二度と傷つかない、小さな国

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二度と傷つかない、小さな国

 心療内科の医者は痩せた茶髪のお兄さんだった。  白衣をさらりと着こなしていて、目力が強くて。私はなんとなく、医療業界も変わったなあ、と、どうでもいいことを思っていた。 「久住まりなさん。HSPですね。説明しますと……」 「非HSS型のHSPですよね」  診察室で向かい合って座った私は、力なく笑ってみせた。  HSP。それくらいわかってる。インターネットで何ヶ月も調べ尽くしてきた。診断テストも何度もやった。家の本棚にはHSPに関する本が沢山並んでいる。  かなり簡単に言えば『繊細で傷つきやすい人』ってことだ。  その中にもタイプはあるが、私の場合は『他人の気持ちに敏感すぎ、尚且つ内向的』がプラスされている。 「専門の僕より知っていそうですね」  茶髪先生は苦笑した。 「最近知ったのですが、HSPは生まれつきの性質だそうですね。私はずっと、育った環境のせいだと思っていました」 「生まれつきだとわかって、安心しましたか?」 「絶望しました」 「絶望……ですか」 「なにをどうがんばっても、治らない、と証明されたのですから」  茶髪先生はカルテを見て、しばらく沈黙した。しんとしてしまった診察室で、私もただ、黙っているしかなかった。 「最近……」  ふと先生が呟いた。 「は?」 「最近、なにかありました?」  目力の強い先生だとは思ったが、見抜く力は相当あるようだ。 「私は……『二度と傷つかない、小さな国』にひきこもりたいです」  茶髪先生は毎朝、温かくて少し甘く味付けしたミルクを作って、私を起こしに来る。  先生はゆっくり歩く。  その足音をベッドの中でぬくぬくしながら聞いている時間は、とても幸せだ。  ここは私が望む『二度と傷つかない、小さな国』 「まりなさん、おはよう。入るよ?」  ドアの前で先生が声をかける。私が目を覚ましていることを知っているから、大声で起こしたりしない。 「はい」  私はベッドの上に座り、先生を迎える。 「まりなさん、昨夜はずいぶん雪が降ったよ。管理人さんが明るくなる前から雪かきをしてくれたから、朝食のあとで散歩に行こうか。朝日が雪を照らしてキラキラ眩しいくらい、明るいよ」  先生の提案に、ミルクの入ったカップを受け取る指先が、どうしても震えてしまう。外に出ることが怖い。 「大丈夫。誰にも会わない。ここは僕とまりなさんだけの世界。そう言っただろ?」  先生が優しく私の背中をさする。  そうだった。この山の中のロッジはほかの民家からニキロほど離れていて、野生の小動物が遠くに見えることはあっても、人と会うことはない。  先生が雇っている管理人のおじさんも、先生に言われているのか、私とは極力鉢合わせしないように気を遣ってくれている。たまに私と会ってしまっても、管理人さんは会釈だけして、さっさとロッジを出ていく。 「『二度と傷つかない、小さな国』か……。僕が提供するよ。そこで一緒に暮らさないか?」  あの日、先生は診察室でそう言った。 「僕は絶対に君を傷つけないよ」  先生の力強い目が、ふんわり優しく笑った。  生きることに疲弊していた私は、先生がさしのべた手を取った。  新種のウィルスが世界中で猛威を奮うと、先生は早々とオンラインでの仕事に切り替え、私を連れて山奥のロッジで仕事を始めた。  診察料はクレジット払い。処方箋はデータで指定の調剤薬局にパソコンで送る。 「オンラインで困ることは、なにもないよ。顔色、目の動き、話し方……様子は画面を見ていればわかるから」  だからなにも心配しなくていい、と先生は何度も言う。  午前中の日の光が雪に反射して、辺りは別世界のように見えた。  ここではすべてのものが純粋で、汚い心も浄化される気がする。  もこもこの温かいコートを着ていても、頬に触れる空気は冷たすぎて、刺すように痛い。 「まりなさん、あの日、診察室で僕は『なにかありましたか?』って聞いたよね」  先生はサクサクと雪を踏みながら、隣をゆっくり歩いてくれた。 「あれは……きっとほかの人には大したことではないのに、食事もできなくなるほど傷ついて寝込んでしまう私があまりにも劣っていて……この世界に生きていることが私には過酷で……それをうまく言えなくて……」  ああ、今もやっぱりうまく言えない。 「誰かになにか言われた?」 「『被害妄想化してる』って……」  先生は薄い水色の空を仰いで、はああ、と息を吐いた。  私は幼稚園教諭の仕事をしていた。  幼稚園教諭は所謂「女の園」で、憎悪と嫉妬が渦巻いていた。  子供が言うことをきかない。 「まりなせんせいがいい!まりなせんせいじゃなきゃやだ!」  子供が泣きながら遊具にへばりついた。  ただそれだけで、ほかの先生から私は無視されるようになり、園長にわからないように嫌がらせをされたりするようになった。  半年我慢したが限界になり、園長に相談すると 「被害妄想化してない?」 と言われた。  被害妄想。  この言葉を検索したことがないのだろうか?辞書で調べたことは?  他人に軽々しく言えるような言葉ではない。  そんな言葉を私は上司に言われたのだ。  私は心が壊れていく自分を感じていた。  記憶の隅に常にある、かすかな記憶。  物心ついた頃から、私は常に、誰かに嫌われてきた。私のなにがいけないの?訊きたくても、いつも訊けない。 「怒りの感情は、まだ芽生えない?」  先生は隣を歩く私の手を握った。  このまま手をつないで、ずっと先生の隣を歩いていけたらいいのに。 「理不尽なことをされたら、怒っていいんだよ」  私は、こくり、と頷いた。 「まりなさんは自分の何が悪かったのかって、原因ばかり探すからなあ。まりなさんはなにも悪くないのに」  先生は少し笑った。  先生が仕事部屋に長時間こもる日。私は一人で家事をこなす。  一人で過ごす時間は穏やかで、木の香りが充満しているロッジは、私を柔らかく包んでくれる。 『二度と傷つかない、小さな国』だ。  私は夕食作りに集中していて、外で車が駐車した音に気づかなかった。 「ちわーす。木村でーす。灯油の補充に来ましたぁ」  突然、男性の大声が聞こえ、ビクッとなった私は、包丁で指を切った。  管理人さんが来るから、と、先生が鍵を開けておいたのだった。  二十代くらいの男性が我が物顔でリビングに入ってきて、私は動揺した。 「あの……あ、えっと……」 「あー、管理人の息子の木村です。親父、ぎっくり腰やっちゃったんで、しばらく俺が来るんで。まあ……よろしく」  先生以外の人と接するのは久しぶりで、私は戸惑った。  しかし木村と名乗る男性はずかずかと私のそばに寄ってきて、いきなり私の手を掴んだ。抵抗すると、一層強い力で掴まれた。 「流血してるから」  彼はシンクに私の手を入れ、水で血を流した。そして素早くジーンズのポケットからハンカチを出し、私の左の人差し指をハンカチでギュッと握った。  みるみるうちに、血がハンカチに滲んでいった。ハンカチのしみ抜きをしてから返さなくては、と私はしみ抜きの道具があるかを考えたりした。 「あー、ちょっと深くやっちゃったな。痛い?」  体が触れ合いそうなほど接近し、指を強く握られたままでいることに、私は少し不安になった。  この人も私を嫌う?傷つける?  好かれるために媚びることもできない自分がはがゆかった。  救急箱の場所を教えると、彼はリビングのソファに私を座らせ、救急箱の中をガチャガチャ探り、手当てをしてくれた。  何重にも折り返したガーゼを傷口にあて、グルグルとテープを巻きながら、何度も 「びっくりしたよな、ごめんな」 と謝ってくれた。  最後に部屋の中央にある大きなストーブに灯油を補充すると 「じゃあ帰るけど。先生に補充したこと伝えて」 と言った。  そしてじっと私を見つめて、最後にこう言った。 「あんた、顔はきれいだけど、置き物の人形みたいだな。笑うことなんてあるの?」  それからひと月ほど、管理人の仕事はその若い男性がやっていた。  ふと外を見ると、雪かきをしていたり、ロッジに入ってくると、倉庫代わりにしている広い納戸に日用品を補充したりしていた。  ある日、先生が仕事部屋で診察をしているとき 「外で雪だるま、作る?」 と唐突に誘われた。  彼は雪で丸い球を作ると、それをコロコロ転がし始めた。  私も真似をしてみた。面白いように球はどんどん大きくなった。  彼が作った球の上に、私が作った球を乗せた。  木の枝や石で、顔や腕を作った。  いびつな、変な顔の雪だるまができた。しかしそれがまた、愛らしかった。  ふふふ、と私が笑うと、彼はとても嬉しそうに 「あんた、笑うとすげーかわいいんだな」 と言った。 「え?」 「あんた、心の病気なんだってな。エイチなんとかっていう……」  私は黙って小さく頷いた。 「こんな山奥で隔離されていれば、治るもんなの?」  この若者は何を言っているの?隔離? 「ここは『二度と傷つかない、小さな国』よ」  彼は驚いて私を見つめた。その目には畏怖の色が見て取れた。 「……誰でも、傷つきたくはないもんな……でも……同じくらい、楽しいことや嬉しいこともあるんじゃない?現実の……社会ってところで暮らせば」  楽しいことや嬉しいこと……?そんな感情、私は経験したことがあった? 「あんたが繊細で傷つきやすい性質の人で、今、ここで精神科の医者の研究のために、一緒に暮らしてるって聞いてるけど。なんか違和感があってさ。これ、隔離じゃない?」  私はいびつな雪だるまの顔を見つめた。この雪だるまが私の分身のように思えた。 「管理人さんの息子さんは、もう来ないから」  朝食を食べているとき、先生は言った。 「どうして?」 「管理人さんの腰が治ったからだよ。まりなさん、どうして、なんて訊く人じゃなかったのに……あの男からなにか吹き込まれたかな?」  先生の視線が冷たくて、痛い。 「……か、隔離……なんですか?これは……」  私はありったけの勇気を出して、尋ねた。  テーブルを挟んで向かい合っている先生の顔色がサッと変わった。  真っ赤になり、眉を吊り上げて、荒い呼吸を始めた先生は、握っていたバターナイフを、私の顔に投げつけた。 「いたっ!」  額に当たったバターナイフが、私の太ももの上に落ちた。  先生は私の知らない早歩きで、ダイニングを出て行った。  ここは『二度と傷つかない、小さな国』ではないかもしれない。  私は彼の言葉を反芻した。  これ、隔離じゃない?  これ、隔離じゃない?  これ、隔離じゃない?  翌朝も、先生は変わらずミルクを持って私を起こしてくれた。  そのミルクの甘さと温かさに、私は癒された。  先生はベッドの端に座り、そっと私を抱きしめた。 「昨日はごめん。僕の怒りがまりなさんの心や体に伝わってしまったね」  HSPは感情の反応が強く、異常なほど共感してしまう傾向がある。また、他人との心の境界線が薄く、相手の感情の影響を受けやすいと言われている。  実際、昨日、私は萎縮してあまり動けず、食欲が全くなくなり、ほとんど眠れなかった。そして頭痛と胃痛に苦しみ、薬ばかり飲んでいた。 「管理人さんの息子に言われたんだろ?隔離って……」  私は答えなかった。 『二度と傷つかない、小さな国』にひきこもりたいと願ったのは私。先生はそれを叶えてくれた。なのに少し心が癒えたら、隔離、だなんて。  私は自分の汚さに耐えられなかった。 「管理人さんを通して、あの息子に連絡しておくよ」 「なにを?」 「……まりなさんは僕から離れるほうがいい」  先生は私の体から離れると、カップをそっと取り上げた。  先生が部屋から出ていったあと、私は寒さではない何かに震えた。  先生は研究のために私を隔離したのだと言い残して、警察に行ったまま、帰って来なかった。  しばらくは警察が出入りしたり、よくわからないことを詰問されたりして、私はボロボロになった。  彼や管理人さんに助けられながら、私はロッジに来る前に住んでいたアパートに戻った。  それから八年。  やっと頭金が貯まり、私はローンを組んで、あの山奥のロッジを買った。  新たに幼稚園教諭の仕事を見つけ、正職員として働くのは、私には大変なことだった。  誰かの一挙手一投足に敏感で、傷つくことが多く、きつい態度の人には、私のなにが嫌なのか教えてほしい、と何度も思った。子供の可愛らしさだけが救いだった。    警察がロッジに来たあの日。  私はダイニングテーブルに置いてあった手紙を、すでに見つけていた。  あの手紙があったから、私は歯を食いしばって、がんばれたのだと思う。  冬の終わり。  私は車を運転して、山奥のロッジに到着した。  ガレージの前に一台の車が停まっていて、運転席から木村さんが降りてきた。 「久しぶり」 「長いあいだ、管理をありがとう」  彼はロッジの鍵を私の手に握らせた。 「本当にここで一人で、先生を待つの?」 「うん」  執行猶予がついたのに、先生は私の前から姿を消した。八年間、どこでどうしているのか。 「俺もわりと本気で、あんたのこと、好きだったけどね」  彼は照れて、首を掻きながら、言った。 「知ってた。ありがとう」  私が笑うと、彼は 「やっぱり笑うとすげーかわいいな、あんた」 と、今度は真面目に言ったので、私のほうが照れた。  ずっと助けてくれた彼に感謝している。 「『二度と傷つかない、小さな国』はもういらない。今日から私は『傷ついても支え合う国』の住人になるの」 「ふうん。その国で好きな人を待つんだ?」 「うん」  彼は苦笑いすると、かなわねー、と空に向かって叫んだ。  私はロッジの入り口の鍵を開けた。  ガチャン、と大げさな音がした。  ロッジの中はひんやりしていた。  私はダイニングテーブルに、先生が置いていった手紙を、そっと置いた。  そしてすべての窓を開け放すために、建物の中を走り出した。  まりなさんと初めて会ったとき、とても美しい人だと思いました。  髪を無造作にひとつに結んでいて、お化粧もしていないのに、こんなに美しい人がいるのかと、驚きました。  線が細く、もろくて弱っていたまりなさんを、僕の手で助けたいと思ったのは本当です。  でも、正直に告白します。  まりなさんを独占したい、と思ったから、ここに連れてきたのです。  そうしてしまうほど、好きでした。
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