第三話

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第三話

◇  冬、頭上から低い声が降ってきた。 「隣、いいか?」  階段教室の一番上の端っこ。そこが俺の居場所だ。横を見たが誰もいない。視線を上げると彼が不愛想な顔をして立っていた。 「隣、いいか?」  ちょんちょんとなにもない机を叩いている。 「あ。い、いいよ……」 「ありがとう」  俺はどぎまぎしながら答えた。どすんと腰を下ろし、こちらを向いているグリズリーがいる。 「おまえさ、何学部?」 「……教育学部」 「へぇ、俺は法学部」 「……そうなんだ」  ごめん、知ってた。血液型も好きな食べ物も、好きな本も音楽も全部知っている。知りすぎてごめんなと思った。 「……よろしくな」 「う、うん……」  なにが、どうよろしくなんだろう。わからないまま、俺は緊張してしまう。言葉が浮かばない。こういうときこそ、日頃から思っていたことを口にすればいいのに。  弁護士になるのか。とか、法学部ってどういう勉強をするんだろうとか。気の利いた質問がどうしてか口から出てこない。どうしてここに座るんだろうということで頭がいっぱいになってしまう。そのせいか、その日の授業内容はまったく頭に入らなかった。 「おまえ、熱でもあるのか?」 「な、ない……!」  ひさしぶりに人と話したせいか、いや、初めて慶斗と言葉を交わしたせいだ。顔が茹でダコのように赤くなった。 「あかいぞ」 「そ、そういう体質なんだ」 「どういう体質なんだよ」 「あかくなるやつ」 「ばか」  唇に苦笑いをうかべられ、また赤みが増してしまう。恥ずかしい。  みないで欲しい。これじゃあまるで立場が逆転してる。俺があせって顔を隠すと、慶斗が笑う。  それからだ。毎週、グリズリーが隣に座るようになった。 「おまえ、いい匂いがする」 「……そう?」 「ああ、なんかつけてる?」 「……柔軟剤かな?」 「そうか……」 「そうだよ」  ここでオメガだからかな……。なんて冗談でも言えなかった。さすがに自意識過剰だし、返答に困るだけだ。そんなのチョーカーを巻いているのでみればわかる。 「でもあまいぞ」 「あ、朝にプリンを食べた」 「朝からか?」 「う、うん。……あまいもの好きなんだ」 「そのプリン教えろよ」  ずいっと顔を近づけてくるとこまる。  プリンなんて食べてない。高橋さんのおすそ分けシリーズのパンナコッタだ。  どうしてプリンなんて言葉を口にしてしまったんだろうと反省してしまう。 「や、やだよ。企業秘密だ」 「おまえ、変なやつだな」  慶斗は長い指先でくるくるとシャープペンシルを回しながら苦い顔をして笑った。教授の咳払いがきこえ、前をむいてまたぽつりとつぶやく。 「後ろの席もいいな」  むけられた笑顔にドキドキと胸高鳴る。ちらっとみると、こつんと肘がぶつかって、そこからじんわりとあまい痺れが伝わる。 「うん。意外とよく見えるんだ」  ひとつしか見てなかったけど、とはいえない。絶対にいえない。 「……おまえ、実家暮らし?」 「いや、ひとり暮らしだよ」 「へぇ、同じだな。俺は毎日バイト三昧で、休むひまがない」  精悍な顔立ちの口の端が上に曲がった。  初めて笑った顔を見た気がした。 「ボロいけどオメガ専用だから、アパートの立ち入りに許可証が必要なんだ」 「へぇ、そうなのか」  ちょっと驚いた顔をして、また笑った。  向けられた笑顔がとてもうれしかった。そのあと、コツンと触れる肘とか、ちらっと横目で盗み見てしまうせいで、ドクドクと早鐘のような心臓を抑えるので必死だった。学業に支障がでるほど、トキメキがとまらない。  次第に肩を並べて笑うようになり、飲みに誘われたり、CDを貸し借りしたり、画集をみせたり、友人関係が良好に発展した。慶斗はインディーズバンドにハマっていて、ラビッツというボーカルを推していた。背が小さくて、ぱっちりと大きい瞳をしたかわいい女の子だ。  部屋を見たいと言われて、慶斗は身分証明書を提示して許可証にサインした。ちらっと見えた慶斗の実家の住所は都会のいいところだった。俺と同じような事情でこっちに来たのかなと思ったけど、口には出さず見なかったことにした。人に触れて欲しくないところは誰だってある。  俺と慶斗は互いの部屋へ呼んでご飯を作ったり、映画をみたりした。もちろん抑制剤はしっかり飲んでいたし用心はしている。彼が俺を好きになることなんてないし、このままの関係を続けたいと思っていたので、間違いなんて犯したくなかった。だからこそ一般教養の学科の単位を無事に取り終えたとき、俺たちは親友になっていた。  そんなとき、流れてきた新しい噂にグサッときた。 『……好きな子ができたんだって。相手はオメガらしいよ』  あくまで噂だ。でも耳にしてしまった。  それがだれなのか、すぐにわかった。  慶斗のバイト先であるメヒコの女の子だ。  浮田という名札をつけていて、他の子からうっきーと呼ばれていた新人バイトだと思った。くるんと上手に巻いた茶髪を後ろに一つにまとめ、ピンクのチークがよく似合っていた。スタイルもよくて、明るくて、かわいくて、バースもオメガ。完璧だ。そしてうっきーは慶斗の好きな音楽のボーカルの名前と一緒だった。  ……ああ、やっぱり女の子が好きなのか。  悪いところはなんてない。文句もない。笑顔でメニュー表を渡し、気さくに話しかけてレジ対応をしてくれる。意味もなく、お似合いですといいたくなった。これじゃあ怪しい奴だ。  俺は怖くなった。  悲しい。嫉妬している。  でも応援しなければいけない。こんなの初めてだ。  醜い感情とどんよりと沈んだ気持ちに襲われた。  俺はバイト先にも行くのも、連絡するのもやめた。
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