燕楼

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浮舟(うきふね)を」という声はもう十日ほど聞いていない。  細い格子の隙間に垣間見る、通りを行き交う旦那衆や遊女たち。向かいで屋号を記した提灯に淡い明かりが揺らめいていた。    元号が明治に替わって十年を過ぎたが、遊郭(くるわ)の一日が日暮れと共に始まるのは変わりがない。変わったと言えば客に丁髷(まげ)と刀が無くなったのと、大店の旦那衆が以前より偉そうにしているだけで。  自分たちは相も変わらず『籠の鳥』。  ふぁ……。  目立たないように、ひとつ欠伸をする。  小見世の座敷。その一番奥がここ最近、浮舟の『定位置』。  『いっそ小見世に出るのを控えようか』と女将に申し出もしたが、首を縦には振ってくれなかった。   仕方なしに、なるべく外から見え難い奥に控えてはいるが……。 「あらぁ、『素通り』かい? 芳乃屋の旦那。好かんお人やねぇ。寄って行ってもバチは当たりんせんぇ」  姐さん達が格子越しに客の気を引いている。  だが、浮舟に声は掛からない。  寂しくもあるが、こればかりは仕方がなかろう。  実は十日ほど前、浮舟を名指しした客が翌朝に冷たくなってしまったのだ。  所謂『大店』の旦那衆は縁起を気にする。『客が死んでしまった』浮舟からは、ぱったりと客足が途絶えてしまったのだ。 「……」  表通りから聞こえる賑やかな笑い声に三味(しゃみ)の音。客が落ち着き出したのだろう。辺りを見渡すと、いつの間にか小見世には浮舟(じぶん)しか残っていない。  ……今日はもう終わりだな。キヨ婆の手伝いに行くか。  浮舟が立ち上がった、そのときだった。 「あの、御免下さい。こちらに浮舟という方がおられると聞いてきたのですが」  現れたのは二十歳前後だろうか。如何にもウダツの上がらぬ風体の痩せた男だ。 「……『浮舟』は自分(わっち)でありすんが。何かご用向がおありんすか?」  ぱっと見で文使(郵便)かと思ったが。 「こ、これは失礼しました。あの」  どうやら浮舟(じぶん)を名指しらしい。両手で手荷物を抱えたまま、そわそわしている。  だが折角の名指しとはいえ、身なりも粗末でロクに金がありそうにもない。  さて、困ったなと二の句が継げずにいると。 「浮舟、キヨさんを手伝ってく……おや? お客さんでありんすか」  背後に現れたのは女将だった。 「あ……女将(おっか)さん、すいんせん。『浮舟(わっち)を』と、名指しのお客さんらしおすが」  とっさに救いの手を求める。 「ああ、これは失礼しんした。けど」  流石の女将も、その粗末な身なりを見て苦笑いをしている。 「(あに)さん、失礼おすけど花代はお持ちおすか?」 「は、はい、ここに……」  男が慌てて懐から巾着を出してくる。色褪せた古い巾着だ。ジャラジャラと、その中身を出して女将に見せる。 「これで足りるでしょうか?」 「うー……ん。浮舟は『昼二(現在の価値で3万円ほど)』おすからなぁ」  浮舟の方からは掌の上がよく見えないが、女将の顔色を察するに『ちょっと』どころか、相当に足りないのだろう。  やがて少し考えてから、ポンと手を打った。 「どうおす? 今は故あって浮舟も『空いた身』。飯も酒もなしという事でよろしおすなら『これ』でよしと致しんすが」  『ただよりはマシ』という判断だろう。しかし遊郭に来てそれは少し寂しかろうと男の方を向くと。 「ほ、本当ですか! ええ、それで充分です! ありがとうございます、女将さん!」  男はさっきまでの心細そうな表情から一変、心底嬉しそうに頭を下げた。
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