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7 あなたに暖かいコートを
「ぜ、全然、いいことじゃない……」
むしろ身の危険が増したのではないか。
(どうしてオレは、アルファの男にばかり言い寄られるんだろう)
六はげんなりしていた。
過去にもアルファ男性と結婚しているベータ男性が珍しいのか、興味本位で誘われたことが何度かあった。大体は「オメガの代わりに抱くくらいだから、よっぽどあっちの具合が良いんだろう? 俺にも試させてよ」などという、非常に侮辱的なものだったが。
「手を出さないって約束したから、今日はここで終わりにしてあげる」
抱き締めておいてそんなことを言うのだから性質が悪い。千冬はつり目がちの瞳を弓なりに細め、六の身体から離れた。
好き勝手に翻弄され、六の中にふつふつと怒りが湧いてくる。
「……あのねえ、千冬さん。耳を噛んどいて、手を出してないって!? やっていいことと、悪いことが――」
「はいはい、わかったから。出かける準備しようね」
話の腰を折られ、呆気にとられた六が大人しくなる。
これ幸いにと、千冬は六の首に外套掛けから外した黒いカシミアのマフラーを巻き付けた。そして千冬もチャコールグレーのチェスターコートを着込み、六の腕を引っ張って玄関へ歩き出した。
「ちょっと待って。出かける? どこへ?」
千冬の纏う特有の雰囲気は、どうも毒気を抜かれていけない。
「同居記念にランチを食べに行こう。さ、行くよ」
こうやってベータの男を誑かしていたのだとしたら、末恐ろしい。
何が嬉しいのか、千冬はご機嫌そうに革のキーホルダーのついた車のキーをくるくる回している。
千冬はいまいち掴みどころがない。無害で穏やかな顔と、色香の漂う雄の顔、どちらが本性なのだろうか。もしくは、どちらも本性なのだろうか。まだそれを判断できるほどの材料を、六は持っていなかった。
それにしても、千冬は光輝と一致する部分がまるでない。
光輝は良く言えば素直。悪く言えば単純で、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、と非常にきっぱりした性格だった。だからこそ無慈悲に六を切り捨てたのだが、六はそんな光輝の子供じみた部分が、かわいくて好きだったのだ。
でも、光輝は六を裏切った。運命の番とどうするのかは知らないし、知りたくもない。
六は荒んでいた。だから今の六には千冬が必要だった。決して悲しみに唆されないよう、見守ってくれる相手が――。
ふたりは地下にあるマンションの駐車場へ降りた。アルファの社長だから高級車に乗っていると思っていたが、意外なことに千冬の車は米国産のSUVだった。
男子なら一度は乗ってみたいと思う車を目の前にし、六の瞳が輝き出す。
「うわ、格好いい~! 内装こんな感じだったのか、お洒落だな~。一回でいいから乗ってみたいと思ってたんだよ」
「喜んでいただけて光栄です。じゃあ、出発するから、シートベルトをしっかり締めて下さい」
「はーい。安全運転でお願いします」
「かしこまりました」
憧れの車に乗ることが出来てすっかり上機嫌になった六に、千冬もくすくす笑っている。
そして六がシートベルトを締めた後、車はビロードの上をすべるように走りだした。
やってきましたは老舗百貨店、〈今川屋〉。
今川屋は古い建物をうまく残しつつ、革新的なファッションブランドを取り入れた、グルメにも強い店百貨店だ。一風変わったアプローチが得意な今川屋は、顧客を若返えらせた成功モデルとして、テレビや雑誌の取材を何度も受けている。
実は六も若返り顧客のうちのひとり。
とはいえ、あくまでボーナスが入ったときに、贅沢で訪れる特別な買い物をするための場所だ。
光輝は国内有数の大手問屋〈藤原商事〉の御曹司で、本人も優秀な営業だったので「俺が好きなものを買ってやるのに」と不満たらたらだったが、六はこれまで培ってきた経済観念を捨てる気になれず、ふたりで使うものや記念日のプレゼント以外は、出来る限り自分で買っていた。
光輝は六の庶民的な感覚が理解できないようだったが、今となっては、それでよかったと思っている。
分かり合えた数が多ければ多いほど、六の傷は深くなってしまうのだから――。
「――で、千冬さん。これは、どういうことだろう?」
食事に行くと思っていたのに、六は五階のメンズ服売り場でステンカラーコートを試着させられていた。しかも六が「一生モノの買い物」だと、覚悟を決めなければ入れないような店で。
「うん、うん。似合ってる。済みません、これを着て帰るので、そのまま渡してもらえますか?」
「かしこまりました。こちら新品のものがございますので、そちらをお持ちいたします」
『千冬さん、オレ、こんないいコート買う余裕ないよ!』
在庫を取りに行った店員に聴こえないよう、六は極力小さな声で異議を申し立てた。
だが千冬はにこにこ笑顔のまま、いいから、と言った。
――もしかして千冬は、悪徳商法集団の親玉なのだろうか。そんな考えが浮かんでは消えていく。
「大丈夫、六に払わせたりしないよ。コートを駄目にしてしまったお詫びだから。受け取ってね」
それはそれでとんでもない。
叫び出しそうな気持をぐっと抑え、六は肘で千冬の脇腹をつついた。
『いや、それなら、元のコートと同じブランドで良いからさ……!』
弁償してもらえるのは有難いが、あまりにも高価すぎた。
確かに六の着ていたトレンチコートはこのブランドのセカンドライン、つまり似たデザインのものを半額以下の値段で売っているショップの物だった。だから今試着しているコートが六好みのデザインで間違いない。それを分かっていて、ここへ連れてきたのだとしたら、千冬の手腕はじつに見事だった。
しかし一応まだ戸籍上は既婚者の六が、他人からそんな高価な贈り物をもらうわけにはいかない。
事実を述べて抵抗してみたが、時すでに遅し――。
六に気付かれたら受け取ってもらえないと分かっていたので、千冬はしれっと会計を済ませていた。
「長谷川家には『恩は倍返し』って家訓があるの。だから気にしなくていいよ」
「ふつう、気にするって! しかも倍どころか、三倍返しじゃん……」
千冬は優しいけれど強引だ。そこだけは光輝と似ているかもしれなかった。
勝手なことだが、似た部分がひとつもあって欲しくなかった。そんな風に思うのは、昨夜出逢ったばかりだというのに、もう千冬を信じようとしているからなのだろうか。
ただ、ひとつ疑念があった。
千冬はヒート酔いするからオメガと付き合えないというが、「運命の番」ならどうなのだろう。
光輝だって、運命の番が現れるまでは、世界中の誰よりも六を大切にしてくれていたのだ。
(どうせ後で裏切るんなら、最初からβに立ち止まったりしないでくれよ――)
恐縮したものの、憧れのコートを贈られて嬉しくないわけがない。
それなのに、六の心はちっとも晴れなかった。
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