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パンって、どうしてこんなに幸せな香りがするんだろう。
みんなが朝から笑顔になって、パンを売るとありがとう言ってくれる最高の時間。
つまり、私は最高の職場を選んだってこと。
「ホリー、クロワッサンが焼けたよ!」
「はぁい!」
そう言われて私はりんりんとベルを鳴らし、大きな声で店の前から表通りに声を上げる。
「クロワッサン、焼き立てでーす! どうぞお買い求めくださーい! お待ちしております!」
パン屋『エンジェル』名物、朝の呼び込みだ。
通りには散歩をする老人や、通学中の子どもたち、出勤しようとする騎士や魔術師、いろんな人の姿がある。
そんな中で声を上げると、朝の焼きたてクロワッサンはあっという間に人が押し寄せて売り切れた。うちのクロワッサンはおいしいと大人気で、焼いたそばから即完売だ。
私はただの売り子だけど、みんなが『エンジェルのパンはおいしいよ、ありがとう』って言ってくれたらすごく嬉しい気分になれる。やっぱりお客さんの笑顔っていいよね。
朝の忙しさが一段落すると、藍色の髪の毛がもっさりとした、いつものお客さんがやってきた。
「いらっしゃいませ」
このエンジェルの常連さんなんだけど、毎日ひどい寝癖で黒縁メガネをかけている、ちょっと不思議な人。私はこっそり『モサ男さん』と呼んでいる。
「クロワッサンは売り切れ?」
「もう、とっくにありませんよ。むしろ次のクロワッサンが焼き上がるかもしれないです」
「そっか、五分くらいなら待とうかな」
「聞いてきますね。ちょっと待っててください」
私は裏に聞きに行ったけど、五分じゃ無理って言われて戻ってきた。
それをモサ男さんに告げると、「じゃあまた今度でいいや」と言って、別のパンを買って帰っていく。
一体、何をしている人なのかな? ボサボサ頭と眼鏡のせいで目が見えないし、笑っているところも見たことがない。
うちのパンを買って嬉しそうな顔しないなんて、どんな生活を送ってるのかしら。いつか、幸せな笑顔をうちのパンで引き出してやるんだから。作るのは私じゃないけどね!
翌朝、私が出勤しようと家を出ると、大あくびしているモサ男さんを見つけた。ベンチに座って小鳥に餌をやりながら、朝の散歩をしているおばあちゃんに挨拶をしてる。
モサ男さんはこの辺に住んでいるみたいで、割とよく見かける。そして、見かけるとつい観察しちゃうんだよね。なんでか彼が気になっちゃう。
じっと見ていたら、声をかけられていたおばあちゃんがつまずいて、地面に手と膝をついた。大変、助けないと!
近寄ろうと思ったら、すでにモサ男さんがそのおばあちゃんに手を貸してあっという間に背中に背負っている。そしてそのまま、おばあちゃんを連れてどこかに行ってしまった。
「良い人、なんだよね……」
モサ男さんのこういう姿を見るのは初めてじゃない。大荷物を持っている人がいれば当然のように持ってあげたり、泣いている子どもがいればすぐに声をかけてあげたり、困っている人がいたら気さくに話しかけてる。
見た目に反して、コミュ力が高い人なのよね。
そんなモサ男さんを見るたび、素敵な人だなぁって思ってる。あんな風にさらっと人助けができる人って、素直に憧れちゃう。
だからこそ、私は彼が笑わないのに納得がいかないんだ。
どんな人と話をしていても、モサ男さんの笑った顔を私は見たことがない。
エンジェルのパンを買いに来た時も、にこりともしてくれない。どういう人なんだろう。なんで笑わないんだろう。
いつかエンジェルのパンを食べて、笑って欲しいな。
私はそんなことを思いながら職場に着くと、仕事を始める。朝の忙しい時間帯が終わったいつもの時間に、モサ男さんがやってきた。
「いらっしゃいませ」
そう声をかけてもモサ男さんは気にも留めず、店内のパンを物色している。そしてクロワッサンがないのを確認すると、ベーコンチーズパンとメープルパンを持って私の前に来た。パンを紙袋に入れながら、私はにっこりと笑った。
「三四〇ジェイアになります」
「ん」
「ありがとうございました」
「どーも」
やっぱりにこりともせずに帰っていくモサ男さん。あの長い前髪で、前が見えてんのかしら。
お昼の二時頃になると、売り子は暇な時間帯に入る。
私はお店のパンで売れ残りそうなものを見極めて、大きなラタンバスケットに入れると、町に売りに出かけた。
パン屋エンジェルを知ってもらえるきっかけになるし、残りそうなパンは捌けるし、移動販売はいいことづくめ。
今日はどこに行こうかな。魔術師の塔周辺は、遠いから行くまでに売り切れちゃうのよね。ようし、今日はそこで新規顧客を開拓してやるんだから!
私は魔術師の塔に行くまで隠密行動し、ついてから声を張り上げた。
「パン屋エンジェルのパン、異動販売中でーす! おいしいパン、いかがでしょうか? どれでもひとつ、百五十ジェイアになりまーす!」
魔術師の塔前は、流石にインテリ風の人が多いわね。魔術師の制服はレンガ色をしてるから、すぐわかる。
「クロワッサンはあるかな」
後ろから声をかけられた私は、振り返った。
「すみません、クロワッサンは人気商品でここにはありません」
「そっか、やっぱり食べられないのか」
あら、カチューシャのような細めのヘッドバンドで前髪を上げていて、涼やかな目元が素敵なイケメン!
「君のとこ、いつ行ってもクロワッサン置いてないよね」
え? いつも? そういえばこの声、この黒縁眼鏡……どこかで見たことあるような?
レンガ色の服だから、魔術師だよね。私、魔術師にこんな知り合いいたっけっかな。
「お客さん、うちのお店に来てくれたことあるんですか?」
「ん? 今朝も行ったけど」
私はお客さんの顔を覚えてる方だし、こんなイケメンは一回見たら忘れないと思うんだけど。
「今日はベーコンチーズとメープルを買った」
ベーコンチーズパンとメープルパン……まさか、この藍色の髪は……
「え、モサ男さん?!」
「モサオ? 俺はメイナードだけど」
「メイナード、さん……」
初めて名前を知った。モサ男さんの本当の名前はメイナードさんっていうらしい。っていうか、こんなイケメンだったの?! 普段、どうしてあんなボサボサ髪をしてるの!!
私がぽかーんとモサ男さん改めメイナードさんの顔を見ていると、メイナードさんはヘッドバンドをパッと外してくれた。途端に長い前髪が目にかかり、もさもさしたいつもの髪型になる。
「モサ男さん!」
「だからメイナードだよ」
そう言ってモサ男さんはヘッドバンドを付け直してメイナードさんに変身した。いや、同一人物なんだけど。
私が凝視していたら、彼の後ろから他の魔術師がやってきた。
「師団長、第五班の準備が遅れていて、まだ魔術訓練を再開できそうにありません」
え、師団長? このモサ男さんもといメイナードさんが?!
「うーん、あそこはいつも遅いな。編成を考え直さないとなぁ……」
メイナードさんはそう言いながら、私の持っているラタンバスケットの中を覗いた。
「これ、全部買うよ。ここにいる魔術師に配ってあげてほしい」
「え? は、はい、ありがとうございます!」
お金を受け取った私は、近くにいた二十人ほどの魔術師にパンを配った。
そうするとみんな喜んで笑顔になってくれて、「明日も来てくれよ」と言ってくれる。
おいしいおいしいとその場で食べてくれるのは、また格別に嬉しいな。
視界に入る魔術師全員にパンを配ると、ひとつだけ余ってしまった。
「あの、メイナードさん。ひとつ余ったんですがどうします? 返金しましょうか」
難しそうな本を片手にパンを食べていたメイナードさんは、私に視線を落としてくれた。
ああ、モサ男さんだっていうのに、目がちゃんと見えるだけでもう……ドキドキしちゃう。
「お金はいらないよ」
「じゃあ、メイナードさんが食べます?」
「いや、一個で十分。君が食べていいよ」
「え?」
「うまいよ、ここのパン」
そうでしょうね、知ってますとも! 私、ここのパン屋の売り子ですから!!
っく、もぐもぐ食べてるその顔が、イケメンかわいくって反則ですけど……!
「いらない? シナモンロールが好きじゃないなら、俺のと変えてあげるけど」
そう言いながら、半分食べ終わっているバジルチキンフォカッチャを差し出された。って、食べかけをさしだされてもねぇ?
「いえ、大丈夫です、シナモンロールで」
「これもうまいよ?」
「知ってますよ、うちの商品ですから」
ちょっとトボケてるメイナードさんに、ついツッコミを入れてしまった。私はバスケットからシナモンロールを取り出す。
「じゃあ、ありがたくいただきますね、メイナードさん」
「ん」
うわぁ、すっごく優しい目。なのに口元は変わらずに一文字だ。きっと笑ったら、ものすごく素敵だと思うんだけど。
あっという間にパンが捌けたし、今日はちょっとゆっくりしていてもいいかな。
「みなさん、休憩中なんですか?」
「ん、五班の用意ができるまではね」
「お邪魔でなければ、私もここで食べて行っていいです?」
「どーぞ」
メイナードさんの許可を得て、私はシナモンロールをかじった。
うちのシナモンロールはコーヒー生地をマーブルにしている。やわらかくてしっとりしていて、シナモンの香りがすうっと入ってきてめちゃくちゃ美味しい。自然と笑顔になっちゃう。
周りを見ても、みんなニコニコ顔でエンジェルのパンを食べてくれている。笑ってないのはメイナードさんだけだ。
そんなメイナードさんの姿を見て、むうっと口を尖らせていたら、食べ終えた魔術師の人たちが私の周りに集まってきてしまった。
「このパン、おいしいね! なんていうお店?」
「イスリライナー通りの、エンジェルです。よろしくお願いします」
「へぇ、君はなんて名前?」
「私ですか? 私はホリーといいます」
「ホリーちゃんか、何歳?」
「二十二歳になりました」
「独身? 彼氏は?」
「えっと、独身ですし彼氏もいないですけど……」
「そうかそうか、うちの師団長は二十九歳なんだよ! ちょっと年上だけど、どう……」
「こら」
怒涛の質問に素直に答えていたら、最後にメイナードさんの声が上がって、みんなピタリと口を閉ざす。でもなんだろう、みんなの口元が笑っているように見えるのは、気のせい?
「師団長、名前はホリーちゃんというらしいですよ!」
「二十二歳、独身、彼氏なし!」
「頑張ってください、師団長……!」
「デート、デートに誘うんですよ!」
魔術師たちが私から離れる際に、メイナードさんにそう話しかけてる。全部丸聞こえなんですけど。
これは私……デートに誘われちゃう……のかな? わ、なんだかドキドキしちゃう。
当のメイナードさんは、口をへの字にしたまま、部下たちを睨むように見てる。魔術師たちは私たちから離れていったけど、全員もれなくこっちを凝視していて、シナモンロールがめっちゃ食べづらいんですけど……。
「あー、ホリー、っていうんだ」
フォカッチャを食べ終えたメイナードさんが、チラリと私に目を合わせた。……流し目に見えて、ドキドキしちゃういます、メイナードさん!
「そういえば、ほぼ毎日会っているのに、お互いに名前を知りませんでしたね」
「そうだね。あー……ホリー」
「は、はい?」
まさか、モサ男さん……じゃなくてメイナードさんに名前を呼ばれる日がくるなんて、思ってもいなかった。
真っ直ぐに私を向いたメイナードさんの顔は、黒縁眼鏡すら彼を際立たせるための装飾品に見える。
「よかったら、今度の日曜、俺と──」
「師団長! 全班用意が完了しました!」
どこからか走ってきた魔術師の一人が、メイナードさんにそう報告した後、なぜか仲間たちにボコボコにされている。
「……よし、全員配置について。ホリーは危ないから、ここから離れてほしい」
「あ、長居してしまってすみません。お買い上げありがとうございました、失礼します!」
頭を下げると、その場から駆け足で離れる。
十分に離れたところで後ろを確認すると、メイナードさんが指揮を取っているようだった。
「まさか、モサ男さんが魔術師団長だったなんて、びっくりだわ。しかもあんなイケメンだったなんて」
走ったせいか、心臓がドッドと鳴ってる。っていうか私、なんかデートに誘われそうになってたよね?
ということはメイナードさんも独身……なのかな。周りの人たちに言わされてたっぽいから、罰ゲームか何かだった? う、罰ゲームは……やだなぁ……。
ぎゅっとなる胸を押さえて、ため息をついた。でも、もし罰ゲームじゃなかったとしたら、ちゃんとデートに誘ってくれるかもしれない。
明日、お店で会うのが……ちょっと楽しみ。
……って思ってたのに!!
「いらっしゃいませー」
「ん」
「三百二十ジェイアになります」
「どーも」
「ありがとうございましたぁ……」
なんもなしかーーーい!!
いや、うん、私も昨日のこと何も話せなかったけど。本当に同一人物だよね? モサ男さんとメイナードさん……。
今日は安定のモサ男さんでホッとしたけど、出勤したらメイナードさんになるのかしら。
何か話しかければよかったかな。メイナードさんを……もっと知りたい。
そう思った瞬間、私は店を放り出してメイナードさんを追いかけていた。
「あの、メイナードさん!」
藍色のもさもさ頭。メイナードさんを見つけた私は、ガシッとその手を掴んだ。
「んん?」
「あの……クロワッサン!」
「え?」
「他のお客さんには内緒ですけど、メイナードさんにだけ、特別にお取り置きしておきましょうか……?!」
他のお客さんに聞かれたら、まずい話だ。ついでにいうと、店の人にも怒られちゃう。だけど、なんでだろう……どうしても、メイナードさんの気を引きたくて言っちゃった。
「ん……うーん。そんなことして、ホリーは大丈夫なのかい?」
「……う」
私が言葉に詰まると、メイナードさんは息をふっと吐き出した。
「だめだよ、ホリー。自分の仕事はしっかりしないと」
「……はい」
怒られちゃった……責任感のないやつって思われちゃったかな……。馬鹿なこと言っちゃって、心がしゅんとなる。
「でも、気持ちは嬉しいかな。じゃ、仕事がんばって」
「あ、メイナードさんも……!」
私の言葉に、メイナードさんは手をひらっと動かして魔術師の塔の方へと歩いていく。
姿はモサ男さんなのに、めちゃくちゃかっこよくて胸がギュッとなる。
どうしよう。好き……かもしれない。ううん、多分、メイナードさんが人に優しくしているのを見た時から、好きだったんだ。
それを自覚したのが、今ってだけの話。
私は、今日の移動販売も魔術師の塔に行くことにした。……個人的な理由で。
ラタンバスケットにパンを詰めると、売り子を他の人に任せて店を出る。
今日も外で訓練していたらいいけど……会えるかな?
だけど、魔術師の塔に近づくと、一定のところで魔術師に止められた。
「すみません、現在市街訓練中で、ここから先は立ち入り禁止となっています」
「何時までですか?」
「予定では三時ですね」
今は二時を少し過ぎたところ。あと一時間も油を売っているわけにいかないし、戻りながらパンを売るしかないかな……残念だけど。
視線を立ち入り禁止区域に向けると、メイナードさんがいた。すぐにわかっちゃう。
真面目な顔をして他の魔術師と話し合ってる姿は、目元が見えるからかすごく凛々しく見える。
「師団長を見にきたんですか?」
立ち入り禁止だと言っていた魔術師の人にそう言われた。ちょ、含み笑いしながら言うの、やめてー!
「や、あの、えーっと、パンを売りにきただけでして……」
「昨日はパン屋の君に会えて、みんな大盛り上がりでしたよ」
「え、パン屋の君?」
私が首を傾げると、彼は慌てたように手を左右に振った。
「おっと、なんでもないです! どうです、師団長は。普段のもっさりした姿に比べて、かっこいいでしょう」
「そうですね。まさか、魔術師のお偉いさんだとは、思ってもいませんでした」
そう魔術師さんと話していたら、メイナードさんがこっちに気づいたみたいで、一瞬目が合う。
「そこー、危ないから気をつけてね」
「あ、はい、すみません」
ああ、注意を受けてしまった。今日の私、良いとこなしだなぁ。
がくっと肩を落としていると、魔術師さんが苦笑いをしている。
「師団長はあれで、厳しいですからね。優しいんですけど」
「……なんか、わかります。笑わないから無愛想に見えるけど、人として尊敬してます」
「あれ? パン屋の君にも笑顔を見せてないのか」
「みなさんは見たことあるんですか?」
「俺は一度だけ見たことがありますねー。あの笑顔はやばいですよ」
クックと笑っている魔術師さん。
え、やばいってどういうこと? ひどい笑顔でイケメンが崩れちゃうってこと??
「本人いわく、笑顔は奥さんになる人にしか見せないつもりらしいですよ。その点、男である俺らより、ホリーさんの方が笑顔を見られる可能性はあるでしょうね」
「見られる……かなぁ。見てみたいな、メイナードさんの笑顔……」
どんな顔で笑うんだろう。すっごく気になる。
気になるけど、とりあえず戻りながらパンを売らなくっちゃ。
「じゃあ、ありがとうございました。訓練、頑張ってくださ……きゃっ!?」
来た道を戻ろうと思ったら、どすんと誰かにぶつかってしまった。ラタンバスケットからパンが一つコロコロと転がっていく。
「ちょ、困ります! ここは現在立ち入り禁止で……」
「ああ?! 何を勝手に立ち入り禁止にしてやがんだ!」
街のごろつきが魔術師さんにいちゃもんをつけ始めた。
私は転がっていったパンを急いで追いかける。
「あ、そっちは──」
魔術師さんがそう声を上げた瞬間。
「キャア!!」
バリバリッと雷が落ちたような音がして、脳天から爪先まで駆け抜けるように痛みが走った。
「ホリー!!?」
あ……メイナードさんの声が聞こえる……。
痛……目の前、真っ暗……パン、売らなきゃ……なのに……。
なんにも、見えな……い──
「ホリー、ホリー!!」
メイナードさんの私を呼ぶ声だけが、頭に響いてた。
***
「う、うー……」
意味のなさない声を上げると、私の手は温かいもので包まれた。
「よかった、目を覚まして」
ゆっくり目を開けたそこには、メイナードさんの姿があった。え、手を握られてる? どういう状況?
「メイナードさん?」
「どこか痛いところは? 目は見える?」
「大丈夫です、どこもなんともなさそう……」
「すぐに治癒魔術師を呼んで治したから大丈夫だと思うけど……すまない」
「いえ、私が禁止区域に入っちゃったから……あ、パン!」
はっと横を見ると、ラタンバスケットの一部が焦げていた。中身は空っぽ。
「パンは食べられる状態じゃなかったから、処分させてもらったよ」
「そんな、うちのパンが……」
「すまない。弁償はさせてもらうよ。ホリーの、その服も」
「え?」
メイナードさんに言われて見ると、私の服も所々破れたり焦げたりしてる。今さらながら、結構な衝撃だったんだと知ってゾッとした。
「立てる? もう暗くなってくるし、送るよ」
ずっと握ってくれていた手を持ち替えて、メイナードさんは私を引っ張り起こしてくれる。
窓の外は……綺麗な茜色だ。もう夕方かぁ……え、夕方?!
「ああっ、私急いでエンジェルに戻らなきゃ!!」
「連絡はしておいたよ。今日は家に帰って大丈夫だから」
「あ……ありがとうございます……」
ほっと息を漏らすと、私はメイナードさんの後ろをついて歩いた。
魔術師の塔なんて始めて入ったけど、中は以外にも明るいのね。光源は照明魔術かな。火はないのに、壁が柔らかな光を発していて、綺麗。
「足元、気をつけて」
階段のところにくると、メイナードさんは振り向いて気遣ってくれる。しっかり見える瞳が、髪と同じ藍色で綺麗。
塔の外に出ると、メイナードさんの隣を歩いた。こんなイケメンと隣に並んで歩けるなんて、人生何が起こるかわかんないなぁ。
胸が勝手にドキドキしてくるから、困るよ……。
「家はどこ?」
「エンジェルの向こう側の通りです。多分、メイナードさんも近くですよね? たまに見かけるんで」
「ん、俺もエンジェルの近くだよ」
目! その目!! 優しいのに、どうして口元は微笑んでくれないの!
「そういえば、今日は魔術師の塔を出たのに、いつもの格好じゃないんですね」
「ホリーを送ったら、また戻るからね」
「え、そうなんですか?! 忙しいのに、結構ですよ?!」
「俺が送りたいからこうしているだけだ」
うっ。今、胸がキュンってなった。顔が、熱くなってきちゃう。きっと、他意はないんだろうけど……だからこそ、タチが悪い。
天然の人たらしかな? 魔術師の人たちもメイナードさんを好いているみたいだったし、街の人だってきっとそう。私なんか、そのうちの一人に過ぎない。
「普通は仕事が終わる時間なのにまた戻って仕事なんて、大変ですね」
「その分、魔術師は始業が遅いんだよ。朝弱くて夜にはかどる奴らが多いからね。一般的な就業体制とは異なるけど、こっちの方が俺たち魔術師には合ってるんだ」
「なるほど〜」
そんなたわいない話をしていると、家に着いてしまった。あっという間だったな……残念。
玄関先で送ってくれたお礼を言おうと振り返ると、メイナードさんは真面目な顔をして口を開いた。
「明日にでも賠償金を用意する。エンジェルとは別にホリーにもちゃんと支払うよ」
「いえ、私はなんともないですし!」
そんなこと考えてなかった私は、慌てて両手を左右に振った。
「今日働けなかった分の財産的損害の補償と服の弁償、そして精神的な苦痛を受けさせてしまったことへの慰謝料だ。ちゃんと支払わせて欲しい」
いえ、むしろ精神的にはドキドキキュンキュンさせてもらって、役得でしたけど!?
「えっと、そうですね、今日途中で休んでしまった分の補償と服の分はいただこうと思います。でも慰謝料なんて、大袈裟ですよ。私、すぐ気を失って何が起こったかもわかっていませんでしたし、ちゃんと治癒してもらえたようなので、精神的な苦痛なんて受けてませんから」
「それじゃあ俺の気が済まないんだけどな」
「あ、じゃあもし良ければ、ですが、笑顔を見せてもらえませんか?」
「笑顔?」
私の言葉に、メイナードさんは顔をしかめてしまった。え、うそ、触れちゃいけないとこに触れちゃった?
「あの、無理なら別に……」
「悪いけど、君にだけは見せたくない」
その言葉が耳に入ってきた瞬間、私の胸はズキッて音が鳴った気がした。
そういえば、奥さんになる人以外は笑顔を見せないって言ってたんだっけ……私なんかに見せてもらえるはずないよね。私がメイナードさんの奥さんになれるわけがないんだから……。
「そう……ですよね。調子に乗っちゃって、すみません……あは……」
笑おうとした瞬間、ぽろっと目から何かが滑り落ちた。
涙だ、と気づいたけど、出て来ちゃったものはもう戻せない。
どうしよう、こんなことで泣いちゃうだなんて……メイナードさんに変に思われちゃう。早く泣き止まなきゃ。でも、そう思えば思うほど、涙があふれて止まらない。
「……ホリー」
「あ、すみませ……すぐ、止めますから……」
「いや……ごめん」
私の気持ち、バレちゃったかな……恥ずかしい。メイナードさんも困った顔してるよ……ごめんなさい。
心の中で謝っていると、メイナードさんは申し訳なさそうに口を開いた。
「泣かせてしまったお詫びをさせてほしい」
「……え?」
「次の日曜の午後一時、エンジェルの近くの広場のベンチで待ってる。嫌なら来なくても構わないよ」
お詫びなんて、そんな……って断ろうとしたけど、言葉が出てこない。
拒否の言葉なんて、言えるわけがないでしょ。憧れの人と……二人で過ごせるチャンスなんだから。
「じゃあ」
私が何も言わないうちに、メイナードさんはすっかり暗くなった夜道を帰っていく。
びっくりしちゃって、いつのまにか涙は止まってた。
メイナードさんって、律儀な人なんだなぁ。でもそんなところが、また素敵。
そう思うと、またちょっと、胸が痛くなった。
***
日曜日、私は約束の場所に向かった。
今日は仕事が休みでよかった。天気もいいし、メイナードさんに会えるってだけでワクワクしちゃう。
でも、午後一時ちょうどに着いたけど、メイナードさんはまだ来てなかった。
「ま、ちょっとくらい遅れちゃうこともあるよね。私もギリギリだったし」
そう思いながら待っていたけど、なかなかメイナードさんはやってこない。
どうしたんだろう……もしかして、からかわれてたのかな。
ちょっと不安になっていたそのとき、通りの向こう側からレンガ色の服を着たメイナードさんが駆けてきた。
「すまない、遅くなった!」
「え、お仕事だったんですか?」
「休みの予定だったんだけど、トラブルで呼び出されていたんだ」
「大丈夫です?」
「ん、もう解決したから」
「なら良かったです」
ほっと息を吐いた瞬間、ぎゅるるーってすごい音が鳴った。メイナードさんが慌ててお腹を押さえてる。
わぁ、顔がまっかっか! かわいい! メイナードさんってこんな表情もするんだ、見られて得した気分。
「お昼、食べてなかったんですか?」
「ん、暇がなくて……」
「あ、そろそろエンジェルのクロワッサンが焼き上がる頃だと思います! 私、買って来ますからここで待っててください!」
私は急いでエンジェルに行くと、ちょうど焼き上がったばかりだった。クロワッサンを二つと、メイナードさんの購入頻度が高いベーコンチーズパンを買って、急いで戻ってくる。
「お待たせしました!」
「早かったね。買えた?」
「はい、焼きたてのうちにどうぞ」
ベンチに腰を下ろして本を読んでいたメイナードさんは、顔を上げてパンの袋を受け取ってくれる。
「実は俺、エンジェルのクロワッサンって初めて食べるんだよね。いつも行き当たらなくて」
「じゃあ、ぜひ!! すっごく美味しいですから!!」
「ん」
あ……れ……なんかちょっと、メイナードさん、嬉しそう?
ガサゴソと袋を開けたメイナードさんは、クロワッサンを一つ取り出すと私に差し出してくれた。
「え? これ、メイナードさんの分ですけど」
「でも二つあるし。一緒に食べよ」
やっぱり、目が優しい。私はついそれを受け取ってしまった。
実は私もクロワッサンを食べるのは久しぶり。かぷっとクロワッサンを噛んだ瞬間、芳醇なバターの香りが口いっぱいに広がった。
そしてパン生地の柔らかさと、表面のパリッとした食感のコラボレーションがたまらない。
ほんのり甘くて優しい味。紛れもなく、エンジェルの人気ナンバーワンのパンだ。
ふと見ると、同じように食べていたメイナードさんと目が合っちゃった。
「ん、おいしいね。エンジェルのクロワッサン」
わ。
嬉しい。
メイナードさんが……
笑ってる!!
優しい瞳、優しい口元。
メイナードさんの笑顔はヤバいって意味がわかっちゃった。
これはもう、射抜かれちゃうやつ!!
ぽーっとその顔を見ていると、メイナードさんはハッとしたように口を一文字に戻してしまった。
「俺……今、笑ってた?」
どうやら、無意識に笑ってたらしい。私がぽーっとしながらこくこくと頷くと、メイナードさんは息を吐きながら肩をガックリと落とした。
そんなに笑顔を見られるのが嫌だったの? メイナードさんは落ち込んでるけど、全然落ち込むようなことじゃないじゃない!
「どうしてメイナードさんは笑うのが嫌なんですか? すごく、すごく素敵な笑顔だと思います! メイナードさんの笑顔……私は好きです!」
わ、なんか告白みたいになっちゃった。
でも、そうとられたって構わない。私は……メイナードさんのことが好きなんだから。
「これだから、ホリーの前では笑いたくなかったんだ」
「え?」
黒縁眼鏡の奥の、悲しい瞳。
どうしてそんな表情になるの? 私、なにかした?
「私の気持ち……迷惑ですか……?」
「今、ホリーが感じた気持ちは、一時的なものに過ぎないから」
メイナードさんがなにを言っているのか、よくわからない。
首を傾げてみせると、メイナードさんはゆっくり私を見て、理由を話してくれた。
「昔から、俺が笑うと、周りの人たちはみんな俺のことを好きだと言い出すんだよ」
「……それの、どこが悪いんです?」
「老若男女問わず言い寄られて……ちょっと、トラウマかな……」
「はあ」
でもなるほど、わかる気はする。あの笑顔は、本当にヤバい。少年のようなあどけなさと大人の色気が混じったあの笑顔は、きっとどんな人でも虜にしちゃう。
部下たちの前であの笑顔をうっかりやってしまったら、『師団長好きですー!!』と多くの魔術師がメイナードさんに群がる姿が容易に想像できるのよね。
少し笑顔を見せるだけで急に魔法にかかったように言い寄られたら、確かにトラウマレベルになっちゃうかもしれない。
「だから、ホリーには俺の笑顔を見せたくなかったんだ」
「……そんなに私に好かれたくなかったですか……」
私って、そんなにメイナードさんに嫌われてたのかな。好きって言われて、鬱陶しかっただけなのかなって思うと、胸が苦しい。
「いや、逆だよ」
「逆?」
メイナードさんの言おうとしていることがわからない。でも、メイナードさんは少し照れたように視線を逸らした。
「俺の笑顔だけで、好かれたくなかった。ホリーには、そんなの関係なしに俺を好きになって欲しかったから」
逸らした目が戻されたかと思ったら、メイナードさんは寂しそうな顔をしてる。
え? それってつまり……
「俺は、ホリーのことを〝パン屋の君〟と呼んでた。楽しく一生懸命働く姿に、明るく笑って接客するホリーに、ずっと惚れていたんだよ」
「本当……ですか……?」
「ん。だからホリーには、俺の笑顔は見せずに好きになってもらいたかった」
メイナードさんの言葉に、私は目を丸めた。私に笑顔を見せたくないって言っていた理由が、そんなだったなんて。
それに私のことを好きでいてくれていたことが、信じられない。
「あの、私、メイナードさんのこと好きです」
「それは俺の笑顔を見て、ある種の魅了状態になってしまっているからだよ」
「いえ、私……メイナードさんが魔術師団長だってわかる前から、ずっと憧れてました」
「……本当に?」
驚きの目をするメイナードさんに、私は頷く。
「好きだって自覚したのは、最近ですけど……でも、仮に笑顔を見て好きになったとして、どこか問題がありますか? メイナードさんだって、私の笑顔を見て、好きになってくれたんですよね?」
「……そう言われると、そうか」
メイナードさんはハッとしたように大きな目を開いて、こくりと納得している。
「素敵な笑顔、たくさん見せてください。私、普段のメイナードさんも好きですけど、笑っているメイナードさんも大好きですから!」
「ありがとうホリー」
そう言って、メイナードさんはニコッと音が出そうなほど笑ってくれる。
優しく細められた瞳に、柔らかく弧を描く口元……キラキラとでも音が出そうなその笑顔はもう、破壊力が、破壊力がー! もう、胸がきゅんきゅんしちゃう!
そんな破壊力抜群のメイナードさんが、私の手を取ってひざまずいた。え、なに?
メイナードさんの眼鏡の奥の瞳は真剣そのもので、私の胸の高鳴りは、さらに大きくなる。
「ホリー、君のことが好きだよ。どうか、俺と付き合ってください」
真っ直ぐ突き刺さるようなメイナードさんの言葉。数日前までは考えられなかったまさかの展開で、胸がぎゅっと熱くなる。
「はい……私もメイナードさんのことが、大好きです!」
自分の気持ちを正直に伝えると、メイナードさんがまた笑ってくれた。それも、とても嬉しそうに。
こんな笑顔を独り占めなんて、もったいない。
「メイナードさん、これからはたくさん笑ってくださいね。私だけじゃなく、周りの人たちみんなに」
「え……? いやじゃない?」
「恋人がたくさんの人に好かれるって、素敵じゃないですか! 私はいつも、いつでも、あなたの笑顔を見たいんです!」
私の言葉に、メイナードさんは今日一番の笑顔を見せてくれる。
「ありがとう。ずっと笑顔を見せていくことにするよ」
今まで我慢していたメイナードさんの笑顔は、弾けるように眩しさが溢れてる。
あなたの笑顔を見たいから、ずっと、ずーーっとそばで笑っていてくださいね。
メイナードさんの笑顔がある限り、私はずっと、あなたのとりこです!
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