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「……くそっ」
俺は横断歩道のまえで立ち止まって、指でスクロールしながら画面の下方に視線を移動していく。どうあがいてもたどった先は真っ白だ。スケジュールアプリをとじてホームの画像に戻ると、糸を引いた目が無邪気にこちらにほほ笑みかけている。
……いとしい。
にやっと表情筋がゆるんでしまい、隣に並んだサラリーマンがびくりと顔をあげたので視線を伏せた。まっすぐに線を引いた目がちょっと垂れている。おっちょこちょいなところもあるけれども、のんびりとした性格で結婚相手としてなんの申し分もない。
……好きだ。なんど見ても好きだ。
好きを積み重ねて七年。大学で出会って、初恋ともいえる重度な片想いを成就させ、番いになった。そして結婚して今に至る。
浮気なんて考えたこともない。
順風満帆な恋と結婚はあいつだけで、これっきりだ。
それだから、番いであるアルファの自分がしっかりしなければいけないのに、こんなにもゆるんだ気持ちでいるのはよろしくない。
いまとなっては、結婚できたことに感謝しかない。そんなかけがえのない存在がいる俺は、とてつもなく幸せものなんだと思う。
……いつだってキスしたい。
顔を眺めるたびに、ふわふわと気持ちがうわついて、夜になると鼻の上のそばかすにひとつひとつキスを落としたくなる自分がいる。ずっとキスの雨を降らせたいが、本人が気にするので眠ったときにこっそりしているのはだれにも言えない秘密だ。
「……見すぎたな。くそ、また取り残された」
信号が点滅を繰り返して、また行く手を阻んだ。ここで車が通り過ぎていくのを待たなければならないのは、もはや三度目となる。
しょうこりもなく、また手にしていた画面に視線を落とす。そうすると、いつものようにしみじみとスマホ画面を眺め入ってしまう。
「やばい。かわいすぎる」
つい、そんな言葉がでてしまうほど見入っている。
こう、飽きるとかそういうのがない。スケジュールを真っ白で返されても、すべてを許したくなる。
……そもそも顔がかわいすぎる。
なにもかも、俺好みにできているんじゃないかと錯覚してしまいそうになる顔立ち。
三日月形の眉の先がくるっと跳ねているところとか。
面映ゆげな目元に涙がぽろっと落ちて愛くるしく笑うところとか。
耳許まで真っ赤になって照れるところとかぜんぶ好きだ。
本人は糸目だし、俺みたいな奴なんてごまんといるよと笑っている。ぽりぽりと頭を掻いて愚痴をこぼしていたが、そんなにいたら困る。全部恋人にしてしまいたくなる。
それになんだ、そのかわいい仕草は。目に毒だ。
……キスしたくなるだろうが。
現役で司法試験に受かったのに、そんなバカなことを毎日考えてしまう自分がいる。
そしてその写真の横で、ぶすっと仏頂面をしている男がいた。目に入った瞬間に、げんなりと力が抜ける。おまけにため息も出た。俺だ。むすっとした表情で写っている。
すべてをかね揃えるというアルファなのに、俺といえば隣で寝ている奴に触れることすらできない木偶の坊でしかない。
アルファという存在はあらゆる領域にわたって完璧で、理知的で、なにもかもをそなえているといわれている。それだからこそ、ほかの奴と比べられると怖くなる。
切れた画面の先にはしっかりと手をつないでいるなんて誰が知ろうか。いまだに自分の気持ちを伝えられてないと誰がわかろうか。そんなことを考えて、無性に、しゃぼん玉のような軽いため息がなんども出てしまう。
弁護士の金バッチをつけているのに警備員と間違われるし、地域に密着した事務所なのに顧客から警戒されるし、にこっと笑ってみせると子どもに泣かれる始末だ。それほど怖い顔をしているらしい。それなのに家の扉をあけたら、七海はいつもにこにこして出迎えて俺のそばにいてくれる。
たぶん、いや絶対に、人生でこいつしかいない。
番いになれなくとも、隣にいられるならばそれでいいと思うほどにそう感じる。
おいしいものをたくさんつくって、日が暮れるまで映画を観て、いつまでも指を絡めてキスをしたい。そんな時間だけが過ぎていってほしい。
ただただ好きだ。すきで、好きでたまらない。この重くなっていく気持ちは、どんどんと圧縮されて、どす黒くなってヘドロのように沈殿していく。
それだから、現実もひどい。
仕事に追われて、のどのところで言葉を押しとどめ、寧日がない生活を送ってしまう。所長は偉人の言葉を口にして励ましてくるし、事務所のスタッフはおしゃべりでうっとうしい。
猫の手も借りたいほど、毎日が忙しい。おはようのキスも、いってくるのキスすらできやしない。
そんな浅はかな自分を知っているのか、俺が出張日や、弁護士会で遅くなる日を入れたとしても、夫の七海はなにもないまま返す。ウェブデザイナーで在宅勤務だからほとんど予定がないんだとこぼして、困った顔をみせられるとなにもいえない。
本当は、作業用アプリで話している仕事仲間は誰なんだとつきとめたい気持ちもある。いつもメールをしているその送信先はどこなんだと訊きたい不満もある。
そう考えると、想いの落差がひどい。形にされるとなおさらだ。
「運命の番い……、か」
信号が点滅して青になる。
いろんなものがぼんやりとにじんで見えた。しょんぼりと立っていると石像のような人影が動き始めた。
好きで好きで、好きすぎるほど愛している。
抱きしめて、いやというほど唇を押しつけ、くっきりとした赤黒く残る痕をつけた。誰にも渡したくないという必死な思いで番いになった。それが、よくなかったのかもしれない。
七海は優しいから、番いだから。
それだから、そばにいてくれるのだろうか。
あのころも、いまも、自分の気持ちは変わらない。
いや、抑えらない苛立ちだけが深まる。
他の奴が近づくだけで、俺のなんだと睨んでしまうみっともなさ。
たっぷりと匂いをつけてやりたい情けなさ。
警戒して、威圧感を増しに増して睨んで、腕を掴んで引き寄せる。そのたびに、七海はいつだって困ったような笑みをうかべる。そこでしまったと反省して、さらに落ち込む。
その繰り返しだった。
毎日がそんな感じだから、ヒートのときに番いである俺を呼ばずに慰めることすらできないことがつらい。オメガとアルファに奇跡の赤い糸があったなら、そんなものは見えなくていいとすら願ってしまう自分がいる。そうでなくとも、ぷつんと糸が切れないように必死で縫い留めているのだから。
結局、運命の番いなんて言葉はまやかしにすぎない。
そう信じてやまない今がある。俺は歩きながら深い深いため息を洩らした。
もうすぐでセックスレス六年目に突入する。
今日も今日とて、俺の暮らしぶりに変化はない。
多分、一生ない。
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