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8 αはΩとのみ番う
日曜日の晩。翔は光輝を個室の居酒屋へ呼び出していた。
壁が薄いせいか、隣の部屋の楽しそうな笑い声が聞こえる。光輝が騒がしい場所を好まないのはよく知っているが、話す内容が内容だけに、静かな店は憚られたのだ。
外の騒がしさと対照的に、ふたりの間には重い沈黙が流れていた。
仕事終わりの翔は「生ビールを一杯」と言いたいところだったが、光輝とふたりきりで酒を飲む気なれず、ジンジャーエールを頼んだ。
注文を済ませて、しばらくしてから料理がやってきた。ふたりは黙って飲み物で喉を潤し、タイミングを見計らって、翔が光輝に話しかけた。
「――光輝くん、何で呼び出されたのか、分かってるよね?」
滅多なことがなければ怒ったりしない翔だが、今回ばかりは話が別だ。
いくら幼馴染だからといって、勝手な都合で親友を棄てたことは許せない。翔は何事も無かったような涼しい顔で向かいに座る光輝を睨みつけた。
「おい、翔。六は今どこにいる」
まさか開口一番に六の所在を問われるなどと思わず、翔は面食らった。
「……キミが追い出しといて、それを訊く? 知らないし、知ってたとしても教えないよ」
それ以外に言うことはないのか。翔の下瞼がぴくりと痙攣した。
元々、六は複雑な家庭環境で育った過去から、先行きが見えないアルファ男性との結婚に二の足を踏んでいた。
だから翔も口を酸っぱくして、決して無理強いするな、と光輝へ忠告していたのだ。自分を犠牲にしてでも人を助けてしまう、六の優しさに付け入る真似はするな、と。
「りっくんの居場所を知って、どうするつもり? 光輝くんは『運命の番』を見つけたんでしょ?」
「六の住む場所は俺が決める。その話をする前に、あいつが怒って出て行ったんだ」
「……光輝くん、本気? キミが『出て行け』って、言ったんじゃないか。だから、りっくんは――」
背筋に悪寒が走った。
翔が記憶している光輝は、多少俺様な気質ではあったが曲がったことが大嫌いな正義漢で、こんなおぞましい発言をするような男ではない。真綿にくるまれた宝石のように六を大切にしていた光輝には、六を飼い殺すことがどれだけ残酷なのか分かっているはずだ。
運命の番と六、どちらも手に入れようなど、そんな都合のいいことが許されるわけがない。
光輝が悪いと弾劾してしまえばいい。そう思うのに、いつも過剰なほどの眼光を放つ光輝の瞳が絶望に似た暗い色をしていたせいで、どうしても言えなかった。
(この前のりっくんといい、光輝くんといい……。ふたりとも、らしくない)
翔と光輝の関係は二十年以上前に遡る。ふたりは後に進学し六と出会う、大学付属の幼稚園に通っていた。
入園したての翔は、家柄がそこそこで身体も小さかったせいか、九割アルファの環境でいじめの対象にされていた。それも賢いアルファの子供がすることだったので、おおっぴらではなく陰湿な方法で。
持ち物を隠されるのは日常茶飯事。絵本を読んでいたら「ぼくもそれよみたい」と言われ、「いま、ぼくがよんでるから」と返せば翔が奪ったことにされた。気弱で優しい性分の翔は先生や両親に相談できず、いじめっこが飽きるのをじっと待つ日々を過ごしていた。
それに変化が訪れたのは年中に上がり、恒常的ないじめに慣れ切って、心が麻痺し始めていたころ。
『おまえ、いじめられてるのか?』
『う、うん……』
『なら、おれのそばにいればいい。よわっちいやつなんか、おれがおっぱらってやる!』
『……? よわっちいのは、やめて、っていえないぼくだよ……?』
『ばかだな。ひとりでがまんできるやつが、よわっちいわけないだろ』
誰も翔のことなど見ていないと思っていたのに、光輝だけはいち早く気付いてくれた。弱くないと言ってくれた。それが単純に嬉しかった。
藤原商事の御曹司に手を出す人間はいない。幼いながらも、光輝は自分が他者より圧倒的優位な立場だと知っていたのだ。
その日から翔にとって、光輝はヒーローのような存在だった。
だから六との結婚を反対しながらも、心のどこかでは「光輝なら必ず六を幸せにしてくれる」と絶対的な信頼を持っていたのに――。
『……なあ、翔。運命の番って何? オレとの八年間を一瞬で捨てられるくらい、抗えない本能なのか?』
六の言葉が甦る。
(そうだよ、りっくん。これは間違いなく「本能」だ……)
翔は運命の番に出逢っていない。だから光輝の気持ちはわからないが、今日話してみて、光輝を突き動かしているのは運命の番への情炎ではないのでは、と思い始めていた。
――今の光輝はまるで、子孫を残すためだけに目の前の雌と交尾する昆虫と同じだ。
アルファとオメガの契約関係は強固だ。特にオメガにとっては、相手が生きている限り逃れられない呪いじみたものだろう。だが対のアルファも支配欲が強い人間が多く、うなじを噛んで番となったオメガのことを生涯愛する人間が大多数を占めている。
だからアルファとオメガは固い絆で結ばれるのだ。
しかしその関係性に、「運命」という人知を超えた力が、横槍を入れたら?
翔も瑞希を棄てようとするのだろうか。一生を懸けて守りたいと願う、最愛の妻を。翔の理性を奪う甘い梔子の香りを漂わせる、たおやかで芯の強い彼女を。
こればかりは、出逢ってみなければ分からないだろう。
ほんの二日前、六に「瑞希を棄てたりしない」と豪語した翔だったが、光輝を見てその自信が揺らいでいた。
光輝を一発ぶん殴ってやる、と息巻いていたはずなのに、到底そんな気にはなれなかった。
「……光輝くん。りっくんはキミの所有物じゃない。運命の番を選ばずにはいられないのなら、ちゃんとけじめをつけてあげて」
「……」
翔は静かに、ゆっくり、諭すような言葉を紡いだ。
光輝は決して頷かなかったが、絞り出すような声で、ぼつりと呟いた。
「……初めからベータと結婚すべきじゃなかった」
「やめてよ! キミとりっくんは見てるこっちが恥ずかしくなるくらい、仲良しだったじゃないか……!」
六への執着を見せたと思えば、ベータである六を否定する。
これ以上幻滅したくない。翔は大声で光輝の言葉を打ち消した。
そう、初めからベータと結婚すべきじゃなかった。
六を傷つけてしまうくらいなら、俺たちは出逢わない方が良かったんだ。
アルファはオメガとしか番えないのだから――。
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