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第三話
その日は土日明けでへとへとだった。
ラストオーダーと皿洗いで、てんてこ舞いになってしおしおと夜中に帰ってきた。
朝方まで課題を仕上げて、すっかり寝そびれて欠伸が止まらない。それになにも食べていない。パンだけでも食べてくればよかったと後悔しながら裏道を抜けて、講堂に足を運ぶ。
……あまいにおいがする。
一歩、また一歩すすむと、なにやら甘美な匂いが鼻をくすぐった。祖母が庭先で育てていた、桃の甘ったるい芳香が匂う。どうしてか俺を誘うように流れてくる。
講堂の中に入ると、すでに全員が揃って座っていた。視野の片隅がどうしてか気になった。眠すぎて、俺の思考力がおかしくなったのか。
あいつ、うまそうだな。
そう思ってしまった。
人間をうまそうだなって頭が馬鹿になったのかと思い直して、すぐに席に着いて、まえを向いた。年老いた教授を見ればすぐに冷静になる。相手は人間だ。なんてことを考えるんだ。
そう思って、すべてを否定して背筋をまっすぐにのばす。それでも後ろから漂ってくるふんわりとあまい匂いにどうしても胸騒ぎがした。胸の奥がざわざわと波立つ。
落ち着き払った様子で、俺は背筋をのばして授業を受けた。がりがりと板書して、終わるとすぐに立ち上がってうしろを振り返る。
あいつだ。
あいつしかいない。
水平に引いた目が印象的な、ちんまりと座っているあの男だ。
俺と目が合うと、すぐにさっと顔を伏せた。
意味もなくイラッときた。
どこにでもいそうな男なのに。
ひょろっとしたやつなのに。
それでもやっぱりうまそうだと思ってしまった。
なんだ、この禍々しい欲望は……。いや、まて。おかしい。
落ち着け。働き過ぎだ。寝てないせいだ。女ともつき合ったこともないのに、なんてことを思うんだ。自問自答して首を横に振っていると、やつはそそくさとその場を逃げるように立ち去った。
くそ。
逃げたか。
目で追っているうちに奴はいなくなった。
俺はどすんと腰をおろしてため息をつく。
あんなやつにかまっているひまなどない。なにごとにも学業優先だ。奨学金のために優を取らなければならないし、単位も落とせない。それにバイトもある。やることはたくさんあるし、目のまえの生活のことでせいいっぱいだ。
それでもこの火曜日の一般教養のたびに、背中がむずむずする。背筋をなでるような視線がどうしても気になった。
眼中にいれないように、姿勢を正して教科書をめくっても、ちくちくとした視線とかんばしい香りに気が気じゃなかった。
そんな毎日を繰り返しているうちに、俺のなかであいつの存在が妙にむくむくとふくらんでいく。頭の中を占めて、棘が刺さったようにつんつんと刺激してくる。
帰りしなに視線を向けるたびに、びっくりした顔をして、ささっと顔をそらされた。イラッとして、癪に障る。幼いころに兄が飼っていたトゲネズミにどこか似ていて、俺のことを見るとすぐに巣にかくれる奴だったと思い出した。
俺は段々と意地になって、毎週火曜日はトゲネズミを絶対に確認するように決めた。目に入るたびに、こちらも視線を投げる。そして目線を逸らされる。無言の攻防を繰り返し、相手の姿がないと気を揉んで、いるといるでほっとしてしまう自分がいた。
またいた。
今日もまたいる。
先週はいなかった。
よかった、風邪は引いてないようだ。
真面目に板書していて俺よりえらいな。
……あ。いがいと細いな。
うきでた鎖骨が目に入って、ドキッとした。ちゃんと食べているんだろうかと心配になった。
それでも言葉を交わすこともなく、たまに目が合うとビクビクされて、さっと逸らされるのは変わらない。日を重ねるごとに、いらいらともやもやが圧縮されて濃く募る。
いつか声をかけてやろうと意気込んでみたが、すぐに自分の友人たちに囲まれてノートをくれとせがまれて行く手を阻まれる。背の高い男ばかりが集まり、あっというまにあいつの姿が扉のむこうに消えてしまう。
名残惜しい視線を送っていると、あいつのことを見ていた奴がいた。
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