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「お奉行を呼べ!――」遠山の声が桜吹雪のなかに反響していた。
歓喜する人々が自分の名を連呼し熱気の最高潮に達する場から,世綱は富洼の手を引き駆け出していく。
桜並木の闇に浮かぶ往来で立ちどまり,同じ場所で1年前に告げられなかった言葉をぶつける。「おまえと腹の子供のために安定した仕事に就くよ――結婚してくれ!」
富洼が感涙にむせび,世綱の胸に飛びこんだ。世綱は富洼の油分の足りない赤茶けた髪を撫で,己の不甲斐なさを詫びた。「きれいな髪だったのに,僕のために苦労させたな……これからは大事にするから」そう呟き,両眼を静かに閉じた。
「かわいそうに――俺の髪を,好きな女のそれだと思ってんだろうぜ」世綱の今夜の対戦相手ジョーが言った。「八百長でもして花を持たせてやるつもりが,いいパンチが入っちまった」
ジョーの縺れる髪に指を絡める世綱の手がリングに落ちた。
「おい,お奉行はまだか!?」レフェリーの遠山が再度叫んだとき,腰のひどく曲がった老人がよろめきながら近づいた。ジョーと遠山に担ぎあげられてリング内に入ると,老人は世綱の脈をとり,首を横に振った。
「噓だろ,奉行先生!――」遠山が顔面を突き出した。
「今夜の試合はお開きじゃ――リングドクターの儂が言うんじゃて」奉行が赤い鼻をふくらませた。
「でもよ,世綱は女にいいとこを見せたいって言ってたぜ。何とか正気づかせてやれねぇかい? そのうち女も来るかもしんねぇ」ジョーが懇願する。「女に招待状を送ったけど,見にくるかどうか分かんねぇって気も漫ろだったよ! 客席ばっか見回して集中できねぇみてぇだったし!……」大袈裟に肩をすくめ,両腕をあげてから涙ぐんでみせる。
「運営上あと30分は持たせないと困るんだよ」遠山が奉行に聞こえる程度の音量で囁いた。
「無理じゃ,無理じゃ!――死によるぞ! 試合を続行させるかどうか判断するのはリングドクターじゃ! 魂と魂のぶつかりあう神聖なリングを司り,真に守っておるのはレフェリーでも何でもない――儂らリングドクターなんじゃ!」
会場に疎らに座る観客の1人が尋ねた。「舞姫ショー,まだ? 煽情の女王ブンブンコちゃん,出るよね?――」
「仕方ない,女の子たちにどうにかしてもらうか……」遠山が頭を搔けば,ジョーは舌打ちする。「終わりかよ……もうちっと目立ちたかったぜ」
ジョーが世綱を抱いてリングから退場していく。その傍らで,遠山は周囲のロープを手早く取り外し「春雷の左腕,世綱引退試合」という垂れ幕をめくって次の演目を音吐朗々たる調子で読みあげた。
「儂もリングからおろさんかい!――」リング奉行こと奉行先生が甲高い声をあげるなり,会場一杯に七色の光線が駆け巡る。観客たちが一斉にわいた。
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