第六話

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「……ち、散らかっているでしょ」  そう言いつつ、しまったと小声で呟いて、照れくさそうに足で本をどける姿がいじらしくてかわいいなと思った。 「いや、俺の部屋よりマシだ」 「……こ、今度見てみたい」 「なら、次はうちに来いよ」 「いいの?」  うれしそうな満面の笑みで返されるとことさらうれしい。 「ああ」  ゆっくりとうなずいて、俺はストーブに悴む指先を近づけて温めた。ぐるりと視線を巡らせる。部屋のなかは文庫本と絵に囲まれ、七海の香りが満ちる。  冷蔵庫には作り置きが何品かあって、よく沁みた煮卵なんて俺よりも格別にうまかった。豆腐のみそ汁とハンバーグを一緒につくって、腹いっぱい食べてしまった。あいつはにこにこしながら料理に箸をつけて俺をみつめる。恥ずかしくなってまたおかわりをしてしまって、笑いがこぼれた。  食後のコーヒーも格別においしかった。香ばしいにおいが部屋いっぱいにひろがり、石油ストーブがポンポンと音を鳴らす。  その日からすこしずつ俺のこころは晴れから晴天にかわる。互いの部屋を行き来して、ご飯を作ったり、好きな映画を観たりした。ホラーが苦手なのに怖いもの見たさで借りてきて、俺の服の裾をひっぱる仕種にとくに好きが貯金されていく。  グループ展をしているのを耳に挟んで、こっそりと見に行ったりもした。シンプルな服装で受付をする、びっくりした顔のあいつがいた。手土産に人気だというクッキー缶を手渡すと、子どものような喜々とした表情で受け取ってくれた。  芳名帳に名前と住所を書いて、説明されるままに彫刻やデザイン、写真など一通り巡る。キャプションを眺めながら、長々とした説明を受けた。パラパラとポートフォリオをめくり他の過去作品も目を通す。  真っ赤な顔を手で隠す七海の絵にありつくと、あーとかうーとか声にもならないうめき声の本人に笑いそうになった。それでも美術館なんて足を運んだことがない自分でもわかる。七海の絵は鮮やかな色を混ざり合わせて、強烈に弾けて素晴らしい絵だった。こんなにも穏やかなやつが、こんなにも激しい色彩を描くなんて考えもしなかった。 「すごい」 「は、恥ずかしいよ」 「いや、才能あるんじゃないか」 「そ、それは褒めすぎ……」 「いや、本当に。こういうのって、どんなことを考えて描くんだ?」 「……それは内緒」  真っ赤になってうつむいている。どうやらいつもの企業秘密らしい。ずるい。教えて欲しい。  さりげなくさぐるようにしゃべってみた。 「好きな奴のこととかだろ」 「……ど、どうかな」  返ってきた返答がこれだ。さらりと受け流されて、やっぱりグリズリーの巨体が頭の中にうかんだ。  まさか、好きな奴とか。  いや、そんな奴いるのか。  いつだ。  そんなときあったか。  捩じれた欲望がさらに高まる。  もっとそばにいなければ。離れていかないように繋ぎとめておきたい。もっともっとあいつに触れたい。日増しに欲求が燻べって、完全燃焼できずに膨らんでいく。昨夜の失敗を思い出した。  その晩、七海は俺の部屋を訪れた。  鍋をつつきながら、たわいもない話を交わしてお祝いをした。グリズリーのどこが好きなんだと訊くと、大きくて優しそうなところかな、なんて返される。  背が高くて優しい熊なんているわけないだろうが、という言葉を白滝とともに飲み込む。そうかと笑ってみせるが、内心はしつこいぐらいあの外国製熊はどこのどいつなんだと訊きたくてしょうがなかった。やっぱり男が好きなのか。やっぱり逞しいのがいいのか。やっぱり筋肉なのかと勝手に脳内変換を繰り返していた。  それなのに鍋の具も減って片づけが終わると、七海はすっと立ち上がって帰ろうとした。あいつは俺の部屋には絶対に泊まろうとしない。せっかくの祝いごとなのに、もっとのんびりしていけよと誘うが首を横に振る。  なにかあると困るからと言い残して、静かにアパートを出ていこうとする。なにかあってもいいのに。むしろ、なにかあって欲しい。そんな邪なことを考えつつ、腕を掴んで送るから待ってくれと引き止めた。 「送っていく」 「……え」 「危ないから送らせてくれ」 「…………う、うん。ありがとう」  強引に説得して、弾かれたようにコートを羽織った。  七海のアパートまで歩いて見送って、満天の星がきらめくなか、襟巻を鼻の上まで包む姿が愛しいなと思った。フリースジャケットに両手を突っ込まれると、手をつなぐ口実がなくなってしまう。  手持ち無沙汰な片手をぶらぶらさせながら、どうにか手の甲だけでも触れようしても、タイミングが合わない。  隣にいても、手をつなぐこともできない。キスなんて言語道断。それでもアルファというバースを利用できるなら、誰もよせつけないようにがんじがらめにして七海の隣を独占したい。そんなどろどろとした欲望が疼いているなんて本人は知らない。  俺は親友という立場でありながら、まるで間隙を縫うように、友人の仮面をかぶってさりげなく誰もよせつけないようにした。  あわよくばという下心を胸に潜めて、好機を狙うハイエナみたいな男はくるなと睨んで寄せつけない。俺はグリズリーなんていう熊よりも、もっとかけ離れた猛獣に変わってしまっていた。
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