第三話

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 ——オメガらしいぜ。  その言葉にドキッとして体がこわばった。眼前で交わされる言葉のやりとりが頭の中でひびく。  ……うそ。じゃあ、男が好きなの?  ……さあな。  ……でもさ……妊娠、できるんだろ。  体内に子宮を持つ男のオメガはこの片田舎ではかなりめずらしく、噂好きの女たちは訊くまでもなくペラペラと問わず語りにしゃべる。  アルファしかいない進学校にいた俺は、オメガというバース、しかも男と出会うのはあいつが初めてだ。  トゲネズミは教育学部で、芸術文化過程というあのへんてこな彫刻の森にある三号館で絵を描いて、バースがめずらしいのでちょっとした有名人らしい。オメガ専用のぼろいアパートに一人暮らしをしているようで、住んでいる家まで知っている奴がいることに驚いた。 「やめろ。勝手にバースで人を判断するな。オメガとかアルファとかどうでもいい」  そう言って、そいつらを睨んでしまった。それ以上、他の奴の口からトゲネズミの情報を耳にしたくない。俺以外が、あいつを見ているのが許せなかった。俺だけがあいつを知っているわけじゃなかったことに無性に腹が立った。  その日からますます目が離せなくなってしまう。オメガというバースにつけこまれて絡まれていないか、事件に巻き込まれないかと急に不安が高まる。あやしいやつはいないか、へんなやつに襲われないか、周囲に警戒色を強める。が、どれも無駄に終わる。  心配とは裏腹に、あいつのほうが不審者にちかい行動をしていたとはだれも予想できなかったはず。  ぺんぺん草に「おはよう、ナズナくん」なんて言ったり、中庭にシートをだして、定年を迎えた教授とのんびりお茶なんかして外にころがる彫刻なんかを眺めたりしている。  遠くで見守りながら、本人こそがあぶない奴だなと矛盾を感じながらも気に掛ける毎日が続く。  学食ではラーメンと冷奴ばかり食べて、食べ方はゆっくりすぎてひどい。豪快にずるずると啜れないらしく、麵をくるくると箸で巻いて、レンゲに移して、ひと口で啜って食べている。食べるのが遅すぎて見ているだけでいらいらした。  ラーメンは飲みものなんだぞと、後ろで一気に啜ってたべるとびっくりした顔をしていた。その顔がまたかわいかった。  幸いにも危険な人間にも事件にも巻き込まれることはなかった。それでものんびり空を見ながら歩いても、あいつは転びかける。たまに鼻の上に絵の具をつけて授業にやってくるし、場所も間違えてくるときもあるし、俺の勝手で一方的な心配は絶えなかった。  目で追って、話しかけるタイミングを見計らっているうちに、トゲネズミがバイト先に現れるようになった。  コックコートに袖を通し、俺は今日の混み具合を見ようとホールを覗くと、あいつの姿にぎょっとした。  しかもだ。苦戦に苦戦を重ねた初めて自分がつくった蟹ピラフを注文して食べてやがる。恐る恐るキッチンから覗いてみると、おいしそうに頬張って腹に収めている。まんざらでもない顔となにもない皿に悪い気はしない。むしろ口の端に米がついて、とってやりたい気持ちを抑えた。  そして、ガッツポーズをしてほくほく顔の自分がすみっこにいた。  胃袋をつかめればこっちのものだ。  お気に召したのか、トゲネズミは週に一回はやってきて、一皿千五百円の俺がこしらえたピラフを口に運ぶ。いつも四百五十円のラーメンを食べているくせに、どうしてこんな高いものを注文するのかと疑問を覚えるが、目を輝かせて食べている姿はなんだかくすぐったい。  しまいにはけろっとした顔で完食していた笑顔にハートに矢が刺さる。うれしくて、うきうきとうかれて、心が恋に満ちた。  そして、俺はこれが恋なんだとやっとわかった。  
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