悪い冗談なのかもしれない。
「簡単に言うけどさ。千冬さん、オレを抱けるわけ? アルファと結婚してたから、後ろに挿れてもらわないと満足できないんだけど」
――嘘だ。ほんとうは、セックスなんか好きじゃない。
抱かれていると、光輝が過去に付き合っていたオメガたちを、意識せずにはいられなかった。
それに、光輝はただの一度も六への前戯をしたことが無い。いつも六が自分で慣らした後孔を、犯すように抱いた。普段は温かく優しく抱きしめるのに、夜だけは違う。義務でもこなすように抱く光輝が嫌で、六はセックスが嫌いになっていた。
でも、アルファなんてそんなものだと思っている。
千冬だっていくらヒート酔いするからといって、アルファの女性やベータの女性という選択肢もあるのに、わざわざベータの男である六を選ぶ必要がない。
だからわざと千冬が怖気づくようなことを、言ったつもりだった。
「……へえ、それで牽制してるつもりなの。かわいいね」
完全に読み違えたらしい。六は逃げる暇もなく、千冬に抱き締められていた。殴られないよう、ご丁寧に腕まで絡められている。
「――いいことを教えてあげる。僕の恋愛対象は、ベータの男性だけだよ」
衝撃の事実を耳元で囁いた千冬は、そのまま六の耳殻を食んだ。
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