迷い家

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迷い家

 切り忘れていた目覚まし時計のけたたましい、ヒステリックな叫び声のようなアラームが僕を心地の良い眠りの海から強引に引っ張り上げる。少し痛む頭を押さえながら、目を開けて起き上がってみると、僕の周りにはいつものモノトーンな世界が広がっていた。白のなんの特徴もないマグカップ、枯れてしまった観葉植物、ほこりをかぶった本棚。僕はその世界を見て、「ああ……」と声にならないため息をつく。僕は最後にこの世界を目に収めて、永遠の夜を彷徨っていくのだ。    僕は今日から失業者というものになるらしい。僕がこの立場になるなんて、新卒当時の僕は思いしなかっただろう。世界は果てしなく広がっている海のように壮大で綺麗なものなのだと空想していた当時の僕には海が荒れるとここまで残酷なものなのだとわからなかった。残業に残業を重ね、上司からは暴言を吐かれ、同僚は次から次へと消えていく。社会に漕ぎ出して3年もたつ頃には趣味だった読書もできず、いつまでたっても給料の上がらぬ仕事を続け、家には寝るためだけに帰りつくだけの歯車となっていた。油も刺されず、ただ回るだけだった歯車は錆びつき、ボロボロになっていく。それにも気づかぬまま僕は回り続け、そして壊れた。  僕は一週間ほど、家から出ることができなかった。別に体調だって歩けないほどひどい、というわけでもない。ただただ外に出ることに対して拒絶感があったのだ。親に相談しても「甘えるな」の一言で済まされ、会社からの電話も出れず外にも出れず、ただただ三大欲求の傀儡になっていた。そんな僕を会社が見捨てたのが昨日のことだった。  そうして、醒めた僕を希死念慮が蝕んでいくのは、当たり前のことだ。僕は今日、この世を去る。  もうなんの未練もないから、部屋のカギは開けっ放しにしておいた。本はすべて売り、冷蔵庫の中の食品も生ごみに入れて処分した。空っぽになった部屋は僕には無関心を決め込み、冷たさが最後に残った。  車に乗り、ホームセンターでロープを買って、僕は山を目指して車を走らせる。途中渋滞に巻き込まれたせいか、山に着いたのは日も暮れた夕方のことだった。山を見ると人は高揚感なり恐怖なりを覚えるものだ。それは昔の僕も同じで山登りの直前には高揚感で満ち溢れていたのだが、今の僕は山を見ても何も感じなかった。そもそもなぜ遠回りをして山に来たのかさえ、僕にはわからない。  山を登る僕の足はなぜだか軽かった。昔と同じ、いやそれ以上の速さで山の奥深く、人が立ち入らない場所まで入っていく。  どれくらい進んだのだろうか。周りはすでに闇に支配され、2メートル先も見えなかった。その不明瞭な視界の中で僕はロープにかけるのにいい木を発見した。僕は淡々と枝にロープをかける。その過程に悲しみも怒りも喜びもない。ただ、僕はこれからこの世から消えるんだという実感があった。 「……光?」  僕がそれを発見したのは、まさに首にロープをかけようとした時だった。踏み台の上に乗ったからか高くなった視界の正面に明かりのようなものが見えたのだ。人工的なようには見えない、どうやら何かが燃えているらしい。その火は揺らめいては消え、揺らめいては消えを繰り返している。  僕は吸い寄せられるようにその明かりに向かって歩いている。それは僕の意識の外の行動で、ちょうど蛾が光のほうに向かっていくような本能からの行動だった。落ち葉を踏みしめながら歩いていくと、だんだんその光が、正確には光の周りの風景が明確な実態を表した。    ……家だ。家が建っている。それも木造の平屋だ。僕はまだ山の中にこんなものが存在しているとは考えもしていなかったので狐に化かされた気分になった。 「……死にに来たのか?」 「うおっ!!」  急に僕の真横、炭を流したように真っ黒な夜の闇からしゃがれた老婆の声がした。僕は咄嗟に声のしたほうから距離をとる。無意識にファイティングポーズをとって声のしたほうを睨んでいると、その闇から浮き出るように杖を突いた老婆が現れた。その老婆の顔は少し険しかったもののそこに敵意は存在しないと分かった。 「死にに来たのか?」  老婆がもう一度同じ質問を口にする。僕は不思議とこの老婆に恐怖心を抱かなかった。この老婆が僕たちの常識の外、超常の存在だと理解していてもだ。僕が老婆の質問に頷く形で答えると老婆はため息を一つついて、「ついてきな。腹が減っているだろう」と光の漏れる家に向かっていった。  なぜだかついてきてしまった僕が最初に目にしたのは、囲炉裏だった。薪がぱちぱちと爆ぜ、火の粉が鮮やかに舞う。中は簡素ながらも厳かな雰囲気で、僕は促されるままに囲炉裏のそばに敷かれている座布団に正座した。 「腹が減っているんだろう」  老婆が奥の部屋から大きめの土鍋を持ってきて、自在鉤にかける。時間がたつにつれてぐつぐつという音が大きくなり、鍋のほうからいい匂いがし始めた。その匂いで僕の腹の虫が暴れ出した。 「雑炊だ。中にここらでとれた猪が入っている」  老婆が鍋の中身を椀に盛り、僕によこした。 「ありがとうございます」  僕は雑炊に食いついた。臭みはなく濃厚な肉の味がご飯の熱気とともに口に広がった。 「ここに来るのは死のうとするものばかりだ。我々からすれば命短い人間がなぜそこまで死に急ぐのかわからん」  老婆がぽつぽつと話し始めたのは、僕が鍋の中をすっかり食べつくした後だった。それは独り言のようでもあり、僕に語り掛けているようでもあった。 「お前はなんで、死のうと思ったんだ」  老婆の目がまっすぐに僕をとらえる。その目で見据えられた僕は、操られたみたいに饒舌にここに来た経緯を話し始めた。親にすら話を聞いて貰えず、心の中にどぶのように溜まっていた感情が流れ出していく。僕は気が付くと涙を流していた。 「……それで、もう……」 「なるほどな。だがお前は本当は死ぬ気などなかったんじゃないか?」 「……え?」  老婆の言っていることの意味が分からなかった。 「お前はなぜわざわざ家から遠く離れたこの山に来た?」 「……それは……」  老婆の口にした疑問は僕が車の中でふと思ったことだった。確かにこの山には思い入れはないし、登ったことだってなかった。 「お前が死のうか迷っていたからだ。心の奥底では生を捨ててしまってよいのかと悩んでいる。本当にすぐに死にたいのなら家で首をつってもよかったはずだし、そもそもこの家には来ていない」  その老婆の言葉は僕の胸にぐっさりと刺さった。痛い。痛いが、それが僕が気が付きもしなかった真理である何よりの証拠だ。 「人生は山のようなものだ。登りがあるなら下りがある。険しい道だってあるし緩やかな道だってある。綺麗な景色だってあれば眼を背けたくなるような残酷な景色もある。お前はただその山を降りただけに過ぎない。また、登り始めればいいさ」 「……」  老婆の言葉は僕を包み、温め、また前へと向き直らせた。 「お前は逃げられただけ立派だよ。逃げるということを知らないと自分の身を滅ぼすこととなる。しばらくは麓でゆっくりして、また登る準備を整えておくことだな」  老婆が鍋を下げてお茶を持ってきた。そして湯飲みを2つ、僕の前に置く。 「……これは?」 「まあ好きなほうを飲め」  僕は迷わず右の湯飲みをとる。悩む前に反射で腕が動いていた。それを見た老婆は口の端を少し吊り上げ、「それでいい。もう来るな」と無愛想に言い放った。  気が付くと僕は車の中にいた。助手席を見ると僕が最後の蜘蛛の糸だと思い込んでいたロープが無くなっている。これでいい。これでよかったのだ。  車は近所の最寄り駅の駐車場に止まっていた。時刻を見ると朝の6時。どうやらあれから一日たっているらしい。  車から出て空気をいっぱいに吸い込む。排気ガスで汚れた空気のはずなのに山の空気のように爽やかに感じた。  今日から僕は堕落した生活を送るだろう。貯えを食いつぶしながら僕のやりたいことをするような世間一般には忌み嫌われる、空白な生活。だが僕はその生活が少し楽しみになった。その空白こそ僕に必要なものだったから。  そして、いつかまた僕は山を登ることになるだろう。ふと、僕は昔抱いていた夢を思い出した。安定を求めて切り捨てた小説家という夢。朧気だったそれは思い出した途端、明確に形を持ち始める。遥かに高く聳える山として。  でも今はとりあえず、そこの蕎麦屋で蕎麦を食べて、回転焼きでも買おう。そして久しぶりに古本屋で何冊か本を買おう。草枕でも人間失格でも罪と罰でもいい。  上るべき山はやっとその姿をはるか遠くから僕に見せ始めたばかりなのだから。 〈了〉
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