幼馴染みと元サヤ婚約破棄

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 私とマイルズ・ブラックリーが婚約をしたのは、お互いがまだ四歳の時だった。  家が近所である私たちは親同士の交流もあり、この日も私たちは二人で元気に遊んでいた。  ブラックリーの庭は、うちと違ってたくさんの植物が植えられている広い庭だ。そこで私ははしゃぎすぎて、転んでしまった。 「ええん、いたぁい!」 「ルーシャ、だいじょうぶ? ぼくがおぶってあげるよ」  そう言ってくれたマイルズの背中に、私は自分の体を預けた。その瞬間、マイルズの体は前のめりに勢いよくベシャッと潰れる。 「うぎゃああ、いだぁぁああい!!」  マイルズは膝と頭から出血して大泣きを始めた。  私はその泣き声と流れる血に驚いて、逆にマイルズを背負ってブラックリー家に入る。  伯爵家の一人息子であるマイルズが怪我をして、屋敷は騒然となった。  中でお茶をいただいていた私の両親がやってきて、マイルズの姿を見た瞬間、ブラックリーの当主と夫人に土下座する勢いで頭を下げる。 「娘のルーシャが、申し訳ありません!!」  そうして私も頭をぐいっと押されて謝る形となった。私のせいじゃないと言いたかったけど、マイルズを押し潰してしまったのは、間違いなく私だったわけで。 「顔に傷が残ったらどうしましょう」  とオロオロするブラックリー夫人に、私は言った。 「わたしがせきにんをもって、マイルズをしあわせにします!!」  と──。  *** 「おじさまもおばさまも、鵜呑みにしちゃうんだもんなぁ……」  私は自室で当時のことを思い出しながら、ハァっと息を吐いた。  ノリの良いブラックリー伯爵と、おっとりした伯爵夫人は私の言葉を聞いて、たいそう楽しそうにこう言ったのだ。 『じゃあマイルズの婚約者になってもらおうか』 『まぁ、それはいい考えですわね。ルーシャ、マイルズをよろしくね』  おばさまの言葉に『まかせてください!』と胸を張った過去の自分を殴ってやりたい。  貴族といっても、うちはお父さま一代限りの騎士爵で世襲はない。つまり私は、平凡な一市民と全く変わりないってこと。  それでもブラックリー伯爵家と仲良くしてもらっていたのは、おじさまがお父さまの上司で、気さくすぎるほど気さくな方だったからだ。  婚約の話が出た時、お父さまとお母さまは恐縮しまくってお断りをしていたけれど、結局断りきれずに婚約者契約を結んでしまった。  おじさまとおばさまは『こんな良い子が嫁に来てくれるなんて』と喜んでいたけれど、四歳だったやんちゃくれの私のどこを見てそんな風に言ったのか、まったく理解できない。 「用意はできたか?」  ノックの音と同時に、マイルズの声が聞こえてくる。  今日は面倒な園遊会の日。貴族の令嬢や令息の大事な交流の場に、なぜ私が行かなければいけないのか。  行きたくない。けど一応マイルズの婚約者だし、出なきゃいけない。もういっかい言う。行きたくない。  はぁぁっと大きなため息をつくと、ガチャっと扉を開けられた。 「ちょっとマイルズ、勝手にドアを開けないでよ」 「用意ができているならさっさと来い。遅い」 「私、今日はちょっと熱があるかも……」 「嘘つけ」 「ほ、ほんとだもん」  嘘だけど。  マイルズはギロリと私を睨んできて、ビクッと目を瞑った瞬間、おでこの髪をかき上げられた。  そしてそのままゴツンと温かいものがあたる。 「冷たいくらいだろ!」  目を開けると、目の前にマイルズがいた。不機嫌顔なマイルズは、パッと私から離れていく。  びびび、びっくりした。 「いい加減、慣れろ。今日は王宮主催の園遊会だから、行かないって選択肢はないんだよ」 「なぜ私が王宮主催の園遊会なんかに……」 「頼むから、それを人前で言うんじゃないぞ。今日は王子殿下もいらっしゃるから、しゃんとしろ」 「いーーきーーたーーくーーなーーいーー!」 「ルーシャ、お前は俺の婚約者なんだ。諦めろ」 「ううーー」  わかってる。将来マイルズの妻になるんだから、今のうちに社交の場に出て繋がりを作っておかなきゃいけないってことは。  私とマイルズは、今年で十七歳になった。  私を背負えず潰れて泣いていた少年は、いつのまにか立派な青年になりつつある。  昔はルーシャルーシャって私の後ろをついて歩いてきたくせに、最近では立場が逆転されてしまっていることが、なんだか納得いかない。  そんな気持ちを無視して、マイルズは私の手を取った。そのまま引きずられるように園遊会へと到着すると、マイルズはそつなく社交の場に馴染んでいる。根っからの貴族って、さすがだわ。  それにしても、なんて素敵な庭なの。王宮なんて生まれて初めて入ったけど、ガーデニングアーチからして、そこらの庭とは違う豪奢なもの。  そこに咲く美しい花々は全て手入れが行き届いていて、ため息が出ちゃう。 「お気に召してもらえたかな?」  ぽかーんと庭を眺めていたら、後ろから声を掛けられて、私は振り向いた。そして、驚いた。 「っひ、王子殿下!?」 「ひ?」  後ろにいたのは、この国の第一王子であらせられる、イノック殿下だった。私が変な言葉を出しちゃったからか、殿下はクックと笑っている。 「申し訳ございません、殿下。俺の婚約者がご無礼を」  どこから見ていたのか、マイルズがすぐに現れて私と殿下の間に入ってくれた。ちょっとほっとする。  マイルズはおじさまについて王宮を出入りしていて、簡単な仕事も任されているらしい。それで年の近い殿下とも交流があり、気に入られているということはマイルズに聞いて知っている。 「ああ、彼女がマイルズの婚約者殿か」 「はい、ルーシャと申します。おいルーシャ、挨拶」 「ふぇ? あ、はい」  促された私は、ようやくイノック殿下にカーテシーをした。 「マイルズの婚約者で、ルーシャ・ガートファと申します。殿下におめもじ叶いましたこと、大変光栄でございます」 「今のは〝光栄だ〟って反応じゃなかったけどね、ルーシャ嬢」 「あは、ですよねー」 「否定しろ、ばか!」  頭の上から罵倒する声が飛んできた。だって仕方ないじゃない。『面倒くさいから会いたくなかった』という本心を言わなかっただけマシだと思って欲しい。 「申し訳ございません、イノック殿下!」 「あははは、面白い婚約者殿だねぇ。僕に媚びることもしないし、貴族としてやっていく気はないっていうのが見え見えだよ」  マイルズの前以外では、気づかれないようにしていたつもりだったんだけど。  イノック殿下はニコニコしていた顔を一転して、マイルズの方に目を向けた。 「マイルズ、この女とは婚約破棄しろ」 「「え?」」  私とマイルズが同時に声を上げる。まさか、そんなことを言われてしまうとは思ってもいなかった。 「ルーシャだったか。彼女と結婚しても、将来有望なお前の足を引っ張るだけだ。見ればわかる。優秀な女なら、いくらでも僕が紹介してやろう。だから、婚約を破棄しろ」  あまりの展開とイノック殿下の豹変ぶりに、私はぽかんと口を開けた。 「殿下……婚約は、俺たちの意思でなされたわけではありません。破棄するならば、俺とルーシャとの両親にも話をつけなければ……」 「僕が言えばそんなものはどうにでもなる。慰謝料は代わりに払うから、今すぐ婚約破棄をするんだ」 「しかし……」  イノック殿下はマイルズの反応に明らかにイラついていて、私の肝は冷えた。  いつかは王になるイノック殿下の機嫌を損なうようなことはしない方がいい。マイルズは優秀で、何事もなければ出世が臨めるはずなんだから。 「早く破棄を言い渡せ、マイルズ。いつも婚約者のわがままに振り回されて困っていたんだろう」  イノック殿下の言葉に、私の胸は何かを乗せられたようにズシリと重くなる。  わがまま……そうか、私はいつもマイルズに甘えて、園遊会はイヤダ、勉強はイヤダ、ダンスパーティーはイヤダと言いまくってきた。結局は全部無理やりにやらされてはいたけど、イヤダイヤダという私はさぞかし面倒くさい女だったに違いない。  ましてや、私とマイルズは親が適当に決めた婚約者同士。無理して私なんかに付き合う必要は、まったくないんだ。 「殿下、俺は……」 「マイルズ、いいから!」  なおも殿下の意向に逆らいそうなマイルズに、私は慌てて話しかけた。 「いいからって、ルーシャ……まさか、ずっと婚約解消を望んでたのか……?」  思えば、これは好機かもしれない。婚約破棄できる機会なんて、そうそうないんだから。  おじさまやおばさまも、イノック殿下の意向なら仕方ないと思ってくれるだろうし、うちはとりあえず慰謝料をもらえるなら文句は言わないと思う。 「私に貴族は無理だってわかってるでしょ! とにかく、ここは殿下の言う通りにして!」  私はどうなったっていいけど、マイルズはそうはさせない。イノック殿下の不興を買うようなことがあっちゃダメだ。  私とイノック殿下が睨んで見せると、マイルズは視線を一度落とした後、顔を上げた。 「ルーシャ・ガートファ。俺は君との婚約を、破棄する」  マイルズの言葉に、私は頭を下げた。 「今までご迷惑をかけまして申し訳ありませんでした。マイルズの……いえ、マイルズ様のご多幸とご活躍を遠くからお祈りしております」  言い終えて頭を上げると、不機嫌そうなマイルズが飛び込んでくる。  なんだろう、これでお互いに自由になれるはずなのに……胸がちりちりとした。 「それでは私は、この園遊会にはふさわしくありませんので、これでお暇させていただきますね」  私はそう言って、その場を去った。園庭を出たところで振り返ると、マイルズが美しい令嬢と話をしているのが見える。  マイルズはちょっと横暴なところもあるけど、それは私が相手だったからだろう。顔も良いし、第一王子とも懇意にしている将来有望なマイルズは、引く手数多だ。  私なんかより、優しくて頭が良くて綺麗で家柄もいい令嬢は山ほどいる。おじさんとおばさんの気まぐれで婚約者にされた私の扱いをどうすればいいか、きっと今まで困っていたに違いない。 「……うん。これでいいのよ」  私はもう振り返らず、宮廷を後にした。  ***  婚約を破棄されたことを両親に告げると、何故かぶっ倒れてしまった。  イノック殿下に十分な慰謝料を用意してもらえると言ったけど、全然効果はなかった。  その日の晩、うちにブラックリー家が押しかけて来た。 「ルーシャちゃん、マイルズが婚約破棄なんかして、ごめんなさいね!!」  おばさまが何故か謝ってくれる。マイルズはちゃんと事情を説明していないのかな。 「いえ、おばさま、うちは元々ブラックリー家にふさわしくない家系ですから。これでよかったんです」  私に伯爵夫人なんかが務まるわけもないんだから、この決断は間違ってないはず。  そう思っていると、今度はマイルズがやってきて、「ちょっといいか?」と外に連れ出された。  庭に出ると、もう星が瞬いている。少し寒いかも、と震えたら、マイルズが上着を貸してくれた。 「……ごめんな」  マイルズの言葉に、私は肩にかけられた上着を握りしめながらマイルズを見上げる。 「なに謝ってるの、らしくない。破棄は妥当だよ。他にいい人はたくさんいるんだしさ」  あははと自嘲気味に笑ってみせると、マイルズはギロっと私を睨んできた。え、なんで。怖い。 「誰だよ」 「誰って……」 「パン屋のレイニールか? それとも洋服店のカインか?」  二人とも、私の行きつけの店員さんだ。でもどうしてその二人の名前が出てくるのか意味がわからない。 「私は別に……」 「俺はあの後、イノック殿下にヒルダ嬢を紹介された」 「ああ、あのお綺麗な方が、有名なヒルダ・ウォリナース様? さすが殿下、良い方を紹介してくれるわね。マイルズとすっごくお似合いだったもん」  ヒルダ様は私たちよりいくつか年上だったと思うけど、侯爵家の令嬢でそれはそれは才色兼備と名高い方だ。  きっとマイルズの隣に立つなら、身分も頭脳も見目も申し分ない人が良いに決まってる。私なんか出る幕もなかった。殿下が婚約破棄しろと言ったのも頷ける。 「よかったね。いい人が見つかって」  心臓がちくちくするけど、私はなるべく笑って言った。 「どうなるかは、わからないけどな……」 「マイルズなら大丈夫だよ! がんばりなさいよ、未来の伯爵なんだから!」 「……ルーシャは、どうするんだ?」 「私はほら、爵位はお父さまだけの一代限りだし、普通に一般人と結婚でもするでしょ。世界の半分は男なんだし、マイルズは気にしなくても大丈夫だから!」  マイルズはなんだかんだで責任感のある子だから、私のことなんかで気を遣わせちゃいけない。  私とマイルズの婚約なんて、私の軽はずみな発言と親のノリで交わしただけのものなんだから。 「そうか……相手は誰かは知らないが、うまくいくいくといいな」 「あはは、ありがと」  そう言って笑った私の顔は、ひきつっていたかもしれない。  分別のつく年になってからずっと、私はマイルズと結婚することに疑問を感じてた。  私は由緒正しい貴族の娘じゃない。言ってしまえば、ブラックリー家にとって私はただの近所の子にすぎなかった。  なのに、ひょんなことから婚約者になっちゃって、それが今日まで続いてしまったってだけ。  私に本物の貴族なんて無理ってわかってるし。マイルズの横に立つのはヒルダ様がふさわしい。  なんだか胸がちくちく刺されるように痛むのは、きっと気のせい。 「今まで、わがままばっかり言っててごめんね。困らせたよね」  イノック殿下の、『いつも婚約者のわがままに振り回されて困っていたんだろう』って言葉が頭から離れなくて、私はそう謝った。 「あ、あれは……」 「ヒルダ様ならあれイヤだこれイヤだなんて言わないだろうから、マイルズのストレスもなくなるし、よかったよかった!」  笑ってみせると、マイルズはごくんとなにかを飲み込むようにして口を閉ざしている。 「じゃあね、マイルズ。わざわざ来てくれてありがとう」 「ああ」  マイルズは低くなった声を一段と下げてそう言うと、私に背を向けて門を出ていこうとする。  これでもう、本当の他人になっちゃうんだ。私がマイルズと結婚するという未来は、消えてなくなるんだ。  どうしてだろう、胸が苦しい。  私は貴族には向いてない。マナーだってなってないし、社交の場は苦手だし、貴族社会でマイルズを支えていけるとは思えない。  だから、これでいいはずなのに……どうして泣きそうになってるの。 「ルーシャ」  数歩離れたマイルズが、私を振り返った。 「今まで、嫌なことばかり押し付けてきて悪かった。これからはルーシャの自由に生きてくれ」 「マイルズ……」 「殿下の言葉は気にするな。俺はルーシャにわがままを言われて嬉しかったから……あれは、俺の惚気(のろけ)だったんだよ」 「……え?」 「じゃあな」  夜の風が、マイルズの上着をバサリと揺らした。  私がぎゅっと上着を握りしめると、マイルズの匂いがした。  ああ、私……思った以上にマイルズのことが好きだったみたいだ。  マイルズの後ろ姿が見えなくなると、右目から涙がするりと落ちていった。  私とマイルズは、婚約者同士ではなくなった。  近所なのですれ違うこともあるけど、私は会釈をしたらすぐに走り抜ける。  マイルズの顔を見るのがつらい。ほぼ毎日、飽きるくらい見てきた端正な顔立ちを、もう真っ直ぐ見られない。  バカだな、私。努力すればよかった。  由緒正しい貴族じゃないからとか、私は所詮一般庶民だとか、勉強が嫌いだとかダンスが苦手だとか……全部、全部言い訳だ。  私は、私なりにやったつもりではいた。イヤだったけど、文句もわがままも言ったけど、マイルズのためにって社交も全部出席していたし、最低限のマナーだって身につけていたと思う。  そう、どれも最低限。全然足りなかったんだ。  由緒正しくないからこそ、ヒルダ様のように才色兼備を目指さなくちゃいけなかった。  伯爵になるマイルズの隣に立つにふさわしい、女性に。  ねぇ、マイルズ。もう遅いかな。  今から努力したところで、もう婚約者にはなれないよね。  でも──  私は一縷の望みをかけて、全てを一から勉強し直すことにした。  ***  マイルズと婚約破棄して一年。  私は今までのコネを駆使して、出られる社交会の全てに顔を出した。  私のことをよく思わない人も当然いた。  ただの騎士爵の娘がマイルズに婚約破棄されたため、他の貴族と婚姻を結ぶために躍起になっていると、白い目で見られることもあった。それはあながち間違いじゃないから、めくじらを立てるようなことはしない。  他の貴族、ではなくマイルズともう一度昔のようになりたくて。私は努力を積み重ねてきた。  今日は、ヒルダ様の家のウォリナース主催の園遊会。  普通なら私なんかが呼ばれるはずもないんだけど、この一年でコネと実績を積んだ私を呼んでもらえた。  侯爵家のお庭も、うちなんかとは比べものにならないほど広くて綺麗。  そこにヒルダ様とマイルズの姿を見つけて、私は挨拶へと向かった。 「本日は素敵な園遊会にお招きいただき、ありがとうございます」  私がそう挨拶すると、ヒルダ様は美しい顔を綻ばせた。女が見ても、見惚れるくらいに整った顔をしている。 「うふふ、わたくし、ルーシャ様と一度お話をしてみたかったのですわ。ねぇ、マイルズ様?」 「勘弁してください、ヒルダ嬢」  ヒルダ様がマイルズを見上げて楽しそうに微笑み、マイルズは困った顔をしてる。  そりゃそうだよね。元婚約者が、今親しくしている人との前に現れたら、困るに決まってる。  私はこの場から離れた方がいいと思ったけど、ヒルダ様に強く促されて、隣に座らされた。 「ルーシャ様、最近は社交会にたくさん出席されておりますが、どなたか想い人でもいらっしゃって?」  え、ヒルダ様ってこういう人?  まさか直球で聞かれると思ってなかった。私はチラとヒルダ様の向こう側にいるマイルズを見てから、ヒルダ様に視線を戻した。 「はい、まぁ……」 「あらあら、では最近のご活躍も恋のなせる技ですのね! もしわたくしにできることなら協力いたしますわ。なんでもおっしゃってくださいませね」  無垢な顔して笑っているけど、演技だろうか。  これはもしかして、マイルズに近づいてくれるなっていう牽制なのかな……。 「あの、ヒルダ様はご結婚は……」 「ふふ、まだ内緒なのですけれども──そろそろ、婚約の契約を結ぶ段階に入っておりますのよ」 「そ、う……ですか……」  ヒルダ様は、近々ご婚約される。  相手はもちろん、マイルズだよね。わかってる。わかってた。  私がいくら努力しようと、本物の令嬢には敵わないってことくらい。  ヒルダ様は侯爵家の令嬢だ。侯爵家と繋がりができるなんて、ブラックリー家は諸手をあげて喜んだことだろう。 「あ、内緒ですわよ! きっと皆さま、びっくりされると思いますわ」  ヒルダ様はそういうけど、きっと誰も驚かない。マイルズと仲の良い噂は聞こえてきているし、そうなるだろうっていうのは私もなんとなく気づいてたから。  嬉しそうに笑ってるヒルダ様を見て、私もなんとか笑みを返す。 「ヒルダ様の婚約発表を楽しみにしていますね」 「ふふ、ありがとうございます。あら? ルーシャ様、お顔色がすぐれませんわね。どうかなさいまして?」 「いえ、なんでも……」  そう言ったけど、私の目の前はぐるぐると回ってまっすぐ座っていられない。こんなところで倒れちゃ、迷惑がかかっちゃう。どうにかしないと。 「真っ青でしてよ……! マイルズ様、お手をお貸しくださいませ!」 「いえ、大丈夫です……! 歩けますから……」  無理やり立った瞬間、大地が反転したのかと思った。私の視界は、いつのまにか青い空を映し出している。 「大丈夫か」  がしりと腕を掴まれて、転倒せずにすんだ。私の視界に、マイルズの端正な顔が入り込んでくる。  久々に、マイルズの顔をちゃんと見た。あれから一年経ったマイルズの顔は、精悍さを増していた。 「マイルズ……様。すみません……」 「もう帰った方がいい。送る」 「いえ、そんな」 「そうしてくださいませ、ルーシャ様。お体が第一ですわよ? また別の機会にお茶でもいたしましょう」 「でも」 「ごちゃごちゃ言うな」 「ひゃ?」  ふわりと足元が浮いたと思った瞬間、私はマイルズに抱きかかえられていた。 「ではヒルダ嬢、失礼します」 「はい、お気をつけてくださいまし」  マイルズはそれだけ言うと、ずんずんと歩き出した。  え、ダメでしょ、次期婚約者の前で元婚約者を抱いて出ていくなんて。どんな噂が立つか、わかったもんじゃない。 「マイルズ、私はもういいから……園遊会に戻って」 「園遊会より、ルーシャの方が大事だ」  マイルズの言葉に、胸がトクンともズキンとも鳴った。  嬉しさは、ある。でもそれは、子どもの頃からずっと一緒にいたことで、家族のような思いを抱いてくれているだけ。マイルズの好きな人は、ヒルダ様なんだから。そのヒルダ様の前でこんなことをさせてしまって、胸が痛む。  私はブラックリー家の馬車に乗せられた。御者がいるから付き添いはいいって断ったけど、なぜか私の隣に座ってくるマイルズ。  馬車がゆっくり動き出すと、私の頭はマイルズの肩に乗せられた。 「マイルズ……ダメだよ、こんなこと……誰かに見られたら……」 「馬車の中まで覗き見る者なんてそういないだろ」 「でも」 「誰に見られたら困る? レイニールやカインとはどうなったんだ? 社交会に顔を出すってことは、貴族の誰かみたいだが」 「見られて困るのは、マイルズの方でしょ。元婚約者と浮名を流すようなことがあったら、ヒルダ様との結婚が白紙になっちゃう」 「ヒルダ嬢?」  私の言葉に、マイルズがパチクリと目を丸めた。どうしてそんな表情をするのか、意味がわからない。 「いや、俺とルーシャが一緒にいても、ヒルダ嬢の結婚が白紙になることはないだろ」 「そんなに惚れられてるんだ……」 「まぁ惚れられてるな、イノック殿下は」 「え?」 「ん?」  なんでここでイノック殿下の名前が出てくるんだろう。惚れられている、イノック殿下……誰に? 「ああ、まだ婚約発表前だから、内密にしておいてくれ」 「えと……ヒルダ様と、マイルズの婚約発表だよね?」 「はあ?!」  マイルズが端正な顔を歪めて私を見下ろしている。え、変なこと言ってないよね? 「人の話を聞いてたか、ルーシャ。今のはどう考えても殿下とヒルダ嬢の話だったろ」 「えっ、イノック殿下とヒルダ様が?! でもマイルズはヒルダ様と仲がいいって噂されてて……」 「ヒルダ嬢の殿下へのアプローチを、俺が取り持ってたからな」 「そう、なんだ……」  ヒルダ様はマイルズと婚約するのかと思っていたけど、私の勘違いだったみたいだ。 「着いたぞ、降りられるか」 「う、うん」  馬車が止まって、マイルズが先に馬車を降りた。振り返ったマイルズが私に手を差し出している。どうしようか悩んだ瞬間、足がもつれて体ごとマイルズに倒れ込んだ。 「きゃあ?!」 「ルーシャ!」  このまま倒れたら、あの時みたいに怪我をさせちゃう!  そう思ったけど、次の瞬間にはぎゅっと抱きとめられていて。 「大丈夫か? ドジだな」 「マイルズの方こそ怪我してない?」 「もう子どもだった頃とは違う。ルーシャ一人くらい、支えられるよ」  私に押しつぶされて泣いていたマイルズは、もうどこにもいない。  一人の立派な男性なんだ。  大地に足がついて、改めてマイルズの顔を見上げる。端正な顔立ちは、昔から知っているマイルズそのもので、胸が締め付けられた。 「私……ずっとマイルズのそばにいたかったなぁ……」 「……え?」  思わず、心の声が漏れてしまった。  ほぼ毎日顔を合わせて、笑ったり怒ったり、あきれられたりもした、あの頃。  楽しくて、当然のように毎日続くと思ってた。最低限のことしかできなくても、マイルズと結婚できるんだって、(おご)ってた。  そばにいられなくなったのは自業自得だ。だから、私にこんなことを言う資格なんてないってわかってるのに、想いが止められない。 「私……婚約破棄されたのに……迷惑だってわかってるのに、努力すれば、もう一度マイルズに認めてもらえるんじゃないかって……勝手な夢、見ちゃってた……」 「……なに、言ってるんだ?」  マイルズの不服そうな顔。それはそうだ、今さら努力しても遅すぎるし、こんな風に言われても迷惑に決まってる。 「ごめんね、もう二度と社交会には出ないようにするし、マイルズにも会わないように気をつけるから……」  私が家へ駆け出そうとしたその瞬間、パシッと手首を取られた。 「ルーシャ、もしかして俺のことが好きなのか?」  驚いたようなマイルズの顔がそこにはあって、私はこくんと頷いた。 「うん……私、ずっと好きだったみたい……婚約破棄されて、どうして私はマイルズに釣り合う女性になるために努力しなかったんだろうって、後悔した……」  言いながら、情けなくて悔しくて申し訳なくて、ぽろぽろと涙が溢れてきた。  そんな私をみて、マイルズは「知らなかった」と言葉をこぼす。そしてどこか驚いたような顔をしながら、マイルズは言った。 「俺たちは親に婚約者にさせられたようなもんだし、俺に怪我をさせた負い目で断れないだけだと思ってた。ルーシャは破棄したときも平気な顔してたし、それまでも俺の婚約者でいることに不満を持ってたみたいだったから」 「マイルズだって、いつも私にああしろこうしろって……私じゃ不満だったよね。殿下に婚約破棄を言わされて、本当はほっとしてたんでしょ。やっと私と縁が切れるって……」 「ルーシャ」 「しつこくして、ごめんね……」  婚約破棄されて一年経っているっていうのに、引きずり過ぎだ。  いい加減、私は諦めて── 「俺も、ルーシャが好きだ」 「……へ?」  唐突の言葉に、私の涙はぴたりと止まった。 「なに、言って……?」 「別に俺は、不満なんて感じてないよ。ぶーぶーと文句を垂れながらでも、ルーシャは必要な行事には参加してくれていたし。多少のマナーがなってなくても、その都度教えていけばいいと思ってたから重要視してなかった。むしろ、そういうところがルーシャらしくて俺は好きだった」  私らしい……勝手をしてきたのに、そんなところが好きだと言ってくれるマイルズの顔は、優しい。 「ごめんな。ルーシャの自由なところが好きだって、ちゃんと殿下にもルーシャにも、伝えておけばよかった」 「マイルズ……」 「ルーシャ。もう一度、俺の婚約者になってほしい」  私の心に、風が抜けていく感じがした。  夢かもしれない。だって、頭がふわふわとしすぎているから。 「でも、殿下が……」 「イノック殿下は、ルーシャの気持ちを確かめただけだとおっしゃってた。あれで引くくらいなら、大した女じゃないのだからやめておけって。けど、最近のルーシャの頑張りが俺のためだったのなら、殿下もきっとわかってくれる」 「じゃあ……」  こんなに都合のいいことってあるの?  一度は婚約破棄になったのに……また、好きな人と婚約できる。 「婚約しよう。そしていつかは……いや、なるべく早く結婚をしよう」  胸が詰まる。  今度こそ私はマイルズにふさわしい女性となって、誰にも文句を言わせない。 「うん……私、がんばるから……マイルズの隣にいられるように……!」 「俺も優しくするよ。今まで強く言いすぎてごめん」  マイルズはちっとも悪くなんかない。そう言いたいのに、喉が詰まって声が出てこなかった。  目が合うと、マイルズは優しく微笑んでくれていて、その顔に私はほっとする。マイルズがそばにいると、それだけで安心感を得られるんだ。  マイルズは私の頬を、ゆっくりと撫でてくれた。 「覚えてるか? 昔、婚約者となったときに言った、ルーシャの言葉を」  私の幼き日の、プロポーズと言っても過言ではない、あの言葉。もちろん覚えてる。 「俺もルーシャを幸せにするよ。ルーシャにだけ、責任を押し付けたりはしない」 「マイルズ……ッ」  止まったと思った涙が、マイルズの気持ちに触れて、また溢れてきた。  ──わたしがせきにんをもって、マイルズをしあわせにします!!──  そう約束したあの日の言葉に、マイルズの誓いが重なる。 「一緒に幸せになろう」 「……うんっ」  私は、幼馴染みであるマイルズと、もう一度、婚姻契約を結んだ。  青い空に、つがいの鳥が仲良く飛んでいるのが見えて。  顔を見合わせて微笑むと、私はマイルズの優しい手に抱きしめられた。
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