第二話

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第二話

 曾祖父のころから、一家そろって医者家系だった。  父は開業医で、母は医学部の准教授だ。医者になるか否か考えることなく、なんとなしにそうなるんだと思っていた。言わず語らずのうちに親の真意も伝わっていた気がする。  勿論、心からそうなりたいと思っていたわけではない。にもかかわらず塾にスイミングと体操教室、それとバイオリン教室に足しげく真面目に通った記憶がある。母の車で送迎されて読書感想文に全国大会出場、音楽コンクールまで数々の優秀賞を総なめし、中学受験もなんなく合格して、決められた道を順調にたどる。そして周囲の期待はどんどんと高まっていく。  実家は都内で父と母、それと兄ひとりと俺。兄貴は八つ上で、優秀な成績を収め、あらゆる才能に秀でて自慢だった。性格は温厚で優しく、とんとんと医学部に進学して家を出た。そして兄は父の敷いたレールの上をまっすぐに生きるように医者になり、だれもが俺もそうなるんだろうと思った。  両親は仲睦ましく、父も母も優しい。息子さんたちは優秀ですねと誰もが声をそろえ、欲しいものはすべて手にしてきた。  それでいて、用意された将来だけがなんだか疎ましくなり、いつのまにかだれもが持っている自由が羨ましく見えた。十五になると俺はなに不自由ない暮らしぶりに、未来に漠然たる不満と反感を抱いていた。  そうなると大変で、父は上から目線で威圧的に見えるし、母は子育てを祖母に任せっきりで、祖母が亡くなると空っぽの家に帰る意味をみいだせない。どんどんと苦痛になっていくばかりだった。  どこでもいい。自由がほしい。はやく解放されたい。だれもいない家なら、一人で暮らしたい。そんな渇望に襲われ、この寂寥な実家を出たいという漠然とした夢を持つようになった。  運がいいのか悪いのか、両親は偏差値という数字しか関心がなく、俺が文系コースを選択したことになにも口をださなかった。文系で一番潰しがききそうなところを探しているなんて露知らず。国公立で金のかからない思いっきり離れたところを目を皿にして捜した。  商法や特許法に経営に関する法律、国際法など専門的に学べる、法学部というまったく畑違いで、遠い東北地方にある国立大学を選んで願書を提出した。  そして担任の一報で、やっとことの次第をしった両親は寝耳に水のように驚いて怒り狂った。  父は怒気を孕んだ顔でののしり、歯が折れるくらい俺を殴った。当たりまえだ。兄さんはそんなことしなかった。兄さんはもっと素直で、礼儀正しかった。兄さんは反抗などせず、医者になった。すべてを裏切るような行為に、学費など出さないと言い切る父がいた。その横で目頭をおさえて涙する母親が立っていたのも覚えている。存在を否定されたような気分だった。  それで、よかった。  俺はそれを狙っていた。  返済の必要のない給付型奨学金の審査には通っていたし、せっせと貯めた貯金とバイトでなんとかなる。  医者にはならない。もう二度とここには帰ってこない。こともなげに言いのけて、俺は家を飛び出した。冴えわたる寒気のなか、青白く光る星を上に新幹線に乗る。見送るひとなんていない。ひとりでいい。この先ずっと一人でなんとか生きていける。  勝手にそう決めて、そうなるんだとかっこよく夢みていた。  それだから、現実はきびしくてあまくない。  初めての一人暮らしは目が回るほど忙しい。部屋を探すと、成人したばかりの男に貸す不動産屋なんてない。俺は情けないことに、はじめて兄貴に泣きついた。契約書類を送って保証人になってもらい、やっとちゃんとした部屋で寝れるようになった。  それから原付バイクを買って、家具をそろえて、二キロ離れた複合施設にあるレストランのバイト面接を受ける。全国チェーンのバイキング店に目をつけた。メインは蟹ピラフで時給もよく、賄いつきで魅力的だった。  なんでもいいから早く決まってくれと願ったおかげか、人の入れ替えが激しい季節という理由で調理補助にすぐに決まった。  はじめはキッチンの清掃と皿や調理器具の洗浄、料理の盛りつけを担当した。シェフは星さんと呼ばれた、どすの利いた声のおっさんだ。頑固な性格だが情深くて優しいひとで、料理なんてしたことがない俺に米の炊き方や包丁の握り方まで教えてくれた。たまにフライパンを振りながらピラフのレシピを伝授してくれる。  塩っからい蟹ピラフはすぐには客に出せるわけもなく、自分で食べて腹におさめた。そして、俺はがむしゃらに働いて教わりつづけた。  家庭教師のバイトも掛け持ちして、慌ただしい生活が徐々に軌道にのっていく。寒空に燦然と星が輝く夜は身が引き締まるような風が吹き、かんかんに凍った道を帰りながら、ハンドルをにぎる。帰れば水道管の水抜きをして課題をやって寝るだけだ。  身も凍るような寒さに、一々水道管の水抜きをしなければいけない煩わしさ。すぐに布団に飛びこみたいが、隣の部屋の奴が破裂事故を起こしてから十分に気をつけるようにした。  たまに裏の公園で走ったり、筋トレをしたりして寒さを凌いだ。食事もまかない付きだから助かった。  だから、一日なんてまたたくまに過ぎてしまう。  早朝に起きて、身支度を整えて通り道である教育学部の裏を抜ける。裏道は薄暗くて、妙ちきりんな彫刻がごろごろと転がり、石や金属で彫られたへんてこな、芸術というものがなにがなんだかわからないものがたくさんあった。俺はまったく理解ができなかった。  夜に通るとなおさらだ。不気味な笑みでこっちをみてくる。こんなもんつくるやつの気がしれない。自分とは縁もゆかりもない奴にきまっている。  そんなことを考えながら裏道を抜けると、正門を構えた講堂が見えた。  大学は理系である獣医学部に農学部、それに工学部と理学部で、文系は俺がいる法学部と教育学部に分かれる。  バースに隔たりなく受験資格があり、ほとんどがベータで占められ、アルファというバースはここでは稀らしい。じろじろと露骨な視線をむける奴もいて、もちろん首にチョーカーを巻く女子もいたが、俺に話しかけてくることなんてゼロにひとしい。夢みていた大学生活も、男ばかりの高校生活となんら変わりない。  それなのに、未来はいつだって予測できない。  まさかこの俺が、あんなやつを気になるなんて考えもしなかった。
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