悪夢の人たち

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「診察室」のプレートがかかった部屋。窓を覆うカーテンとレールの隙間から日光が差し込んでいる。昼の日差しはクリーム色のくすんだ壁に何層かの影を落としていた。部屋の壁際には大きな箱のようなコンピューターと、古い電話機、分厚いハードカバーの専門書、書類やメモで埋まったデスクがひとつ置かれている。  そのすぐ側に白衣の男と少年が一つの回転椅子に腰掛けていた。 「エフィーは?」  男の膝に向かい合って腰掛けた少年はぽつりと尋ねた。かさついた唇からこぼれた声。かすれた小さな声が弱々しく部屋に響く。少年の瞳は自分の膝の辺りに注がれていた。細い腕がその膝の横にだらりと下がっている。サイズが合っているはずのパジャマの袖はだぶつき、彼の指を余計に細く見せていた。 彼の薄い肩につく程のプラチナブロンドの髪を、男の手が優しく梳いていく。寝癖がついたままのような乱れたその髪の隙間から覗くアイスブルーの目元に滲んだ隈をもう片方の指先でなぞって、白衣の男は口を開いた。 「いないよ。朝食を出してすぐ出て行ったね」 「外……買い物……?」 「だろうね。ところでコリン、また眠れなかったのかい」  首から下がる「コール・カーター」と書かれたカード。彼は一見女性にさえ見える。彼は赤みがかった焦げ茶の髪を長く伸ばし、それを後ろで一つにくくっていた。長い、時計の針のような簪で刺して留めてある。彼は丸いサングラスをかけていて表情が読めない。 コリンと呼ばれた少年は顔を伏せて男の視線を逃れた。 「カーター先生、買い物、僕も行く」 「もう少し経ったらだろうね。それよりコリン、眠れないなら私の所へおいで。どうしようもないときは薬だって必要だ」 「先生、外に出たい」 「中庭で遊んでおいで。今日のところはね」  目元をするりと撫でられて、膝から下ろされる。カーターは薄いインナーの襟ぐりに留めていたペンを取って手帳に何か書き込んだ。 「……ああコリン、昼食の後に薬を持って行くから部屋にいなさい」  紙の上をペンが滑る音を振り切るように、コリンは部屋を出る。 ぱたぱたと廊下に敷かれたカーペットを叩く音が部屋から遠ざかると、カーターは手にしていた手帳をデスクに置いた。そうして立ち上がってカーテンを引く。 窓の外には雑木林が広がっていて、二階にあるそこからだともう少し先にぐるりと屋敷を囲む灰色の塀と鉄格子の門の頭が見えた。さらに先には深緑の木々の先端が続いている。 カーターは手で日光を遮りながら部屋を振り返った。真後ろの壁。そこには女のようなシルエットが浮き上がっている。ゆらりと白衣の裾を揺らして首をかしげると、ちょうどスカートの少女が彼に挨拶したような姿になった。  目を細めたカーターはその影に笑いかける。暫くそうして影を見つめていた彼は、またカーテンを閉めてサングラスを外すと、薬品棚から目薬を取り出した。      灰色の石造りの壁に囲まれた四角い中庭に出ると、暖かい初夏の風がコリンの首元をすり抜ける。青い芝のにおい。首や頬の辺りを、吹き上げられた薄金の髪がくすぐり、白い肌に細い影が落ちた。中庭をぐるりと囲む壁には等間隔で窓がはまっている。しかしその窓は木板を打ち付けられていて硝子が全く見えない。そのせいで廊下には殆ど光が入らないようになっていた。四方を高い壁に囲まれた庭は息苦しいが、真上を見上げると青い空が広がっている。  コリンは緑のにおいを肺いっぱいに吸い込んで、蔓の覆うアーチの方へと踏み出した。  張りのある葉が日を遮るアーチの下は涼しく、その根元辺りは今朝水をやったばかりなのか、しっとりと濡れていた。  コリンはそこに腰を下ろして膝を抱える。土に触れた部分が湿ってくる感覚にそわりと肩をふるわせたが、彼はそのままトンネルの下に横になり、白い目蓋を下ろした。  湿った土からひんやりと立ち上る冷気が肌を撫でる。肩や手にも泥がついたが、それを押しやってしまうほどの眠気と疲労感がどっとコリンを襲った。  うとうととまどろみ、重たい体から力が抜けていく。いけない、と思ったときにはもう抗う力も失っていた。ほんの少しの安心感と、不安が胸を満たしていく。 ぐったりと投げ出した腕に何か触れたような気がしてはっと起き上がった。黒いもやが指に絡みついている。それを振り払って、コリンはトンネルの中を駆けだした。 緑のトンネルに差し込んでいたはずの光は消えて、ずっと先まで暗闇で満ちている。蔦が覆う壁から黒いもやがしみ出してくると、それは針金のように細長い形を作り、コリンの足下をうぞうぞとうごめいた。黒い針金の蛇。 コリンは引きつった悲鳴をあげて不格好に跳ね上がりながら走り続ける。蛇の頭がぱっくり三つか二つくらいに割れて、折れ曲がったいびつな指となり呼吸を荒げる口元をかすめると、次々と針金の手が襲いかかり、コリンの体を冷たい地面に叩きつけた。 「やだ、やだ」  泣きわめくコリンを地面から現れる腕が押さえつける。針金は肌に刺さり、そこから何かに毒されるように手足から力が抜けていく。針金が巻きつき、もやに包まれる……繭になっていく。 「薬はやだ」  力が抜ける……何も考えられなくなる……薬を打たれる。  繭にすっかり包まれると、コリンは呼吸も忘れたような気がした。ぬるい籠もった空気。暗闇に沈む重い体。  うつらうつらと舟をこぐ。誰かが自分を呼んでいるような気がしたが、コリンは応えなかった。繭の中は心地良い。何を恐れていたかも忘れ、生暖かい繭の中で縮こまる。ずっとここにいたいとさえ思ったそのとき、コリンを覆う膜が破られ、強い力で引きずり出された。 「コリン!」  目蓋をすかす強い光。血管を通した赤い光を避けるように顔をそらしながら薄く目を開くと、白い光を背に負った青年がコリンを覗き込んでいた。コリンを抱き起こす腕はがっしりとしていて力強い。逆行で顔が見えにくかったが、彼の着ている水色の看護服にはよく見覚えがあった。胸に名札が留まっている。「エフィー」とそれをまわらない舌で読み上げた。 「またこんな所で寝て……駄目だって言ってるのに。……先生に呼ばれていたはずだろう?」 「……さっき行った」 「ならいいけど……ああもう、泥だらけだ……昼前に風呂入ろうな」 「エフィー、僕次の買い物ついていく」  抱き上げられてほとんど同じ視線になったエフィーの目を見上げてそう言うと、彼は曖昧に笑って立ち上がる。緑のアーチから出るとエフィーの薄い栗色の髪が光をはじいてきらきら輝いた。日を受けた彼の顔にそばかすが散っている。  アーチの影。うごめくもや。  それから顔を背けたコリンは、廊下へのドアに目をやると薄く開いていた目を丸くした。 「……エフィー」 「ん、ああ」 「……あの人誰?」  エフィーは少し困ったように笑みをこぼし、「誰」と指された人物に片手で合図する。  合図された人影は開け放たれたドアの辺りに立って、日陰から手を振ってきた。どこかいたずらっ子じみた表情を浮かべた女性。薄金色の髪がコリンと同じくらいの肩口で揃えられて揺れている。 「戻ってくる途中、ここに続く一本道あるだろう? その辺りで歩いていてね、聞いたらここに用があるって言うから乗せてきたんだよ。駅から歩いてきたんだって。ほら、手を振ってる。……ええと、たしかジェマ・アボットさんだった」  落ち着いたネイビーのロングスカートが風になびいていた。優しげに緩められている目はオリーブ色をしていた。  はて、とコリンは口を閉ざす。 「コリン、彼女はきみの叔母さんだよ」  彼女の顔は、コリンのそれとよく似ていた。      洗い立ての枕に頭を預けるとシャンプーの香りが立ち上った。乾かしたばかりのコリンの髪が白い枕に広がる。  コリンの体を丁寧にベッドに乗せたエフィーは、新しいシーツを籠から出し、コリンの上に広げた。 「あんまり歩きまわるなよ。薬飲んでるとふらつくだろう」 「昨日は飲んでないよ。打たれてもない」 「また隠れんぼ? なら寝不足でふらふらなんだから同じだな」  エフィーの言葉に拗ねたようにコリンの小さな唇がとがる。コリンがシーツを引き上げてベッドに潜り込むと、シーツ越しに吹き出す気配を感じた。 「ごめんって。心配してるだけだよ」 シーツの下からコリンが顔を覗かせる。するとエフィーが手を伸ばしてその頭を撫で回した。 「いきなりいなくなると心配する。俺も、カーター先生も」 「……先生、ジェマ叔母さんといるの?」  頭を撫でつける手から逃れたコリンはうつむいてそう問うた。 クリーム色の壁。窓だった場所に打ちつけられた板。それらにさっと視線をやって、エフィーはコリンに視線を合わせる。 「あの人、窓を開けようとした」 「窓塞いでるのびっくりしたんだよ、たぶん。普通は開けとくものだから」 「怖いのが写るのに」 「知らなかったんだ」とアンバーの瞳が細まった。緩んだその頬に小さな手が伸びてそばかすをなぞる。その手を掴まえて、エフィーは自分の頬に押し当てた。すでに湯冷めしていた指先に彼の熱が移る。 「あの人ずっと病院にいるの?」 「たぶんね」 「お見舞いじゃないの」 「ここを手伝ってくれるんだって。きみも一人でいるより気が紛れるんじゃないか?」 「知らない。そんなのいらない」  コリンは自由な方の手でエフィーの服を引っ張った。すると彼の筋張った腕が背中に回り、自分のものより厚い肩に引き寄せられる。コリンのこわばっていた体が体温を分けられて少しずつ緩むと、彼は反対の手でシーツを引き上げた。 「コリン、眠たいからいらいらするんだ。ほら、横になって。少ししたら先生が落ち着く薬を持ってきてくれる」 「薬はいらない……窓も鏡も……」 「大丈夫、覆いは取らないよ。薬を打てばすぐ落ち着く。最近調子良くないんだろう。お昼寝したら元気になるよ。そうしたら午後は庭の畑を見に行こうな」 「いらない、寝たら怖いのが来る……本当だよ、ねえ」 「中庭の奥の畑、きっともういろいろできてるよ。楽しみにしてただろう?」 「エフィー聞いて!」  コリンは大きな手を振り払い、シーツを蹴飛ばす。目を大きく見開いたエフィーを押しのけてベッドから飛び降りようとしたが、それより速く彼の腕がコリンを掴まえた。  真新しいシーツが床へ落ちて埃が舞う。強い力でベッドへ押さえつけられると、細い四肢は簡単に動きを制限された。ベッドがきいきいと鳴く。 「やだ助けて」 「コリン、大丈夫、眠るだけだ。大丈夫」 「掴まるの、掴まっちゃう、エフィー、いや、いやだ」 「でも少しは眠らなきゃ。大丈夫、先生がすぐ来てくれる。ちょっと休むだけだから」 「外に出して、やだ、眠くない」  部屋の外から複数の足音が近づいてくる。  白い手がエフィーの腕に縋り、力をこめていっそう色を失っていた。うつぶせに押さえつけられた体。乱れた髪の合間に覗く血の気のない頬が、ドアが開くのと同時にびくりと引きつる。 掴まる、とばたつく手足を別の手に掴み上げられながら、コリンはドアの影から黒い針金の腕が伸びてくるのを感じていた。 「何なの! 彼、何してるのよ!」 「カーター先生、コリンが」 「昨日薬を入れてないからそれが切れかけてるんだ。最近はいつもこうでね。でもすぐ落ち着く」 「睡眠薬じゃないんですか」 「やめて。いやがってるじゃない」 「発作みたいなものなんだ。エフィー、薬を変えよう」 「これだと強すぎませんか、せめて」 「いいんだ。注射を」  頭上から滅茶苦茶に言葉が降り注ぐ。聞き慣れない甲高い声が混じっている。  ジェマの足下をうねって這いずる黒い指は、カーターの体を伝い上ってとがった針先からコリンの腕へ乗り移った。  ちくり。何かが肌を刺す。鋭い痛みはすぐに溶け消えて曖昧になった。それと同時に思考までもが麻痺して全身が弛緩していく。シーツとそれに押しつけた頭との境界さえわからなくなって、コリンはかろうじて瞳を動かし、カーターを見上げた。  彼の細い腕を女性の手が掴んでいる。赤茶の頭の後ろから天井が落ちてくる様な気がして視線を彷徨わせた。丸いサングラス。グラスに写り込む自分の首に黒い針金が巻き付いている。  パジャマの襟ぐりの影から這い上ってくる針金の指が下あごにたどり着く直前、カーターのひんやりとした手が伸びてきてコリンの口を覆った。 「三つ数えて…………」 一つ……二つ……三つ……。  カウントする声が遠のく。サングラスの奥の目がじっと見返してくるのを見返して、コリンの意識は途絶えた。     部屋の中心に置かれた小さなテーブル。その足が毛足の長いカーペットに沈み込んでいる。広い部屋には不釣り合いな小さな丸いテーブルには簡素な食事が並んでいる。  屋敷にいる人間は三人だけで、夕食はいつも揃ってとることになっていた。コリン、カーター、エフィーの決まった席があり、椅子も揃いのものだ。  しかし今日は見慣れない椅子が一つ加わっている。 「すみません。お客さんが来ることなんて少ないのでたいしたもの出せなくて……」 「いいえ、私がいきなり来てしまっただけなんだから気にしないで。それにこれからは私だってここの一員なんだから」  席についてエフィーが苦笑すると、ジェマがゆったりと返した。彼女は三つの席を見回して綺麗に愛想良く笑ってみせる。  コリンはその笑顔によく似た顔をふっと思い浮かべた。しかしかすみがかったそれはうまく形を成さずに目の前の彼女に重なって霧散する。  諦めたコリンは顔を伏せてそろりとテーブルに手を伸ばした。 高い位置にある電灯が半透明のスープに影を落としている。四組の夕食で占められたテーブルの上は少し窮屈で、スプーンやフォークも隙間を埋めるように置かれていた。 「エフィー、明日もう一度買い出しを頼むよ。それから、もう少し大きいテーブルがどこかにあったはずだね」 「はい。地下室にしまってありましたね。明日の朝にでも出しておきます。そういえば先生のお部屋に洗濯した服置いておきましたけど、片付けました?」 「いや?」  カーターは悪びれもせずにスープを口に運ぶ。その目は観察するようにコリンの頭頂部を追っていた。  それを感じながらも、コリンは作業めいた緩慢な動作でスプーンを移動させている。皿から口へ、口から皿へと、繰り返し。頭上ではエフィーが若干の笑みを含んだため息をこぼした。 「でしょうね……いいですよ、俺がやっておきますから。あと部屋もそろそろ掃除しないと。明日は部屋を開けておいてください」 「ああ、それと診察室のデスクの上も頼むよ。どうにも散らかってしまってね」  カーターがそう言い終えるより先に、「ちょっと」と鋭い声が飛んだ。  かちゃんと皿とスプーンがぶつかる音がする。  コリンは氷のような瞳を彷徨わせて三人の様子を探った。  眉を寄せて不機嫌をあらわにしたジェマがカーターの向かいに座っている。その間にいるエフィーは戸惑って目だけで二人を交互に見ていた。普段通り、サングラスの奥は見えない。薄暗い電灯はジェマの切りそろえられた前髪の影を顔半ばまで落とし、余計に険しい表情に見せていた。 「あなた、いつもそうなの?」  カーターが首をかしげると毛先が揺れた。ふわりと古い本のような、薬のような不思議な香りがたつ。 「服しまうくらい子どもだってできるじゃない。彼一人にそんなことさせているの?」 「ジェマさん、それも俺の仕事のうちですから……」 「それにしたってあなたの負担が多すぎるの。コリンのお世話も大体あなたの仕事なんでしょう」  彼女の足がカーペットを踏みしめる。立ち上がろうとする彼女を制するエフィーに、彼女は厳しい顔を向けた。  落ちてくる影が皿やテーブルの上でゆがんで揺れる。 「それに、さっきのも酷い。コリンはいやがってたのに。あなた本当に医者?」  彼女の語気は次第に強くなっていく。その手をテーブルのわずかなスペースに叩かんばかりに乗せて、彼女は身を乗り出した。  カーターはコリンから視線を外し、彼女に顔を向けている。スープをすくい上げていた手を戻すと、彼は一瞬エフィーに目をやった。  それに気付いたエフィーははっとして立ち上がり、コリンの後ろにまわる。彼は抑えた声でコリンに退席を促した。 「コリンの話をもっと聞くべきなんじゃないの? 子どもはもっと自由にさせないと。間違っても薬で眠らせたりするべきじゃない」 「この子が落ち着くために必要なんだよ、ジェマ。それにこの子は眠りたがらない……食事に薬でも盛らない限りはね。それなら薬だって必要だ」 「もっと外で遊ばせて体を動かせば自然に眠れるようになるのにあなたがそうさせないんでしょう。それこそ買い出しのお手伝いでもさせてあげたら」 「人の多い場所はストレスになる。外に出すにはまだ不安定すぎるんだよ」  ぼんやりと二人を見上げていたコリンの体が浮き上がる。ふと見上げると、すぐ上にあったエフィーの薄い唇が「薬が強すぎたかな」とかすかに動いた。 「部屋に食事を運ぶよ。それとも食べやすいものがいい?」  開け放してあったドアから出ると、彼は努めて優しくそう尋ねる。コリンは口を引き結んだままかぶりを振った。そうして揺れに身を任せて耳を澄ます。  広間から遠ざかるとカーターの落ち着いた声はだんだん薄れていって、しばらく響いていたヒートアップするジェマの怒声も最後には途絶えてしまった。エフィーがカーペットを踏みつける鈍く小さな音と、衣擦れの音だけが暗い廊下に響いている。等間隔で壁についているランプがエフィーの頭の上から短い栗色の髪を照らした。 影になった暗い壁際に何かがうごめく。いくつもの黒く細い腕を揺らめかせて誘いかけるそれは、ぽっかり空いた空洞の目を弓なりにして笑っていた。  ざわざわと、腹の奥をブラシでこすられるような感覚。ぶるりと震え上がったコリンは自分を抱く胸に頬を押しつける。  どこからかケタケタと響く声に、エフィーは気付いていないようだった。      車の窓から覗いた外は車内よりも幾分か明るく、背後には抜けてきたばかりの森林が見えている。舗装された道路に出てから四人乗りの車は安定して走行していた。  コリンは窓から車内に視線を戻す。彼が座っている運転席側の後部座席からは背もたれからはみ出したエフィーの後頭部が見え、その隣ではブラウスにキャメルのロングスカートをあわせたジェマが首をひねって振り返り、コリンに笑みを向けている。 「なんてことなかったでしょ?」  彼女の言葉にエフィーから弱々しいため息が上がった。 「服、よく似合ってる。エフィーが用意してくれたのよ」  黙って視線を落とすと、コリンの目にパジャマではない服が写る。カッターシャツにハーフパンツ、ソックスと革の靴。余所行きの服は糊がきいていて皺一つなかったが、新品ではないようで、何度か袖を通した柔らかさだった。少しサイズの小さいそれらは昔の患者が置いていったのか、物置で眠っていたそれをエフィーが引っ張り出してきたらしい。 「用意させたんでしょうが……。それに、着せるとは聞いてましたけど先生の許可なしで連れ出すなんて一言も……」 「言ったじゃない。『後で言っておく』って。帰ったら言うから嘘はついてないわ。それにあの人、昨晩からどこか出てるんでしょ? あなたが送っていくの見たんだから……どっちにしろ今更どうしようもないのよ。今すぐに咎められるわけでもなし、そうカリカリしなくてもいいじゃないの」 「どこかって……薬を買いに遠出するって言ったじゃないですか。あの後も時間はあったし、買い物ついでに迎えに行くとも…………たいした屁理屈ですよ」  ハンドルを切る彼が鋭く言うと、ジェマはからかいの色をたたえて運転席に顔を寄せた。  町並みはだんだんと賑やかになっていく。 「それでも彼の方針に賛成できるわけじゃないんでしょう?」  バックミラー越しにエフィーと目が合ったコリンは、アンバー色の瞳をじっと見返した。しかしその蜜色は鏡枠の外へと逃げ、わずかに額が写り込むばかりになる。 「……コリン、もうすぐ店だ。カーディガンを着て」 「心配性なお兄さんね」  返事はなかった。 見慣れない通りの隅に駐車すると、まず前の二人が下りてエフィーが後ろに回り、コリンを抱き上げる。 「自分で歩く」 「また寝てないくせに」 「……歩けるのに」 「転んで怪我でもされたら困るんだ」  コリンは腕の中からエフィーを見上げたが、彼はすでに視線を余所にやっていた。  エフィーの栗色の向こうに曇り空。その空を挟み込む少し汚れた壁、紅茶色や褪せた黄色の屋根。 「……病室の絵本に似てる」 「田舎町なんてどこもそんなものだよ」  少し離れた店先からジェマが二人を呼ぶ。それに投げやりな返事をして、エフィーは店の入り口に歩み寄った。  少し開いたドアの隙間からコーヒーの香りがこぼれだしている。窓や壁を覆う蔓や葉がすすけた赤レンガの壁を覆っている古びたその店はカフェだった。店内は落ち着いたオレンジがかった光がカウンターや窓際の四角い木製テーブルを照らしている。  エフィーは手狭な店内を見回して、壁に接している端のカウンター席にコリンを下ろした。 「ジェマさんはコリンとここにいてください。買い出しは俺が」 「どうして? 私たちも手伝うわ」 「いいからここで大人しくしていてください」  彼は数枚の紙幣をジェマの手に押しつける。 「この辺り大きいお店とかないんじゃない?」 「まあ、少し離れますけど、三、四時間くらいで戻れますよ」  くるりと車のキーが彼の手の中で回った。鈍い光を反射したそれはちゃり、と音をたてて大きな手の中に収まる。  エフィーは素っ気ない店員に二人分の飲み物を頼むと振り向かずに店を出て行った。 「ね、コリン、どこか行きたいところはない?」  ずいと近づいた顔は綺麗な笑顔を浮かべていた。ふわりと揺れた髪からかぎ慣れないシャンプーの香りがして、コリンは思わず体を引く。 「……エフィーはここにいてって」  目を逸らしながら答えると、ジェマは膝に置いたコリンの手を両手で包みこんで、顔を覗き込んだ。  近づいた顔は記憶の中で掠れつつあった母の顔にぴたりと重なってコリンの思考が一瞬止まる。  ジェマはそれに気付かずに続けた。 「貴方はとても良い子だけど、これは我慢しなきゃいけないことじゃないの。いい? 貴方はもっと自由になっていいのよ。……本当にどこでもいいわ。見てみたいものとかない? 二時間くらいで戻ればばれっこないもの……それにばれても勝手に出てきてるんだからどうせ叱られるのよ、だったら楽しまなくちゃ」 「……でも」  店員がカウンターの向こうからティーカップを並べる。カップの丸い縁の中で赤褐色の水面が揺らめき、だんだんと平静に戻ってゆくと、そこに不安げな弱々しい顔をしたコリンが写った。  次の言葉を見つけられないままそれを眺めていると、不意にコリンの首元の黒い影がうごめく。 「……あ」  それは笑っているようだった。髪に隠れた肩や首元の影が紅茶の中から笑いかけてくる。それはだんだんと大きさを増し、細い首に黒い針金のような腕を這わせ、巻きつけ始めた。  呼吸がぐっと詰まり、ぎょろぎょろと彷徨ったアイスブルーの瞳はやがてジェマの両手に止まった。 「町の中、見に行きたい」  じっと見上げると、ジェマはコリンとよく似た目を丸くし、そして笑う。彼女はカウンター越しに支払いを済ませると、コリンの手を取って店を出た。 「……雨」 「雨? ああ……曇りだけど……そうね、まだ降らないだろうし……傘を買うまでもないんじゃない? さ、行きましょ」  所々割れた道。両側からその道を挟み込む建物の影になっている部分には、緑の苔が生えている。 「可愛い町ね」と、彼女は小さな店のショーウィンドウを覗きこむ度言った。ジェマはしばらくそうして店から店へと渡り歩き、閉店した店の建ち並ぶ方へと進んでいく。しかしそちらへ進むとだんだんと人が増えていった。 寂れた通りの角を曲がる。騒がしさに顔を上げると、屋台がぎっしりと並んでいた。  手を引かれて段差に蹴躓きながら人混みに踏み込む。 「屋台が出るって、昨日駅で聞いたのよ」  ざわめく人々に飲まれながら、彼女は少し声を張り上げた。  コリンはどこか夢見心地で屋台や頭上の人々を見上げる。  飾りのぶら下がる屋台の内側にずらりと並んだ骨董品や小さな額に入った絵画。ひしめき合う人と人の間に見えるそれらは普段見るよりもずっときらびやかに見えた。  と、そこで首をかしげる。脳裏に浮かんだのは殺風景な病院だ。散らかった診察室、テーブルと椅子だけが置かれた食堂、緑といくつかの花で埋まった中庭、白いパイプベッドとぬいぐるみや数冊の絵本が置かれた病室―――。 「はぐれないでね」  鋭く飛んできた声にはっとして意識が戻ってくる。目の前で踊るスカートの裾を避けながら覚束ない足取りで後を追い、ジェマの背中を見上げた。 「私、この町に来たのはまだ数回目だけど、こんなお祭りがあったのね」 「え」 「モニカ……姉さんもこれを見たのかしら」  コリンが足を止めると、彼女も立ち止まって振り返る。 「あ、何か見たいものあった?」 「……お母さん?」 「お母さん? ……ああ、姉さんね」  両側を流れていく人々を煩わしそうに避けながらジェマが屋台の捌けた壁際に寄った。湿った生暖かい風がコリンとジェマの髪をはためかせては頬に貼りつける。指先で自分のそれを払いのける彼女からは、先ほどまでのにこやかさが消えていた。前髪が目に入らないように伏し目がちになると、彼女とコリンはよく似て見える。ぼんやりと空虚な、どこか焦点の合わないコリンのライトブルーの瞳と、睫毛が影を落とすジェマのオリーブの瞳。色は違うがそっくりなそれを眺めて、コリンはかすむ記憶の母と重ねた。 「姉さん……お母さんはこういうところには一緒に来なかった? 私は遠くに住んでいたから、あなたのこともときどき手紙で聞くくらいだったけど……あなたは本当に、モニカにそっくり」  何か押し殺したような、いやに平坦な声で彼女は「生き写しね」と繰り返す。コリンが見上げた彼女は笑顔を浮かべているが目元は苦しげで、無理に頬を押し上げた、何かに耐えているような笑顔だった。その表情にも見覚えがある気がして、コリンは首をかしげる。母のそんな表情をどこかで見ただろうか。 「叔母さん……?」  ちょうどそのとき、ジェマがふと顔を上げた。下からは彼女の顔が見えなくなって、その代わりに白い首筋と顎の下があらわになる。彼女が何度か空のあちこちに視線をやっていると、ぽつり、ぽつりと冷たいしずくが顔に落ちてきた。 「やだ、雨?」 慌てた声が人混みから聞こえてくる。天候や互いに文句を言う声や、店じまいの指示を飛ばす怒号。子どもたちの笑い声に、迷子を捜す大人の声。それがどんどん大きくなり、人の流れも速くなっていき、やがて二人を飲みこんだ。 「コリン!」  焦ったジェマの声。反対へ向かう人々の腕や足が二人の手にぶつかり、繋いでいた手がするりとほどける。何度か手を伸ばしたのはジェマだけだった。背の高い男性の肩の辺りでジェマの頭が隠れ、もがいて空を掴む手は人混みに流されて、壁に塗り込められるように見えなくなった。 「おい、道空けろ!」 どこからか飛んできた怒鳴り声に飛び上がったコリンは、ふらふらと元いた方向に歩き出す。次第に強くなる雨に打たれたプラチナブロンドは色を濃く変えていた。側を駆けていった子どもたちの靴から泥水が跳ねると、脳裏に眉を寄せて見下ろしてくるエフィーの姿が浮かぶ。エフィーは雨の日に外へ出ると怒るから早く戻らないといけない。そう思ったときにはジェマのことはすでに意識から消えていた。 足早に駆け抜ける人々はコリンにぶつかる度に怪訝そうにそのつむじを見下ろしたが、何も言わずに通り過ぎていく。しばらく歩いてようやく元の通りに戻る頃には、着せてもらった服は濡れてしわだらけになっていた。カフェを探して歩く彼の顔からは血の気が失せている。泥水のついた靴がひび割れた道に引っかかり、地面に倒れ込むと膝と手に痛みが走った。だらりと投げ出された手が沈む水たまり。水滴が飛び跳ねるその表面に写った手の中で、影が笑っている。  黒いもやは手の中で窮屈そうにうごめき、コリンを見返していた。夢の中でコリンを追いかけてくる細い腕は現れず、ただ裂けたような三日月形の口とぎょろりと光る目が水たまりの中から覗いている。  それをぎゅっと握りつぶそうとした瞬間、打ちつけていた雨粒が消えた。 「こんな所にいたのかい、コリン」  最初に傘が目に入る。見覚えのある赤い傘…………エフィーの傘だ。しかしそれを持っているのはエフィーではなかった。 「…………先生?」 「今さっき喫茶店でジェマと合流したんだ。エフィーも慌てていたよ……ほら、おいで」  肩に傘の柄をかけて、カーターがコリンを抱き起こす。目に写ったのはいつもの白衣ではなく、無地のティーシャツだった。服が汚れるのも厭わずそのまま抱き上げ立ち上がると、彼はコリンが元来た方向へと歩き出す。 「その様子だとちゃんとと薬を飲んだのかな。エフィーが言うときは大人しく飲んでくれるのは少し傷つくね」  冗談めかした口調。コリンは彼の肩に顎をのせて、揺れに身を任せた。カーターとエフィーの歩くリズムはよく似ている。 「それとも何かに混ぜられたのかな。どちらにしろよく効いているね。どれくらいで効いてきた? 大体一、二時間で効くと思うんだけど…………」  傘の下で、彼の声は籠もって響いた。一定のリズムで揺れる体と、雨をはじく傘の音、古い本や薬品の入り交じった香りに、コリンのまぶたはゆっくり落ちていった。 「外は怖かっただろう? ゆっくりおやすみ」     コリンが部屋に籠もっている間に、屋敷のものが一気に増えていた。コリンの病室にも椅子が一脚と、新しい絵本ケース、そしてその中にもいくつか新しい絵本がある。以前から小さな卓上ランプを置いていただけのサイドテーブルには、寝る前にジェマが読み聞かせてくれた本が数冊重なっていた。  それを細い腕がなぎ倒す。暗がりの中で浮き上がる白い指先が崩した本の塔は、床に落ちてばたばたと騒々しい音をたてた。ページが潰れて歪む音が小さく響き、やがて時計の秒針がかちかちと聞こえるばかりになる。  白いパジャマの下をいやな汗が滑り落ちていき、コリンは荒い息を潜めてせわしなく辺りを見回した。  一秒ごとに響く時計の震音。わずかに開いた部屋のドア。絵本ケースの抜けた本の隙間。何かがその辺りから自分を見つめている。あの影は夜闇に溶け込んで、どこからでもやってくる。ベッドの上ですくみ上がり、今にも叫び出しそうな口をしっかり押さえていたコリンは、遠くで時計の鐘が鳴るのを聞いた。  もやがうごめく。影たちが目を覚ます。  重たい鐘の音に跳ね上がったコリンは、そのままベッドを飛び降りて暗い廊下に転がり出た。 地響きのような鐘が遠くで鳴っている。それが空気を振るわせて屋敷を駆け巡ると、壁の隅に固まった影たちが目を覚ました。そしてもやを縒って作った腕をふらふらとコリンの方へ伸ばしてくる。コリンは「ひ」と引きつった声をこぼし、廊下を駆け出した。 鐘の鳴った回数はわからない。ただアイスブルーの瞳を彷徨わせて隠れる場所を探す。階段を降りて、走って、上って、また下りて。そうして何周も走って、目に付いたドアノブにしがみついた瞬間、コリンの足下からもやがさっと引いた。 光。 「コリン!」  腕を掴み上げられてぐらりと体が傾く。強く引かれた肩に痛みが走ったが、それ以上体制が崩れる前に暖かいものに受け止められた。 「何してるんだ……ここには近づいちゃいけないって言っただろう。地下は物が多くて危ないんだぞ」 「……エフィー?」 「お化けにでも見える? ……ほら、ちゃんと立って」  コリンを抱き留めていたエフィーは、懐中電灯を持っていつも通りの水色の看護服を着ている。片手に持つ懐中電灯を除いてはいつも通りの格好だった。 「しばらく引きこもってたけど……大丈夫か?ジェマさんに任せきりだけど、うまくやれてる?」 「叔母さん……? え、あ……違う、エフィー、怖いのが、ここ……部屋、部屋にいたの、入ってきたんだ、夜だから……にげ、違う、逃げなきゃ、エフィー、あのね、エフィー」  痩せた手がエフィーの首元にすがりついてくる。血の気の失せた顔が怯えで歪むのを見て、彼は片手でコリンの体を抱き寄せた。 「大丈夫、大丈夫だ……落ち着いて……」  見開いて乾いた目がエフィーの肩口からあちこちを気にしている。腕の中で硬くなっている体をしゃがんだまま膝に乗せて目を合わせると、何か違うものを見ているような目がゆっくりとエフィーを捉えた。 「部屋から怖いのがいなくなるまで、少し散歩しようか」  エフィーが小さな手を握って自分の頬に押し当てると、こわばっていた体から少しずつ力が抜けていく。ひどく緩慢な動作でコリンが頷くと、彼はその頭を撫で、軽い体を抱き上げて歩き出した。 「夜はまだ冷えるな」  暖かい手に背中をさすられ、コリンはほっと息を吐く。触れあった布越しの胸から鼓動が伝わってきた。  エフィーは屋敷の東側にあるキッチンの勝手口を通って、裏手の森に出る。  木々の隙間に涼しい風が走り、新緑の波が起こった。藍色の空。高く遠い空にぽつぽつと浮かんだ星がきらめいている。暗闇にざわめく気配は、ドアを閉めるとぷっつり途切れた。  風が止み、落ちた木の枝や砂利を踏む音だけが耳に届くようになる。それを聞きながら、コリンはエフィーの肩に寄りかかって屋敷の壁を眺めた。灰色の壁はずっと掃除をしていなかったようで、雨のあとや泥のあとで斑に汚れている。エフィーの光が揺れる度にそれが照らされ、何か得体の知れない怪物の肌の様に思えた。 「森に出たとか先生に言うなよ。ただでさえ前科があるんだから」 「……先生、怒ってる?」 「え? 薬もらうときに話さないのか」 「……話さない……僕が寝てる間に来てるから」  コリンがそう言うとエフィーの歩調が乱れる。すぐに元のリズムに戻ったが、彼は口の中で暫く何か言葉を転がしていた。 「いや……きみを怒ってはいなかったよ。ジェマさんとは少し話をしていたけど、嫌いになったりしてない……でも心配はしてた。それはたしかだ」  顔を見ようと浮かした頭を肩に押しつけられて、コリンは開きかけた口を閉じる。そうしてまた壁に目を向け、力を抜いてエフィーに身を任せた。 「先生はきみを怒ったことなんかないよ。もちろん、これからもない」  彼の声は寂しげな響きをもって響く。頭の後ろから染みこんでくるような声。ジェマの甘さのある声とは違うその声でそう言われると、気持ちが落ち着いてくる。 「だから心配しなくて大丈夫だよ」  そよぐ風に揺らされた髪が耳をくすぐった。 「エフィー」 「うん?」 「絵本読んでくれる?」 「今から?」  笑い混じりにいいよ、と返って来る。 「明日は中庭見に行こうか。ずっと見てなかったし」  エフィーは壁沿いに歩いて、板の打ちつけられた大きな窓をいくつか通り過ぎ、裏の壁の端にある黒いドアも一つ通り過ぎて、館を一周して中へ戻った。      積み上がった本の並びが変わっているのを見て、朝に現れたジェマが首をかしげた。 「昨日読んだの?」 「……エフィーが」 「あら……来てくれたの? 良かったじゃない」  コリンはベッドから下りる。しゃがみ込んで靴を履いていると、視界の端でブラウンのスカートが揺れた。 「どこかに行くの? 朝食来ちゃうわよ」 「エフィーに、広間で食べるって言ったから……」 「そうなの? 今日は調子いいのね」  立ち上がると目の前に血色の良い手が差し出される。柔らかい、しなやかな手。手首に浮いた血管。その太さ、皮膚の色、指の形、関節のシルエットが、よく見知った大きく硬い手とは全く違っていて一瞬躊躇してしまう。引きかけた手を取ると、ジェマは一瞬眉をひそめて早口で言った。 「エフィーは先生のこと何か言ってた?」 「え?」 「……ううん、ごめんなさい。……何でもないわ」  彼女の髪が揺れる。じっと見上げられた彼女は暫く不自然に笑みを浮かべていたが、やがて観念したように息を吐いた。そして手を繋いだままベッドに腰掛け、コリンの顔を覗き込む。 「エフィーは良いんだけど……彼とはどうもね」 「先生?」 「…………貴方は変だと思わない?」  繋いでいた手を引かれ、数歩踏み出す。するとジェマとの距離が縮まって、ふわりと甘い香りに包まれた。花や蜂蜜のような匂い。ほこりっぽい病院に不釣り合いな香り。  すぐ鼻の先に近づいた顔が厳しい表情を浮かべていて、コリンは身を固くする。 「変…………先生が?」 「貴方たちは先生って呼ぶけど、本当にそうなのかしら。あの人が本当に先生だなんて思える? 貴方だっていやなんでしょう」  オリーブ色の瞳がまっすぐに見つめてくる。  強い目に射貫かれて、コリンは目を泳がせた。 「……それは、でも…………エフィーが、先生は怒ってないって」 「怒ってるとかそういうことじゃないのよ」  言い聞かせるように、強い口調で彼女が言った。  オリーブの瞳の中にコリンの影が映り込む。肩についた毛先がたわんだ、少女のようなそのシルエットはジェマとそっくりだ。ジェマの瞳の中にもう一人彼女が浮かび上がっているようにも見える。  ジェマは黙り込んだコリンの頬を両手で包み、打って変わって優しい声色を作った。 「私、貴方をこんな所に置いておけないわ……あんな人の所に置いておけない」 「……けど……エフィーも、外は危ないって」 「ええ、エフィーは優しいし、貴方を騙したりしないと思う。本当よ。だけどね……こんなこと言いたくないけど」  彼女の視線が外れ、下へ落ちて彷徨う。唇を何度か噛んでは薄く開き、何かを言おうとしてはやめる。コリンがおそるおそる手を伸ばしてジェマの手に触れると、彼女はようやく言葉を紡ぎだした。 「……彼は騙されてるのかもしれないじゃない」 「騙されてる? …………エフィーが?」 「そう……そうよ。だって彼は本当に貴方を大事にしてる。まだここにきたばかりでもわかるくらい。だからこそ変じゃない」  柔らかい指が頬を撫でて、肩に落ちる。手はそのまま腕滑り、肘の裏を伝い、腕の内側に触れた。指先がそこを押すと鈍い痛みがじんわりと広がる。 「い……っ」 「あんなに貴方を大事にしてる彼がこんなものを打つのをやめさせないなんて」 「…………エフィーは、看護士だもん」 「看護士ならもっと何か治療法を知ってるわよ。それなのにあの人のやり方を止めない」 「……けど、先生、ときどき街の診療にも行ってる……」 「本当にあの人がお医者さんで、こんなものに頼らなきゃならない理由があるなら私にも聞かせてくれるでしょう。でもあの人は貴方を眠らせるためって、それだけ。エフィーは何か聞かされているのかもね。それが本当かなんて、彼にもわからないんでしょうけど」  忌々しげに吐き捨てると、彼女はコリンの腕から手を引いた。 「ねえコリン……一緒にここから出ましょう。玄関は鍵を掛けられているけど二人でならなんとか抜け出す方法を見つけられると思うの。ね?」 「…………うん」  コリンの脳裏に昨晩通った風景が思い浮ぶ。  暗い廊下、屋敷の東端にあるキッチン、表と室内を繋ぐ勝手口、塞がれた大きな窓、すすけた壁…………。  そこまで思い出したところで部屋の外から声がした。 「コリン! 朝食できてるから早く広間においで!」 「エフィーだ」 「あ、コリン」  するりとジェマの手をすり抜けてドアを開ける。エフィーは洗濯ものの籠を抱えてそこに立っていた。 「ああ、ジェマさんといたのか……早く行かないと冷めちゃうぞ。あと、先生が診察室に来るようにって」 「うん……これから洗濯?」 エフィーはいっぱいになった籠を抱え直して頷く。額に汗がうっすら滲んでいて、今までずっと動き回っていたようだった。 「ああ、午後は地下室の整理しようと思ってさ。最近はいろいろ入り用でものを出してるから……めちゃめちゃなんだ」 「あら、迷惑かけてごめんなさいね。なんならお手伝いするわよ」  コリンの後ろからドアの枠に手をついたジェマが身を乗り出す。芝居がかった彼女に、エフィーは苦笑して首を振った。 「嫌味じゃないですよ」 「ええ知ってる。お掃除頑張ってね。洗い物なら手伝っても?」 「いつかね。今日はコリンをお願いします」  首をすくめて冗談っぽく言う。ジェマもそれを真似て「残念」と返し、コリンの手を取った。 「さ、コリン、行きましょう」 「コリン、良い子にな」  廊下に出る二人とすれ違いに、エフィーは病室へ入っていく。  部屋を出たジェマは黙って歩いていたが、ふと小さく「地下室」とつぶやいた。 「地下室に、玄関の鍵を隠していたりしないかしら」  広間のドアに手をかけながら、彼女は辺りを見回す。それから広間に入ってまた中を確認するとコリンを中に引き入れてドアを閉めた。ごつん、と重いドアの閉まる音。 「エフィーは唯一の買い出し係で玄関の鍵を持ってた。……それと、この屋敷で地下室に入るのは彼だけなんだから、隠し場所には最適じゃない?」 「……エフィーは鍵を持ってないよ」  そう言うと、ジェマはやっとコリンの方を見た。 「……鍵はカーター先生から借りてる……けど、玄関の鍵だけは、買い出しの日に先生がそこから出してる」  ちいさな指さしたのは新しいテーブルの上に放られたネームカード。柔らかい透明な素材の名札入れに黒い紐が輪の形に繋がれている。ひっくり返ったそれをジェマが持ち上げると、コリンからは「コール・カーター」と書かれた表面が見えた。 「……ときどき、エフィーに鍵をあげて、忘れていくんだ……先生は『ズボラ』なんだって」 「……それじゃあ玄関から出て行くのは無理ね」  テーブルの上には二人分のパンとミルク、野菜スープ、ジャム瓶が並んでいる。食べ終えたスープ皿が一枚放置されているのを見て、ジェマが顔をしかめた。 「あの人はたしかにズボラだわ」  ジェマが席につく。それは四つあるうちのコリンの席だったが、彼女は気がつかずにスプーンに手を伸ばした。 「コリン、早く食べないと本当に冷めちゃう」 「……うん」  コリンはのろのろとジェマの椅子に上がってパンに手を出す。 「他にどこか出られそうな場所はない?」 「……昨晩は、エフィーが散歩に連れて行ってくれたよ。キッチンの、勝手口から」 「キッチン? 東側の?」 「うん……そこから、裏の森の方へ行った……一周して、同じドアから戻ったよ」 「……そこは駄目ね」  わずかに考えるそぶりを見せてからジェマが言った。 「あそこも、普段は鍵がかかってたわ。エフィーがたまに開けるのを見るけど……あの鍵はエフィーが自分のネームカードの中に入れてたはずよ」  コリンはスプーンでとろりとしたスープの底をかき回す。するとそこに渦が現れ、次いで、浮き上がった気泡がぷつぷつと表面に穴を開けた。  スープの表面が昨日見た灰色の壁と重なる。雨粒や跳ねた泥で斑になった壁。触れたらざらつきそうなそれがでこぼこしたクリームスープの表面によく似ていて、そこに窓をつけるように四角を描いてみると、黒いドアのことが頭に浮かんだ。 「……裏に、ドアがあった」 「ドア? 中庭へ出るドアみたいな大きい窓のこと?」  首を横に振る。ドアの形をよくよく思い出してみるが、屋敷の中では見たことのないもので、それを伝えるとジェマも首をかしげた。 「どの辺りにあったのかわかる?」 「端の方……キッチンの反対側」 「キッチンの反対? 向こう側に外に出るドアなんて……階段下辺り?」  スプーンがかちんと音を立てる。空になった皿の上に乗せられたそれが鈍く光っていた。 「たぶん…………あの辺にあったのは……」 「地下室ね」  屋敷の両側には一つずつ階段がある。北側の壁にぴたりと沿って二階へと続く階段。西側には、その向かい側の壁に地下室へ下りるための階段がある。階段の前には一枚木製のドアがある。地下への階段は薄暗くて湿っぽい。ひんやりした空気の中でぽつぽつと切れかかった明かりが点っている。ずっと下りていくともう一枚ドアがあって、そこにはいつも鍵がかけられていた。  コリンの前にグラスが置かれ、その中で注ぎ足されたミルクが揺れる。グラスから離れた手を追って視線を上げると、すぐ側にジェマが立っていた。 「……ありがとう」 「どういたしまして。……ねえコリン……どうにかして一度地下へ行ってみましょう」  テーブルに白い手が乗る。顔が近づき、背中に沿えられたもう一方の手がコリンを引き寄せた。 「もし地下から裏に出られたら森に紛れてここを離れられる。そうでなくても、あそこにはいろんなものが置いてあるみたいだし、何か……玄関を壊せるものくらい見つかるんじゃない? ほら、あの前に使っていた小さいテーブルとかどう?」  彼女は空中で拳をつくって、何かを振りかぶる仕草をしてみせる。そして快活に笑い、不安に揺れるアイスブルーの瞳を覗き込んだ。 「……森から裏へ出ても、塀がある」 「塀をたどっていけば門につくわ」 「もし出られなかったら?」 「そのときは門を壊せるものを取ってくる。意地でもね」 「……正面じゃ、二階の診察室から見える……あそこ、窓塞いでないよ」 「夜に出て行けばいいの。あの人の部屋はもう少し奥じゃない。真っ暗なんだから見つかりっこないわ」  ジェマの両手に頬を包まれ、コリンの顔が強引に上げられる。前髪が触れ合う程に近づくと、彼女の光彩まで見えた。  彼女の唇が動く。 「絶対に大丈夫よ、コリン。私がきっと守ってあげる。…………貴方は、姉さんの大事な……」  急に抱きすくめられて椅子からずり落ちかけるが、彼女の胸に受け止められ、なんとか床につま先をついた。 「お母さん……?」  柔らかい体に包まれる感覚はどこかなつかしい。そうして体温を分け与えられる感覚は不慣れなのに、肩から力が抜け、肺から深く息を吐いた。 「……叔母さん……お母さん、気がついた時にはいなかった……なんでここにいないの…………お母さん、どこにいるの?」 「…………ここから出ることができたら、何があったのかちゃんと聞かせてあげる。……だから私を信じて」  震えた声が耳に触れる。熱い息が肩に染みこみ、コリンは唇をひき結んだ。だらりと下げていた手で彼女のシャツを掴む。同じ金髪でも、近づくとジェマの髪はコリンの髪よりも少し茶色がかっていて、それがコリンの頬を撫でるのが心地良かった。 「……うん」  目の前で流れる金色に指を通す。 「……絶対に連れて行ってあげる、本当によ」  もう一度そう聞かされ、コリンは目を閉じて頷いた。      一度片付けたはずの診察室はすっかりもので溢れていた。回転椅子に腰掛けたカーターが振り返る。彼は薬瓶を置いてコリンに手招きした。 「最近はどうだい」  正面に立ったコリンの髪に触れてそう問う。近づいたカーターのサングラスにコリンの顔が写り込み、その奥にカーターの切れ長の目がうっすらと見えた。上半身をかがめて、コリンの頬や肩を細長い指で確かめるようになぞっていく。  骨張った手が脇腹にたどり着くと、その手がコリンの体を持ち上げて膝に乗せた。 「ずっと部屋にいたからかな、少し軽いね」 「……エフィーのこと怒ったの」 「いいや、注意しただけだよ。……エフィーは買い物に行ったみたいだけど、会ったかな」  黙って頷く。膝に乗せられたまま、彼の手が頬や目もとに触れるのを目で追った。 「そう。エフィーはきみをずっと心配していたよ。あとでゆっくり話してみたらどうだい」 「……エフィーは忙しいと思う」 「ジェマがいろいろ手伝ってくれているから大丈夫だよ」  青い瞳がゆらりと彷徨う。白衣、インナー、椅子の肘起き、ものの積み上がったデスクへ。コリンは慎重にカーターののど元を見上げた。 「……物置からものを運ぶのも、手伝ってもらったら?」  彼の手が止まる。彼の目を見られずにじっとのど元に目を留めていると、細い首に浮き出たのど仏が動いた。 「そうだね……けど、ジェマは女性だろう。そんなことはさせられない……って彼は言うんじゃないかな」 「……そう」 「ああ。……けど、そうだな……また五日もしたら買い出しに出るだろうから、午前中に済ませたい仕事を手伝ってもらったらいいかもしれない。そうすれば夜は三人で過ごせるだろう」 「……叔母さんに言っておく。…………あと、叔母さんが、他も掃除しましょうかって。……先生の部屋とか」  頭が左右に振られるのに従って長い髪が揺れる。毛先がふわりと肩の上に落ち着き、軽い毛先がさらりとそこから落ちた。 「今日はよく話すね」  骨っぽい指が髪を梳く。撫でつけるような手つきは探られているようでもあって、小さな体がこわばった。耳をかすめて頭皮の上を這い回る指。息をひそめて身じろぎもせずに黙っているとその手は金糸を絡めて名残惜しそうに離れていった。 「咎めたわけじゃないんだ。きみが話してくれると嬉しいよ、コリン」  旋毛に降り注ぐ声は普段より幾分か柔らかく、温度がある。そろそろと視線を上げると薄い唇が写り込んだ。緩んでいるわけではないがいつものようにきっちり結ばれてはいない。 「まあ、また話したいことができたら話してくれたらいい」  大きく薄い手がコリンの体を持ち上げて床へと戻す。ふらつきそうになる体を支えてその手は離れて行った。 「……ほら、エフィーが帰って来る頃合いだ。迎えてあげるといい」  頬をもう一度指の腹が滑る。サングラスの向こう側は見えず、表情も読み取れなかった。  窓の外からエンジンの音がする。コリンを呼ぶジェマの声にはっとして踵を返した。      乱雑に投げ出された服が絡みあって床を埋めている。カーテンをすかす日の光がその上に落ちて波のような影をつくっていた。  コリンはそれを崩さないよう、慎重に部屋に踏み込んだ。 「帰ったら掃除しますから、部屋空けておいてくださいよ」  呆れ顔で朝食を運ぶエフィーの声が蘇る。  足りないものを書き留めた紙切れを彼に手渡すジェマがコリンに目配せして、空いた皿を下げようとするエフィーに声をかけていた。 「買い出しに行くなら私が片付けておく?」 「いやあ、大丈夫ですよ。本でも読んだら良い。ほら、コリン、先生にもらった新しいのは読んだ?」 「そう? 今日はコリンも元気そうだし、本を読むより体を動かす方がいいと思ったんだけど」  再び彼女の目がコリンに向き、返答を促す。コリンが頷いて見せると、ジェマはまた「ね」とエフィーに微笑みかけた。 「…………それじゃ、洗濯を頼みます。先生の分は後でやるから、他のを洗って干しておいてもらえますか?」 「彼の分は?」 「私のは量が多いから」  エフィーが口を開く前にカーターが答える。コーヒーカップを空にすると、彼はエフィーに食器を渡して席を立った。 「先生、ネームプレート忘れないでくださいよ」 「ああ、そうだった。ありがとう」 「毎回忘れてもらったら困りますよ。暇じゃないんですから……先生、今日外には?」 「とくに用事はないかな。街の方から呼ばれてもない」  カーターが答えると、エフィーはテーブルから拾い上げたネームプレートを彼に渡してキッチンの方へ引っ込んで行く。その手の中にある銀色の鍵を一瞬だけ追って、彼女はまたカーターに視線をやった。 「本当に貴方の分はいいの?」  ドアに足を向けながら彼は「ああ」と返す。 「たしかに量が多すぎるからね」  布の波間に覗く床につま先を下ろし、コリンは静かに進んだ。  二つ先の部屋にはカーターがいて、エフィーの片付けが入っても片付ききらないデスクの上をいじくっている。本を置いた音、置き場に迷ったカップをその辺りに置いて倒す音、ペンを落とす音…………。  神経質そうな細くひょろ長い容姿に反して雑な所作の一挙一動には必ず物音がついて回る。散らかった部屋ではなおさらだ。  彼のものぐささを体現した部屋に、コリンも思わずため息をつきたくなった。それをぐっと飲み込んで、まずは部屋の一番奥へと向かう。  入り口と向き合った壁は書棚や机、クローゼットなどの家具で埋まっている。机の上部の窓が据えられた場所の壁だけが顔を出していて、カーテンのかかった窓から差し込む光は両側の家具に四角くくりぬかれ、床や向かいの壁を淡く照らしていた。机の前で中途半端に引かれた椅子は診察室のものとは違って木製の、四つ足の椅子だ。背もたれと腰を乗せる部分に深緑のクッションがはめ込まれている。  コリンはそこに上がって、手始めに机の上を調べてみた。いくつもの雑多なジャンルの本や新聞、買い物のメモや壊れたペンが滅茶苦茶に置かれている。それを一つ一つどかしては戻してを繰り返し、机の中も同じように探ったが、それらしいものは見つからなかった。  廊下のどこかでジェマが洗濯物を持って駆け回る音がする。カーターのもの音は依然として小さく響き続けていた。  椅子の背の方へ体をひねって部屋を見渡してみる。  部屋の隅は薄暗く、床には衣服の波、壁を埋める本棚や硝子張りの棚、そして机の正面の壁に頭を向ける形で置かれたベッドと、サイドランプや写真立てなどが置かれたナイトテーブル。薄く光のかかった枕にはコリンの影が浮かび上がって、まるでコリンの影がそこに横たわっているようだった。  一人でに動き出すそれが脳裏に浮かんで慌てて視線をナイトテーブルの方へやる。その引出しが少し引かれているのを見て、コリンは椅子から降り、近づいて中を覗き込んだ。  狭い木枠の中に、さらに細かく仕切りがされている。その枠の手前側には「応接間1」「二階A室」「掃除用具入れ」等々の部屋名が書かれた白いテープが貼られ、それぞれ対応しているらしい鍵が枠に収まっていた。「客室A」が上から「ジェマ」と重ね書きされた枠と、「診察室」「玄関」「門」「キッチン裏」などいくつかの枠は空になっている。埋まっている枠を一つ一つ見ていくと、中央右側の「コリン」と隣り合ったテープに「地下室」と書かれていた。その中にあった鍵をつまみ上げる。 「おや」  ぞ、と血管が逆流したように全身が震えた。振り返ったアイスブルーの瞳がぎょろぎょろとせわしなくあちこちを巡る。暑いのだか寒いのだか解らないままぶるぶる震え続ける体を押さえつけ、鍵を握りしめてドアを凝視するが、そこに声の主らしい姿はなかった。 「洗濯、お疲れ様」 「いいえ、好きでしているの。お気遣いなく」  とがった声が返す。  二つの声はドアを挟んだ廊下から届くものだと気付いて、ふっと力が抜けた。手の中の鍵をちらと確かめ、そのまま息を潜めて耳をそばだてる。 「『先生』は何を?」 「少し仕事だよ。明日は街の診療所の方へ行くから……今は少し休憩だ」 「あらそう。お茶でもお淹れしましょうか?」  とげとげしい声色に怯むこともなく、彼はいつものように「ああ頼むよ」と返す。重なる足音が遠ざかる。  荒っぽい方の音が完全に消えると、コリンはナイトテーブルの引出しを元のように少し押し込んだ。ぐっと手に力をこめる。古びた引出しは軽く軋んで、ナイトテーブル自体ががたつく。その拍子に台から滑り落ちそうになった写真立てをなんとか胸で受け止めたところで、引出しが元に戻った。写真立てを空いたスペースに戻し、角度を調整しながら、コリンは小さく首をかしげる。  写真に写っているのは二人の男女。遠目に並んだ二人が揃ってカメラとは少しずれた方を見ていた。古びた写真で顔はよく見えないが、針金のように細長い男性は、石のようなものがはまった大ぶりのペンダントを下げた女性の背中を支えている。長い髪を高い位置で一つ結びにした女性のシルエットはカーターそっくりだが、彼女はカーターより薄い髪色をしていたし、華奢で、可憐なブラウスを着ていた。彼女の容姿にはみおぼえがある。――――おかあさん、と小さな唇が動く。 その隣に立つ男性は女性を支えるのとは別の手で額に日さしをつくって、カーターと同じサングラスをかけていた。  男性の背格好は幾分か若いものの、カーターと瓜二つだ。しかし、彼の髪は今と違ってばっさりと切られていて、結ばれてもいなかった。  二人は何か小さな箱のようなものがぶら下がった枝を眺めている。古ぼけた枠の中は森のようで、彼らの後ろには木々が立ち並んで影を落としていた。 「コリン、私よ」  ドアの向こうから投げかけられた声に意識が上向く。写真を戻して廊下へ顔を出すと、エプロン姿のジェマがしゃがみこんでコリンの髪を撫でた。 「鍵は?」 「見つけたよ」 「よかった、これで……あの人、今キッチンでお茶してるの。終わったら貴方の様子を見に行くって……お菓子出してきたから時間は稼げるけど、もう部屋に戻った方がいいわ」  頷いて彼女の手に鍵を落とす。古く黒っぽい鍵は白い手に包まれて、そのままポケットに入れられた。 「叔母さん、地下へ行くの」 「いいえ。もうじきエフィーが帰ってくるもの」  ジェマはコリンの背中を押し、来週よとささやく。自分に言い聞かせるように、確かめるように。わずかに高揚したその響きは、コリンの耳にじわりと焼きついた。 「さ、行って。私はあの人のお茶を片付けなきゃならないでしょうから」  肩をすくめながら彼女は逆方向へと歩き出す。階段への角を曲がる直前に小さく手を振られて、コリンも自分の部屋に戻るため歩き出した。  診察室を通り過ぎ、また空き部屋を一つ二つと過ぎる。  プレートもない部屋は病室。物置は地下室。がらんどうの病棟。入院しているのはもうずっとコリンだけ。先生の寝室とその隣の立派なドアの部屋と地下室は入っちゃ駄目…………ずっと前にエフィーが教えてくれた約束。  一つ目を破ってしまった。 「エフィー……」  カーターにはばれているのかもしれない。カーターは怒るだろうか。そのために病室に来るのかもしれない。そうしたらエフィーもきっと。  二人ともが怒ったら、ここを追い出されてしまうのだろうか…………  はた、とコリンは足を止めた。  追い出されたって構わないじゃないか。 「……あれ、だって……うん……」  城から出るために約束を破った。城を出ればジェマと一緒に自由に生きられる。自由になったら何をしよう。何処へ行こう。空が広く見える所がいい。高い壁が空を閉じ込めたりしない場所。朝は叔母さんのパンを食べて、お昼は外で洗濯をして、花壇も作りたい。夜になったら………… 「でも……」  夜になったら影がやってくる。叔母さんはエフィーのように一緒には眠ってくれない。叔母さんはエフィーと違うスープを作る。ここにある絵本は先生とエフィーが買ってくれた。先生は影に襲われない。エフィーはいつも影の腕から引っ張り上げてくれる。病院の窓はほとんど全部塞いであって影は映らない。  ジェマ叔母さんはどうだろう。叔母さんは影のことを知らないかも。窓を開けてしまうかも。それに叔母さんの腕はエフィーのたくましいそれと違って、細くて柔らかい。 「……でも、でも…………あれ」  ここから出て、どうなるんだろう。 「出なきゃいけない、ちがう、ちが……外に、出たい」  本当に?  足下でもやが笑った。絨毯の細かい毛の隙間でざわざわと影は体を揺すぶる。本当、本当、と細かな声がする。合唱がだんだんと大きくなって、にじみ出てきたもやがコリンの靴の隙間に滑り込んできた。 「あ、ああ」  無我夢中で靴をむしり取り、裸足で駆け出す。ぶちゅりと潰れたもやはぎゃらぎゃら笑って足の裏にへばりつき、白いパジャマの裾を引っ張った。 「うえ、あ」  廊下の壁にすがりつきながらもたつく足で必死に駆ける。平衡感覚を失った体が壁にぶつかり、頭にごつんと音が響いた。一瞬視界が白けて遅れて痛み。  窓枠に打ちつけられた木版のわずかな隙間がちらりと目に入る。糸のような日光が目を焼き、そして足下を照らしていた。  影が退く。  光だ。と、がむしゃらにその隙間に爪をたてた。 足下のもやががなりたてる。  何処行くの。どうするの。外なんか出て。  光が影を溶かす。外には光がある。指先にあたった陽光。じわじわと指先がしびれた。熱なのか痛みなのかわからないまま、コリンはただその隙間をひっかく。 「外……外、なら」  お日さまがある。  しかし言葉は続かずに口の中で溶け消えた。  もやはまたおかしそうに笑い出す。  生ぬるい吐息を耳元に感じた。気がした。きっとそこにいる。爪の先に血の滲んでいるのに気付くと、急に痛みが肌を刺した。肌の上を細長いフォークのような、指の足りない手が這っている。喉にぎゅうと絡みついたそれは、顎をつたって頬に伸びた。首が絞まる。  すぐ夜が来るよ。と毛羽だった毛糸のような声が耳に触れる。壁に額を預けてうつむくと、足下で嫌な笑みを浮かべた影と目が合った。  呑み込まれてしまう。  ずり落ちた体。膝をついて、ぱかりと開いた口が鼻先に迫り、ゆっくり瞼をおろそうとしたとき、急に体が浮き上がった。 「気分が悪いかい」  上向きにされてくすんだ電灯に目がくらむ。目が慣れ、ぼんやりと写り込んだサングラスの中の自分には何の腕も巻き付いていなかった。呼吸が帰ってくる。  カーターは咳き込んだコリンの体を抱き直してしゃがんだ膝に乗せた。 「目眩? 発作かな。薬を飲んでない?」  脈をとる手に体の力が抜ける。  もや達は廊下の隅に身を潜めて恨めしそうに小さく何かを唱えていた。 「こわい、先生、こわいのが、床に」 「お化けが出たのかい。顔色が悪いね。……そろそろエフィーが戻っていてもいい頃だ。暖かい飲み物を頼もうか…………ああ、手の消毒をしてあげよう、棘もささってる」  握りしめた白衣に血が滲む。  紅茶に似た色の髪がさらさらと落ちてくる。それが頬をくすぐる感覚に、どこか覚えがある気がした。      何日目かの朝、エフィーが買い物に出た。  ジェマの視線を感じて食卓から顔を上げる。彼女は「気をつけてね」なんて言いながらエフィーの作った朝食を綺麗に片付けていた。 「私はまた洗濯でも掃除でもしておくから」  外出できないことが気にくわないとでも言いたそうに彼女は部屋を出て行く。コリンは出された薬をそっと皿の影に押しのけはしたものの、いつものように着いて行きたいとは言わなかった。 「私が地下室にいる間、『先生』を見ていて」  囁き声が蘇る。朝食前に迎えに現れた彼女は髪を後ろで纏めていて、いつもより少し神経質そうな表情をしていた。ふとベッドメイクをする横顔にあの写真の女性が重なる。カーターのような髪型だったらもっと似ていたかも知れない。  カーターも同じ事を思ったのだろうか、とコリンはいつものように席を立たずに後片付けを眺めていた彼を盗み見た。 「コリン、薬を飲みなさい」  唐突に声が降ってきて息が止まりそうになる。サングラスに遮られて視線の読みにくいカーターの言動は心臓に悪かった。  いらない。と答えた声は消え入りそうに小さい。降り注ぐ視線に身が固まるがコリンはそれ以上何も言わなかった。今日だけはぼんやりしていてはいけないのだから。 「コリン」 「……夜に眠れるように、起きてたいから……」 「……気が楽になる薬だ。最近は調子が良くなかっただろう。夜には眠れる薬も用意してある」 「今日は、いらない……」  エフィーもジェマも出て言った部屋では沈黙が重くのしかかる。しばらくそうして黙り込んでいたが、先にカーターが口を開いた。 「………………それじゃあ、少し私と気晴らしに出ようか」  テーブルから錠剤がつまみ上げられる。細い指はそれをピルケースへしまいこんでからコリンの髪を優しく撫でた。     「裏の森にはあまり出たことがないだろう」  斑に汚れた壁にはめ込まれた黒いドアを見やる。ひょっとしたら、ジェマがそこから顔を出すのではとコリンは気が気でなかった。  まばらに広がった枝の隙間から暖かい光がぽつぽつ落ちてくる。緑を透かした日光。そよぐ風。その景色の中で白衣の背中はずいぶんと浮いていた。 「ご覧、そこの木に鳥の餌箱をかけたんだ。ずっと昔にね」  壁のドアから目を外し、手を引くカーターの視線の先を見る。宙に浮かんだようにぶら下がっている木箱はあの写真と同じものだった。  ――――やっぱり、あれは先生だ。  手で日を遮りながらそれを見上げるカーターの姿は、髪の長さこそ違うものの、彼の部屋で見た写真とぴったり重なる。  木箱の穴から小鳥の尾がせわしなく動いているのが見える。中で餌をつついているのだろう。 「今はエフィーに任せきりにしているけど、ときどき見に来るんだよ……私の目は明るい場所ではあまり役に立たないけどね……」  サングラスの隙間から眩しそうに細められた目尻が覗く。懐かしそうなその目はなんとなく見てはいけないもののような気がして、コリンは餌箱の方へ目をそらした。 「……あれ」 「うん?」  無意識に漏れてしまった声を拾われて肩が跳ねる。けれど今更誤魔化すこともできず、素直に視線の先を指さした。 「あれは、何……? 木の……」  示した先を見て、カーターは「ああ」とまた感慨深そうにため息とも返事ともとれないような、曖昧な声をこぼした。  まっすぐに指さした先。太い木の幹にMとほとんどひっかき傷のように彫られている。  カーターを見上げると、彼はその場にしゃがみ込んで青い草の覆った地面に触れた。 「……ここにはね、私の宝物が埋まっているんだ」 「宝物?」 「そう。とっても大切なもの……の一部、かな。その目印…………このことは私たちだけの内緒にしてくれるかい」  どこか、すがるような声だった。 「……エフィーにも?」 「……そうだね、私たちだけ」  彼の薄くて大きな手がコリンの肩を抱き寄せる。いつもなら恐ろしいはずのその手が、どうにも頼りなく感じてしまって、コリンは黙って頷いた。 「ありがとう」  普段通りの飄々とした調子で薄い唇が微笑む。  嘘っぽいそれに触れることもできないまま、しばらく二人でそうして寄り添っていた。  結局、黒いドアは開かず終いだった。      ほこりっぽい石段をゆっくりと下りていく。キッチンからくすねてきたランプが急な階段下の黒いドアを照らした。  耳を澄ましても物音は聞こえない。屋敷のどこからも。屋敷は寝静まっていて、珍しく影達も静かだ。  コリンはランプを足下に置いて、古い鍵を使ってドアを開けた。ぎい、と錆びた蝶番が軋む。  ひんやりとして湿った空気の地下室は錆と埃と黴の匂いがした。 「それじゃあ、明日は鍵を彼の部屋に帰しましょう……気付かれる前にね」  エフィーと先生のことはなんとかする、と言っていたジェマから手渡された鍵。それをポケットに入れてから、ずっとその重みに耐えている気分だった。  彼女に黙って地下室へ来たことが知れたら、彼女はコリンを叱るかもしれない。それでもコリンは確かめたかった。 「ドアは見つけられなかったわ。物が多すぎたの……もしかしたらどこかにはあるのかもしれないけど……」 「……でも、あそこに繋がる部屋は地下室しか……」 「そうね、わかってる。疑ったりしてない……でもあの部屋の物が少なくならない限りは無理よ」  その言葉通り、地下室は雑然としていた。壁を手探りで伝っていき、なんとか見つけたスイッチを押す。するとオレンジがかった古いランプが部屋を照らした。けれど明かりは小さく、手持ちのランプをかざさなければ捜し物も難しい程の弱い光だった。  古びたソファやクローゼット、アンティーク調の家具類や積み上がった箱。ドアか階段があるはずの向かいの壁は同じようにものが積み上がっていたり、布のかかった背の高いものが並んでいたりと壁そのものが見えにくくなっていた。  ランプをかざして手近な場所から探っていく。静かな部屋にかたりこつりと物音が響くたび、小さな明かりと化け物のように伸びた自身の影が積み上がったものの上を移動した。  ふとコリンがランプを足下の箱にかざしたとき、その下の床に埃が付いていないことに気がついた。少し前までそこに何かあったような……。それはレールのように線を引いていた。  それを追って行くと、布を被ったあの壁際までたどり着く。ほこりっぽい布を少し持ち上げると、それは物干しか何かのようで、落ち着いた色のワンピースやブラウスがずらりと並んでいた。  その隙間で何かがきらりと反射する。 「……あ」  手を伸ばして掴む。知っている感触。それを軽くひねって押すと、体がその服の中へと沈むように埋もれ、また冷たい空気に出迎えられた。  ランプが照らした古いドア。ずっと上へと向かっていく階段。向こうから、ほんのわずかに乾いた風が吹き込んでいる。  ――――ドアだ。  ――――もしかして、鍵を盗んだのがばれていて、カーターが隠したのだろうか。それとも…………  そこまで考えて、どっと汗が噴き出す。逃げ戻るようにドレスやらワンピースをくぐり抜け、ドアを閉めると、コリンは床に座り込んでしまった。  地下室は相変わらず湿っぽくて黴臭い。  かたんとランプが床に明かりと影の模様を広げる。コリンの影が床へ伸びて、何か恐ろしい塊のようになってうごめいた。  それから目をそらし、もう一度部屋を見渡す。その中の一つに、見覚えのあるものがあった。それをコリンはよく知っている。 「……先生のと同じ……」  膝立ちで近づいて見ると、それはやはり診察室にあるものと同じデスクだった。対で作られたもののように、細かい引出しの飾り模様まで同じものだ。その下の奥の方に何か銀色の塊が落ちていて、コリンは下に潜りこんでそれを拾い上げた。  銀色の塊だと思っていたものはロケットのようだ。しかしそれはひしゃげて錆び付いていて、はめ込まれた青い石はひび割れていた。  それはあの写真で母がつけていたものによく似ている。壊れてしまってはいるが、石と形はおそらく同じものだった。 「…………え?」  丁寧に開いてみたそれを見て、心臓が凍ったような気がした。  楕円にくりぬかれた写真。そこには小さいが、あの女性と、今よりも少しばかり幼いコリンの二人が写っていた。  身に覚えのない写真の中で自分はあの女性に抱きあげられている。それを見た瞬間、ふと脳裏に銀色のロケットを撫でる白い手が浮かんだ。 「これは貴方にあげる」  聞き覚えのない言葉。握り込まされた感覚に覚えはないはずなのにやたらとリアルで、今さっき触れられたかのようにさえ思えるそれに酷く気分が悪くなった。  ロケットをポケットに突っ込んでコリンはデスク下から這い出す。転がるように駆けだし、地下室から逃げ出した。ランプを倒した気もしたし、部屋の明かりは今にも消えそうに点滅していた気もしたが、全てそのままにして階段に蹴躓きながら駆け上がった。  ――――ここは、何なんだろう。  ――――二対のデスク、女性物の服、あれは、お母さんの  ――――だけど、どうして  ――――何かを忘れている…… 「コリン!」  駆け上がった階段の先に、懐中電灯の明るい光が見えた。 「え、ふぃ……」 「お前、何を……どうして……」  険しい顔のエフィーが腕をきつく掴む。怖くてたまらないはずの怒号になぜか安堵して、コリンは鍵を握った手をエフィーにぐいぐい押しつけて彼の胸に顔をうずめた。 「なんなの、ここ、何、エフィー、ここ、なんなの……!」 「コリン、地下室に入ったんだな?」 「エフィー、なんなの、教えて、わかんない、ここ、何? どうして、なんで先生と」  エフィーの顔は見えない。腕を掴んでいた手はいつの間にか離れていて、小さな背中へ回っていた。 「…………ここは病院だよ。……カーター先生の、病院」  鍵を握っている手をほどかれて、鍵を取り上げられる。いつも通りの宥め声。落ち着いたその声が「薬を貰おうか」と落ちてきて、コリンはわけもわからないまま頷いていた。      なつかしい記憶。 「これは私が私のパパから貰ったの」  しなやかな手に握られた銀色のロケットは、丁寧に磨かれたようにきらきら光った。それをぱちんと開けて中に小さな写真を入れる。一連の手つきはひどく優しげで、それを見守る影もそっと手を伸ばした。 「お父さんがいるうちに、三人の写真を撮れたらよかったけれどね」 「貴方も写ってくれたら十分よ、コール」 「私はいいよ。ただの主治医なんだから」  ひょろ長い影が揺れる。おどけたように。 「幼なじみよ。あの人だって解ってる」  車椅子の母の膝に乗った自分は青々とした地面に置かれた黒いつややかな石を見下ろしていた。何か文字が彫られている。 「貴方がいてくれるから彼だって安心して」 「どうかな、私がいるのを良く思っていなかったからこんなに早く…………すまない、君に言うようなことじゃ」 「謝らないで」と、彼女が遮った。  風に遊ばれた金糸の髪がカーテンのように落ちてきて、頬に触れた。それと同時に視界が遮られる。黒いドレスを着た彼女の胸に抱き込まれる。針金のような影は見えなくなった。 「コリンと貴方がいる。それで私には十分すぎるから神様がきっと取り上げたの。…………こんなにいい友人がいて、可愛い子供がいて、私は幸せ。不幸なんかじゃない。パパもこの人も、私を大事にしてくれた。それこそ十分すぎるくらいね」 風が吹いている。  暗闇。コリンはゆっくり目を閉じた。  暖かい温度はいつの間にか消えていた。代わりに黴の匂いとひんやりした空気が身を包んでいる。  縮こまって暗闇で震えている。かつかつと神経質そうな足音が響く。それが過ぎ去るのを必死に待っている。手の中に硬く濡れた何かを握りしめたまま。  それが諦めたように重たいドアを開けて出て行くのと入れ違いに、別方向からこつんと足音がした。 「コリン」  ――――明るい。 「目が覚めたかい?」  重たい体を緩慢な動作で起こすと、そこはいつもの病室だった。 「魘されていたね」  側に控えていたカーターが水差しから注いだ水を差し出す。受け取った温度でようやくそれが現実だと気がついた。 「エフィーから聞いたよ、また夜中に歩き回っていたんだろう。少しは眠れたようだし、何か食べようか」 「エフィーは……?」 「エフィーはジェマと家事をしているよ。地下室の掃除でもしているんじゃないかな」  地下室と聞いてコリンは一瞬ひやりとしたがカーターは特に変わった反応は見せなかった。 「そうだ、ジェマが朝食を少し取っておいてくれていたから、もらってくるよ」  そう言ってドアを抜けたカーターの足音が消えて、ようやく喉につかえていた息を吐く。  エフィーは鍵をどうしたのだろう。カーターは鍵についてもコリンがしたことについても何も言わなかった。エフィーは黙っていたのだろうか。  コリンは暫く受け取ったコップを持ったまま考えを巡らせていたが、再び近づいてきた足音に意識を戻す。 「大丈夫?」  ドアを開けたのは、思考の渦中にいたエフィーだった。 「ぐっすりだったんだって? 何か食べられそうだって聞いたから持ってきたんだけど」  エフィーはこちらに近づいてきてサイドテーブルに皿を置いた。簡単に盛り付けられたトーストと卵料理にフォークを添える。 「パンは余計だったか?」 「……ううん」  コリンがコップを置いて朝食に手を伸ばすと、ふっと笑ってベッドの縁に腰掛けた。 「……先生は?」 「そろそろ街の診療所に行く時間だから俺が来たんだよ」 「…………そう」  そろりとフォークに手を伸ばしながら、切り出し方を考える。謝れば良いのか、質問すればいいのか。  けれど先に沈黙を破ったのはエフィーの方だった。 「もう今日はゆっくり休めよ。カーター先生、お前がいなくなる度心肺してるんだから」  大きな掌が頭をなで回すのに合わせて曖昧に頷く。するとエフィーはぽんぽん、と軽く頭を叩いて手を引っ込めた。 「……どうして、先生はそんなに心肺するの?」 「どうしてって……大事だからだろ、お前が」  戸惑ったような声色。 「…………じゃあ、エフィーはどうして、そんなに先生のために働くの?」  どうしてかあ、と困ったように腕を組んで、エフィーは苦笑した。  コリンは手を止めてじっと彼を見つめる。 「俺も、先生が大事だからかな……先生がお前を大事にするのとは違うけど」  その困ったような、てれくさそうな笑顔は、ジェマが言っていた「騙されている」とは違う気がした。 「俺は先生が拾ってくれたからここにいるんだ」  首をかしげると、エフィーは指先をもてあそびながら言う。 「……エフィーは、お母さんとお父さん、いないの?」 「うん」  事もなげに頷いたエフィーの顔色に悲しみは見当たらない。 「先生の居場所が俺の居場所。行き場が無いんだ。先生といる生き方しか俺はしらない。……まあそれだけじゃなくて、先生のことを俺は尊敬してるよ。頭良いし……けど放っておけない所もある。ズボラだったり、意外と不器用だったりな。先生は一つのことに集中するとちょっと周りが見えなくなっちゃうし……そういう所見てると、この人の助けになりたいなって。って言うか、先生はそう思わせる才能みたいなものがあるんじゃないかな」  そう答えるエフィーの瞳には、何か違うものが写っている。いつになく穏やかで優しげな瞳。ただ少しだけ、カーターが自分を見る目に似ていて、コリンは皿に視線を落とす。 「…………そう」 「そ。それにあの人、案外一途でね、お前のことだってお母さんから預かって、ずっと大事に……」  と、話を続けるエフィーを遮るように病室のドアが開いた。 「コリン! 目を覚ましたって聞いたけど体調はどう?」  ひょいと姿を現したのはジェマで、コリンは正直ほっとした。 「大丈夫……」  半分も減っていない皿に手をつける気力がない。それに気付いたらしいエフィーがコップを差し出して「無理しなくていいぞ」と言ってくれる。  皿を押しやってそれを受け取り、水を口に含むと多少気分が晴れてエフィーのまなざしも気にならなくなった。 「気分が悪い? それならまた寝る前にでも出直すわ」 「……うん」  ジェマとエフィーが揃って部屋を出て行く。最後にエフィーが言いかけていたことが気になったが、それより先に睡魔が襲ってきた。     「エフィーが、カーター先生は僕を預かったって」  小さくこぼすと、ジェマは絵本を纏める手を止めてコリンを見た。 「……本当?」 「…………そうね……でも、あの人が本当に何を考えているかなんて誰も解らないのよ」  言い聞かせるようにジェマは言う。そうして暫く黙って、ゆっくりと息をついた。 「今晩、ここを出ましょう。コリン」  唐突に腕を掴む。彼女の瞳はいたって真剣だった。 「どうしてそんな、いきなり?」 「もうこれ以上屋敷を調べても無駄だからよ。強引な手になるけど、キッチンのガラス戸を割って外に出る。裏の森を突っ切って、壁伝いに門を探す。単純だけど確かでしょ?」 「……でも夜中は、エフィーが見回ってる……」  腕を掴む手に力がこもる。ジェマはコリンと視線を合わせて声を潜めた。 「早く出てしまえば問題ないわ。大丈夫。ガラスを割る工具はキッチンの水道管を直す工具を使うし、外に出てしまえばもう見つからない。私を信じて、コリン」 「…………わかった」  頷くと、ジェマは優しくコリンの頬を撫でる。そんな風にされるといつも懐かしく感じてしまう。 「今晩、『先生』が部屋に戻ったら迎えに来るわ」  その言葉に縋りたいような気がしてしまう。  何か、なぜか、それによく似た言葉をどこかで聞いたことがある気がした。      暗闇の中を壁伝いに歩いていく。ジェマは一言も発さなかった。コリンの手を痛いくらいに握って歩いて行く。 「おばさん…………?」  小さなランプがまだらの壁に影を落とす。不気味に揺れ動くそれは二人の後を追ってゆっくり移動していた。  ポケットの中でひしゃげたロケットが重みを増したような気がする。それ以上着いていくなと言うみたいに、コリンの足を地面に縫い止める。 「……コリン、貴方、私が地下室にいる間、どうしていたの」  ようやく口を開いたジェマは、そんなことを問うた。静かな声。感情の読めない、平坦な声で。 「…………森に、ここに、カーター先生と」  いたよ、と言う前に、被せてジェマが口を開く。  ――――宝物はどこに?  背中を何か冷たいものが伝った。  知っているはずがない。知っていてはおかしい。だってあそこにいたのは二人だけだった。あのドアごしにでもいないかぎり。  捕まれた手を引いてもびくともしない。ジェマは振り返らない。 「……聞いてたの? どうして……」 「大事なことなの。あの人の言う宝物は、私のものかもしれない」  じゃり、と靴が音を立てる。腕は離れない。 「それを探すために私はここに来た。あの人の『宝物』なら姉さんの持ってたもののはず。姉さんの『宝物』のはず」  ランプの灯がくりぬいたジェマのシルエットがふらりと揺れる。振り返った彼女は、笑っていた。気味悪いほどいつも通りに。 「……ねえ、どこなの? 『私のロケット』は、どこ?」  思い切り手を引いた。  ――――気持ちが悪い。  手を引き抜いた勢いで倒れ込む。その拍子に、銀色の錆びたロケットが転げ落ちた。  ジェマの目がかっと開く。彼女の手が伸びてくるより先に、とっさにロケットを握って走り出していた。 「待て!」  コリンは視界の端に写った黒いドアへ駆けだす。ドアには鍵がかかっていなかった。そもそも鍵がついていなかったのかもしれない。真っ暗闇の階段を、転げ落ちるようにして駆け下りる。  遠くで誰かの声を聞いた気がした。  暗闇でドレスのカーテンを抜け、這いずりながら手探りであのデスクの下に身を隠す。がたがた震える中で、かつんかつんと響いてくる足音に、既視感を感じていた。  ――――地下室に隠れてなさい。  お母さんは、大丈夫だから。  暗闇。赤く汚れたドレスの袖。長い金糸が頬を撫でる。駆け込んだ地下室。静かな、ひんやりとした空気。握り込まされた銀色のロケット。  近づいてくる靴音。何もかもが同じ。  ――――『あの日』も、こうやって逃げていた。  けれど今日は、もう一つの靴音が同時に部屋に踏み行ってきた。 「やあ、ジェマ」 「……カーター」  ジェマの声色からは柔らかさが消えている。  二人の足下で息を潜めたコリンは耳をそばだててじっと身を固めていた。 「……君が何をしに来たのか、なんとなく察してはいたよ。それでも、仲良くできないことはないと、思っていたんだけれど」  仲良く、と嘲笑してジェマは言う。 「……私の目的が解ってたって言うなら、アンタの大好きなモニカを殺したのくらい解ってたでしょうに」 「解っていたよ。それでもだ。君はここに馴染めていたから」 「当たり前よ。『全部私のものになるはずだった』んだから!」  ガシャン、とランプが落ちて派手な音がたった。それ以上に苛烈に、ジェマはまくし立てる。暗闇に声だけが響く。 「父さんのロケット! 母さんの屋敷! 永遠の友人! 恋人! 形見! 姉さんは私のほしかったもの全部もらった! 私に残ったのはお金だけ、思い出のものは全部『可哀想な姉さん』のものだった!」  暗闇にぼんやり浮かんだ彼女の足下でガラスが音を立てる。悔しげにそれを踏みにじりながら、言葉を吐き出す。 「可哀想な姉さん、母さんが心中に選んだ姉さん、可愛がられる姉さん、誰から見ても可哀想で可愛い姉さん! 父さんも形見は全部姉さんにやった。素敵な結婚をして、母さんの遺した家で、素敵なご友人を主治医に迎えて、さぞかし幸せだったでしょうね?」  がん、とデスクが揺れて、コリンは体を震わせた。 「旦那が死んだって聞いて、今度は私が奪う番だって思った。……全部私が貰う番だって。……それなのに、子供がいたなんて……もうこれ以上、誰にも私から奪わせない。あの日は失敗したけど、もう二度と失敗なんかしない」 「どうしてそこまでロケットにこだわる」 「は」とジェマの呼気が、嘲笑が空気を揺らす。それは酷く焦燥したような、じれったそうな音だった。 「あんた達は解ってない。あれがどれだけ価値があるのか! あれさえあれば、父さんの形見も、そのもっと前からの形見だって、この部屋にあるものだって、何だって手に入る!父さんの、屋敷だって」 「君の父の屋敷はずいぶん前に売れたはずだ」 「そうよ。私が、あのロケットを、形見を引き継ぐ権利者だって証拠を持って無かったから! あの女は父さんに育てて貰って、その恩も忘れて、思い出も忘れて、売り払った! 何もかもあの女が私から奪った! だから取り返すの、全部消して、やり直すの!」  かつん、とジェマが踏み出す。  その瞬間、ごん、と鈍い音がした。次いで、どさりと……おそらくジェマが倒れ込む。  床の上で影達は嘲るようにその身に手を伸ばし、床に縫い止めた。 「残念だ。君はとても惜しかったよ」 「……なんで……見えて」 「ああ、私は昼盲でね。……それにしても、君は本当に惜しかった……目の色とその苛烈ささえなければ、君はコリンよりも、『彼女っぽかった』のに」  部屋の扉が開いて、もう一つの足音が入ってくる。それと同時に懐中電灯の明かりが床を照らして、エフィーがデスクの下に顔を出した。 「二人とも無事ですね。先生」  嫌な汗で濡れたコリンを抱き上げながら彼が言う。コリンの足を床に縫い止めていた影達がざっと引いて、コリンも思わずそちらに手を伸ばした。 「ああ、コリン、怖い思いをさせてしまったね。……さて、やっぱり『外は怖かった』だろう?」  力の抜けた体に、カーターの声は麻酔のように広がる。コリンはゆるゆると頷いて、カーターの伸ばした手に自分の手を重ねた。  ロケットが二人の手の中で冷たく光る。 「…………ああ、『次の家』に落ち着いたら、今度こそ皆で写真を撮らなきゃならないね」      僕はしんしんと降り積もる雪の中でぼうと立ち尽くす少年を見かけた。街の雑踏をから切り離されたように、その少年の周りだけが異様に静かだった。 「坊や、迷子かい?」  仕立ての良いコートの襟に口元を埋めていた少年が僕の声でびくりと跳ね上がる。ショーウィンドウに背をこすりつけるようにして後ずさるさまがなんとも哀れでいたたまれない気持ちになった。  金糸の髪を肩に触れるほど伸ばした彼の目もとにはくまが色濃く浮かんでいる。膝を折って少年と背丈を並べてみると、アイスブルーの瞳と視線がかち合った。  そうして覗き込んでいるといっそう人混みから遠ざかったような、妙な静けさに覆われる。車の音も、客を呼び込むきらびやかな店達のアナウンスも、都会の雑音全てがどこか遠いところに行ってしまったようにさえ思えた。  ショーウィンドウの上の屋根で雪すら僕たちを避けてゆく。  しばらくそうしていて、再び何か問いかけようと口を開いた瞬間、頭上から声が降ってきた。 「コリン、車が来たよ」  思わず見上げると、雪景色には不釣り合いなサングラスの男が立っていた。 「先生」  コリンと呼ばれた少年は、差し出された手に迷い無くその小さな手を重ねた。まるで僕のことが見えていないように。自然に。  先生と呼ばれた針金のような男もおなじように、自然に少年を引き寄せると、歩道脇に寄った車へと向かって行く。運転席に座る栗色の髪の青年に何か声を掛けて、二人は車の後部座席に乗り込んだ。  その直前、僕の耳にわずかにあの少年の声が届く。 「やっぱり、外はこわい」  バタンと閉まったドアの向こうで男が頷いて、少年を膝に乗せていた。少年は男のばっさり切られた寒々しい首筋に顔を埋める。  そうして車が走り出すのと同時に、サングラスから覗いたグリーンの瞳がこちらをちらりと見やった。その唇が緩く弧を描く。  僕は車が走り去るのを見つめながら、ただ男が口にしただろう言葉を反芻していた。 ――――そうだろう。
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