今日から私はあなたのお母さんです。

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太陽が空のてっぺんの位置まで来た頃、私はまだ布団にもぐっていた。布団の温もりを感じながら、まどろみの世界に浸っていた。 ピンポン。 チャイムの音が部屋に響く。私はゆっくり目を開けた。いったい誰だろうか。そんなことを思っていると、もう一度チャイムが鳴った。 私は大きくため息をついてから立ち上がる。せっかくの至福の時間だったのに。 「はあい」 ドアを開けると、そこには緑の作業着の男性が立っていた。 「渡辺一郎さんにお荷物です」 「ああ、はいはい」 宅配か。私は男性からダンボールを受け取る。 「それではこちらにサインをお願いします」 「ちょっと待ってくださいね」 私はお父さんの寝室に行き、タンスの一番上の棚を開く。そこにある印鑑を取り、玄関に戻る。 「ありがとうございました」 書類に印鑑を押すと、宅配業者の人は笑顔で去っていった。 「ふあああ」 思わず、あくびが出てしまった。まだまだ一日は長い。もうひと眠りしよう。 印鑑を仕舞おうとタンスを開いた時、私はある物に気づいた。それは、一冊の黒い本だった。そこにはDiaryという文字が書かれている。 日記。 ここに日記帳などなかったはずだ。そして、お父さんは日記を書くようなマメな性格ではない。ということは、これを書いているのは一人しかいない。絵美子さんだ。 私はじっとその日記帳を見つめる。他人の日記を見てはいけないことなど、私にも分かる。しかし、心の奥に潜む好奇心が、私の手をそっと動かした。 居間のテーブルに座り、日記帳を開いてみる。最初のページには、文字がぎっしり書かれていた。その日付は、絵美子さんがこの家に来た日だった。 四月二十日 『今日からいよいよ一郎さんと一緒に住むことになった。この日をずっと待っていた。どんな生活になるだろうか。想像するだけでワクワクしてくる。これからは妻として、一郎さんをしっかり支えていきたい。』 丁寧できっちりと書かれた文字、絵美子さんの几帳面な性格が滲み出ていた。 私はページをめくっていく。三日後の日記に、私の名前を見つけた。 四月二十三日 『なかなか梨紗ちゃんと仲良くなることができない。私と話をしている時は、いつも梨紗ちゃんは、つまらなさそうな顔をしている。まだ緊張しているのかな。それとも私の接し方が悪いのかな。まだ一緒に住み始めたばかり。きっと仲良くなれるはず』 次の日もまた、私のことが書かれていた。 四月二十四日 『今日は梨紗ちゃんと二人で買い物に来た。野菜の選び方を教えてあげたけど、梨紗ちゃんは迷惑そうだった。私が話すことはつまらないのだろうか。ずっと一人で空回りしてるように思えてしまう。気持ちだけが焦っている。早く仲良くなりたい。でも、話せば話すほど、梨紗ちゃんが遠ざかっていくように感じる。どうしたらいいのだろう』 最後のページ、その日付は昨日だった。 四月二十六日 『今日は梨紗ちゃんと全く会話ができなかった。今日一日で言葉を交わしたのはあいさつだけ。梨紗ちゃんはきっと私のことが嫌い。きっと私と同じ空間にいるのが苦痛でしかないのだ。どうすれば良いのか、考えれば考えるほど暗い気持ちになる』 最後の文章、こう書かれていた。 『きっと私は、母親に向いていない』 私はしばらくその文章を見つめていた。少し崩れたその文字は、微かに滲んでいた。
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