最後の春休み

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最後の春休み

相手の心が手にとり触れてわかるものならば恋は途端につまらないものになるのだ 高校を卒業した最後の春休み、少年は同級生の少女を誘いふたり春の海へ自転車を走らせた。川沿いの堤防をどこまでも海へ向かって。春とはいえ初夏のような陽気の日であった。春の草の匂い。そして海が近づくにつれ潮の香りが漂う。誘ったことには理由がありそれを断らなかったことにも理由がある。薄々勘づいているのだが何をどうしてよいかわからないのが恋であり、遊び慣れのしていないまだ擦れていないこの少年と少女にはまるで手さぐりの恋なのだ。それは見ている方がやきもきしてしまうほどの純粋な恋であるべきなのだ。何も言わず陽射しを浴びただ海へと走る。少年はどう打ち明けようか、いや、やはりよそうか。少女は淡い何かを期待し、いや、そんなうまい話しなどあろうはずがない。互いに様々を思い描き自転車を漕いだ。長いながい堤防の道はやがて河口へとたどり着いた。途中で買った炭酸飲料がふたつ。砂浜に自転車を雑に倒し少年は炭酸飲料を少女に渡した。とにかく喉が渇くのだ。それは強い陽射しの中を自転車を漕いだからというだけではないのだ。体よりも心が渇いたのだ。ふたり砂浜へ腰をおろす。少女はひらひらのスカートが汚れやしないかと少し気をつけて座った。穏やかな波の音と青い海。いつかこうすることを夢見ていた少女。少女の長くそして黒く美しい髪が緩やかな風になびくのを少年はただ見ていた。かすかな香料の匂い、庭球部で少し日焼けのしたまだあどけなさの残る少女の横顔。少年はまだ決めかねていた。少女はじっと海を見るふりをしてその期待に胸を膨らませていた。沈黙のときは普段より一層長く感ぜられた。思えばふたりあまり話したこともなかったのだ。それというのもお互いを意識していたが為にほとんど言葉を交わしたこともなかった。好き避けというらしいことをふたりは最近知った。もうここまで見えみえのふたりの心。いっそ私から。少女は思った。この期に及んでまだ決心のつかぬ駄目な男。誰か仲を取り持つ者があるならば間違いなく成就する恋なのだ。例えばどちらか一方でも百戦錬磨の遊び慣れた輩であればそれこそ二言三言で商談成立といったところであろう。しかしふたり初戀同士。誰か友人に頼むべきであったと互いに考えていた。少年は地元の自動車販売会社へ就職が決まり少女も地元の短期大学への進学が決まっていた。もし今を、このときを逃したらもう後がない。そう決心して誘った少年と誘われた少女。こんなことならば誘ったときに告白すべきであったと今さらに後悔をしてみる少年。まだ少女はじっと海を見ていた。やるせなさというか焦れったさというのか少女も焦燥感を覚えた。ただただときだけが過ぎ波の音ばかり。お互い好きな気持ちは手にとるようにわかりきっておるのに。なぜ何も言わぬのか。なぜこの肩にすら少年は触れようともせぬのか。純情とはこのことの他にないだろう。好きだと言ったらどうなる。もし彼女は自分をなんとも思っておらなければこの先友達にもなれぬ。保険でもかけたいのか、いや違う、一世一代ふられようとも告白せんと彼女を誘い出したのではないか。私は彼から告白されそれを承知するためにここまで来たのではないか。どうして純粋な恋というものはこんなにじれったいものなのだろうか。ますます喉が渇くばかり。動悸と息切れ、それではまるで老い先短い年寄りではないか。しかしふたりの動悸は高まり胸はただ苦しくなるばかりであった。今さら何も言わず帰るのか。そんな間抜けな話しもないだろう。きっかけはなんでもいい。何か話さなければ。そう思うほど無言と沈黙がふたりを隔ててならない。このままそれぞれの道を歩み美しい片思いとして互いに胸にしまい込みいつか忘れ去ってしまうのか。それではあまりにも寂しいだろう最後の春休みだのに。日が沈むまでには打ち明けよう。どちらも同じことを考え、打ち寄せては引いてゆく波を見ていた最後の春休み。
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