938人が本棚に入れています
本棚に追加
第四話
秋、今日こそはと奴に声をかけようと心に誓う。今日こそは、絶対に、さりげなく声をかけるぞと自分に言い聞かせて廊下を歩いた。
外は一段と寒くなり、厳しい寒さが到来している。それなのに俺の体は熱くてしょうがない。
「隣、いいか?」
階段教室の一番上のはしっこ。
トゲネズミがきちんと膝を揃えて座っていた。
教科書を取り出し、柔らかく細い影のような睫毛が見える。けっこうな勇気をだしたのに、第一声は気づいてもらえなかった。
「隣、いいか?」
声調を整えてもう一度がんばってみる。なおかつ、ちょんちょんとなにもない机を叩いた。背水の陣で望んだ声掛けは殺気立つ表情のせいなのか、怒っていると思われたのか、本人は目を大きく見開いて固まっている。
「……あ。いいよ」
「…………」
ビビらせてしまったのかもしれない。そうじゃないんだと自省しながら、強引にどしんと腰をおろす。
「……え」
「なんだ?」
「……う。な、なんでもない」
おどおどとした声に、ほんのりとした香りが漂う。桃の香りだ。やっぱりこいつのにおいだ。俺は香気をすくい取るように嗅いでしまい、そんな自分にはっとして、なんとなしに言葉を探した。
「おまえさ、何学部?」
「……き、教育学部」
「へぇ、俺は法学部」
「……そ、そうなんだ」
会話がそこで終わる。一分も満たなかった。
あれだけ考えたのに秒で終わってしまった。ほかにも話題があるだろうと自分にツッコミをいれてしまう。
学部なんて、とうの昔に知っている。
俺のバイト先に来ていることや、どこに住んでいるかなんてまで知り尽くしている。知り過ぎて気持ち悪いって思われたらどうしようと不安になるほどにだ。
「……よろしくな」
「う、うん……」
なにが、どう考えて、よろしくなんだと自分でも思う。ほら見ろ。見るからに不自然なセリフに、おもいっきり警戒しているじゃないか。トゲネズミはすすっと俺からちょっと離れて、距離を取った。そして必死に板書をしている。距離が二十センチも離れてしまったことが、この上なくかなしくなった。
たしかにこの授業は必修科目で、落とすわけにはいかないのはわかる。わかるけれども、さすがにそれは俺でも落ち込む。
もっと話したいとちらっと表情を盗み見たが、横なんてむいてすらくれない。顎をつかんで顔を寄せてやろうか、唇をのせてやろうか、なんてよこしまなことが授業中に頭にうかぶ。いや、まて。それは完全にやばい奴だなと反省した。
時間が過ぎていくのが名残惜しくなり、このまま終わってしまうと焦った。
聞きたいことを思い巡らせてみるが、なかなかしっくりくるものが出てこない。
どうして後ろにいつもいるんだとか。どういう絵を描いているだとか。将来はなにになりたいのかとか。ピラフがそんなに好きなのかとか。毎日ラーメンと豆腐ばかりだと体にわるいんじゃないのかとか。休日はなにをしているんだとか。
用意していた質問がたくさんありすぎて、どれも選べない。悶々としているとあっという間に授業が終わった。ふと、トゲネズミの顔が赤いことに気づく。
「おまえ、熱でもあるのか?」
「な、ない……!」
最初のコメントを投稿しよう!