787人が本棚に入れています
本棚に追加
9 僕を見て
木枯らしが枯葉を舞い上がらせる、月曜日の朝。六は勤務先の〈杣商会〉への道のりを歩いていた。
千冬のマンションから職場まで、歩いて二十分ほど。初めての徒歩出勤なので、余裕をもって三十分前には家を出た。
会社の始業時間は九時。だが総務部所属の六はいろいろ用意しなければならないことも多いので、いつも八時半までに会社へ着くようにしていた。
本格的な冬が始まる前の木枯らしはどこかまだ幼く、六の肌をちくちくと刺激して去っていく。六は千冬から半ば押し付けるように贈られたステンカラーコートに触れ、ため息をついた。
(……はぁ。ぱりぱりして薄いのに全然風を通さない。そりゃ、前に着てたコートの三倍の値段だもんな……。……オレ、何であんな約束しちゃったんだろう……)
***
コートを購入した後、ふたりは今川屋の十二階にあるフレンチレストランでランチを楽しんでいた。
夜景の見える小洒落たレストランはディナーだと予約しなければ入れないが、昼時はそこまで混んでいない。それにランチタイムはコースメニューをハーフポーションで提供してくれるから、軽くフレンチを楽しむのにも好都合だった。
さといものポタージュ、燻製鴨と柿のサラダ、鮭のブイヤベースに、林檎のソースがかかった牛フィレ肉のポワレ。デセールは紅茶と柘榴とダークチョコレートが三層に重なったムース、と、ハーフポーションといえどランチにしては豪勢だ。
色々あってお腹が空いた六は、日本人向けに味付けされた色とりどりの料理に舌鼓を打っていた。
「六はおいしそうに食べるね」
「そりゃ、おいしいもん。野菜も魚も肉も、全部おいしかった……」
おいしいものを食べて笑顔になっている六に、千冬が優しく微笑みかける。
六は「子供っぽい」と言われた気がして恥ずかしくなり、プティフールの小さなマカロンを口に放り込んだ。
「……千冬さん。コートの差額は絶対に返すから、あとひと月待ってくれる?」
今日は十一月十一日。そしてひと月後の十二月十日が、杣商会のボーナス支給日だった。
六は普段、給料から生活費・交際費にすこし色を付けた分だけを残して、あとはすべて定期預金と投資に突っ込んでいる。だからすぐに使えるお金がそこまで多くない。毎週友人と飲みに行くくらいの余裕はあるが、急な出費には対応できない。それが六の現状だった。
こつこつ積み立ててきたので預金額は少なくないが、母子家庭で苦労したこともあり、預金には絶対手を付けないと決めている。借りを作りたくない気持ちもあるけれど、千冬が強引に購入したのだから少しくらい待たせてもいいだろう、と居直ることにした。
「返さなくていいよ。僕が六に着て欲しいな、って思っただけだから」
「そういうわけにもいかないって。恋人でもないのに……」
そもそもオレまだ既婚者だし。六は続けた。
「うーん……。六が既婚者だとかそういうのは置いておいて、僕は六が好きなんだけどな。それでも、だめ?」
「……は!?」
六は耳を疑った。
(今、千冬さんオレのこと好きって言った? オレたち、昨日逢ったばっかじゃないっけ? それともなに、ラブじゃなくてライクってこと?)
千冬はことごとく六を驚かせてくれる。考えれば考えるほど、六は思考の坩堝に落ちていく。どう返したものか頭を悩ませていれば、ふとテーブルに置いた手の甲が温かくなった。
手を握られた、と気付いた六が目線を上げれば、千冬の熱っぽい瞳と目が合った。
「六、好きだよ。……もしかして、冗談だと思ってる?」
「――あ、の。……うん。ごめん、思ってる」
いきなり言われて信じられるわけがない。あの自信の塊のような光輝でさえ、六に好きと言うのに一年以上かかったのだ。
だから昨日会ったばかりの人間に好きだと言われても、嬉しさよりも困惑が勝ってしまう。
「本気なのになあ。……そうだ。昨日の僕を、ベータの女の子に置き換えて考えてくれないかな?」
「昨日……?」
ベータの女の子ってなんだよ、こんな大きなベータの女の子がいてたまるか。
千冬の言葉で笑いそうになりながら、六は昨夜のことを思い返した。
まず、ヒート酔いで倒れそうになった千冬を助けた。これが最初のはずだ。それから、あんまりにもふらふらしていたので、家まで送り届けた。更に六は自分のコートを犠牲にしてまで、千冬と千冬の服を守った。
「これがベータの女の子なら、『私の王子様かも』って思わないかな?」
「ははっ、王子様って……! しかも千冬さんベータの女の子じゃないし!」
王子様なんて柄じゃない。それに、その配役で行くと千冬が姫になる。
白タイツを履いた六がドレス姿の千冬をエスコートする姿を想像してしまい、六は耐えきれず噴き出した。
「物の例えだよ。でも、必死で僕を守ろうとしてくれた六を好きになっても、自然じゃない?」
千冬の目はまるで恋する乙女のようだった。
人を好きになるきっかけなど、本人にしか解らない。六だってそれを知っているから、笑ってしまったものの、何も言えなかった。
「……困らせているかな?」
「ちょっと……。でも、ありがと」
六は光輝を愛している。それは嘘じゃない。でも、昨日の朝と同じ気持ちかと訊かれると、否だった。
他人より少しばかり自己犠牲の精神が強い六ではあるが、説明もなく一方的に自分を棄てた人間を想い続けられるほど健気ではないし、盲目に愛し続けられるほど若くもなかった。
――愛で空いた穴は、愛で埋めるしかない。
千冬の言葉は月並みだが普遍的だ。確かに、愛の喪失感は愛でしか補えないだろう。だからぼろ雑巾のように棄てられた六のことを、千冬が「好き」と言ってくれたお陰ですこし救われた。
だからうっかり、要らぬ約束をしてしまったのだ。
「なら、年末までに六が僕を好きになってくれたら、コートのお代はいらない。好きになれなかったら、差額だけ払ってもらう。これでどう?」
「……いいけど」
冷静になって考えてみると、この時何も考えずに返事をしたのが良くなかった。
「――いいんだね? じゃあ、僕は全力で六を落としにかかるよ。君が『手を出してもいい』って言うまでずっと、愛を贈り続けるから」
千冬は切れ長の目を細めた。
そしてずっと握りっぱなしだった六の手を口元へ引き寄せ、筋っぽい手の甲に、熱い唇を落としたのだった――。
最初のコメントを投稿しよう!