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第八話
怏々とした日を送っていると、俺は学部の女子に呼び出された。草木が萌えだし、春がやってきそうないい天気だった。ふわふわとした巻き毛の長い茶髪に薄く化粧をしていた女が俺のまえに立っていた。うつむいた顔にはピンクのチークが映え、震える声で好きだと言われた。
「ごめん」
俺は頭を下げて謝った。ごめん。好きな奴がいる。きっぱりと短く断る。相手のバースはオメガかと訊かれて、そうだとはっきりと答えた。
七海が好きだ。
親友よりも深く。それ以上に……。
こころでそう思いながら。
この気持ちを本人に伝えられたらどんなにいいものだろう。涙する彼女を目にしながら、彼女の勇気がうらやましかった。
好きだという言葉をあいつに届ければ、すべてが崩れて壊れる。それがこわい。本人をまえにして、告白をする勇気すら自分にはない。俺は伝えてくれてありがとうと言い残してその場をあとにした。
そしてテストが終わると同時に、いつのまにか七海は俺のまえから顔を見せなくなった。バイト先にも姿を見せず、会いたいと連絡しても返ってこない。
なにかやらかしてしまったのだろうかと不安になった。でも、もう十分にやらかしていて、気づくには遅かったのかもしれない。俺のよこしまな欲望がわかってしまったのだろう。
俺の匂いをそれとなく纏わせて、誘いをいれないように日々を埋めていったこと。あいつの視線がこちらをむくように、他の奴に奪われないように家までついて行ったこと。
いつでも触れられる距離にいられるように、この想いがいつか叶うように、そう祈りながらそばにいたことがばれたのか。
ぐるぐると考えあぐねいて、答えが見つからないまま俺はあいつの姿を探した。
一目だけでもいい。一瞬でもいいから会いたい。会って話をしたい。おはようという言葉を交わしたい。あせる気持ちがさらに焦らされて、見計らっていたように七海は姿を消す。食堂にもいない。講堂にもいない。中庭にもいない。どこにもいない。さっきまでいたのに、すぐに行方をくらまし、あいつという存在を失うのが恐ろしくて怖くなった。
うんともすんとも反応しないスマホと向かい合っても変わらない。俺は直接会いに行こうと決めた。それでもビビりな俺は事前にメールを一通だけ送った。最後に借りたミステリー小説。そんな一冊の本にすがった口実しか思い浮かばなかった。
『久しぶり。本を返したい。都合を教えて欲しい。急にごめん』
熟考に熟考を重ねて、文字を丁寧に重ねても、それとなく謝罪の言葉を添えても、どうもしっくりこない。えいっと送ってしまってから、猛烈な罪悪感が襲う。どこかそっけない文章だったんじゃなかったか。もしかしたらへんな奴だと思われたんじゃないか。しつこいときらわれたんじゃないかとか。
それだから、返信がくるかこないかと気を揉んで、ちらちらと携帯端末に視線を投げながらそわそわしながら待った。
授業中、バイトが終わったあと、家でもスマホを気にしてしまう。音もなく画面が光ることもなく、いつまでたっても返事はこない。
……俺は、きらわれたのか。
とうとう俺は我慢できずにあいつのアパートの前に立つ。朧月がぼんやりとした光を投げ、しっとりと濡れた夜気が頬を包む。二階建てのアパートの片隅にある部屋は灯りがついていた。
よかった。なかにいる。いや、まて。もしかして他に誰かと一緒にいるかもしれない。そう思ってたまらなく苦しくなった。
ストーカーみたいな気持ちになって、ごめんごめんとこころで謝った。
ここで思いを伝えて終わらせる。一緒に過ごした時間は無駄じゃない。手をつないで、抱きしめて、好きだと伝えよう。
ここで伝えなければ、きっと俺は一生後悔する。俺は腹を決めて、インターホンを押した。
すぐに扉がゆっくりとひらかれた。
いつもの七海の顔がドアの隙間から見えた。
あいつの腕をむんずと掴まえて、視線を下げた。どこぞの借金取りみたいにじろりと一瞥して、玄関の靴は一足しかないこと、七海のうなじが無事なことを確認する。
「……最近、バイト先に来なくなったな」
「う、うん。忙しくなってさ」
それは知っていた。だけど、すべて無視するやつじゃないことも知っている。
「連絡をしたんだぞ」
「ごめん、最近メール見てなくてさ」
それも嘘だとわかった。八の字のような眉は嘘をついているときの顔だ。
借りていた本を目の前に出した。もし、これを受け取ったら最後だ。次の口実なんてない。それなのに、馬鹿正直な俺はぐいぐいと要となる一冊を押しつけるように渡してしまう。
「……これ、返す」
「うん、ありがとう」
それだけ言って、あいつは扉を閉じようとした。
やっぱり、それだけなのか。もっと話すことがあるんじゃないか。どうして避けるんだとか。なにかあったんじゃないかとか。ひどい目にあったのかとか。いろんなことが思いうかんで、俺はうかんだ言葉を咄嗟につぶやいた。
「すきだ」
ちがう。そうじゃない。
「へ?」
「好きだ」
そうだけど、そうじゃない。思うように口がまわらない。秘めていた気持ちがぐちゃぐちゃになって暴走する。
「……あっ」
抑えられない感情に、どんな表情をしているのか不安になった。引き寄せて、胸に抱いた。嫌がったら帰ろう。ごめん。悪い、怖がらせてごめん。そう唱えながら前髪を搔き上げた。糸を引いたまっすぐな目とぽつぽつとしたそばかすがほんのり桜色にういて見えた。嫌がられてない。
「——……かわいい」
つい、キスしたくなって唇がさきにうごいた。
「ん」
「好きだ」
「……えっ。あ、あの」
全身が欲しいと求め、俺はあらん限りの力で抱きしめた。すっぽりとおさまる心地よさに目を閉じた。
「つき合って欲しい」
胸に顔を押しつけると、つむじからあまい香りが匂い立つ。
「……えっ、……あっ。あの」
「俺、七海が好きなんだ」
もっと伝えるべきことはたくさんあったとあとで反省した。それでも粛々と築いていた関係が、己の暴走でワンステップ上へ昇格したのは間違いない。
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