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煩くて敵わない。
あちこちから聞こえるこのノイズのような騒音は、セミという虫が鳴らしているのだと、以前大人たちに教えてもらった。
こんな大きな音を出すのだから、セミは大層大きな虫に違いない。
「ねぇ、どうしていつも街を見てるの?」
私は屋上の片隅で一人佇む彼女に尋ねた。この人は暇があればいつもこうしている。
彼女は街並みを眺めるのを中断して、肩越しに微笑んだ。その笑みが何を意味するのか、私には理解できなかった。
夏は嫌いだ。
暑いし、汗をかくし、煩いし、肌が焼ける。良いことなんて一つもない。
ここはその不快な要素の全てが揃っている。そんな場所に居続けるこの人は、だからやっぱり変わり者だと思う。
「気持ち良いでしょ?」
彼女はそう言って、再び街を望んだ。
この人と同じようにすれば、少しは不快な気分がマシになるだろうか。私も彼女に倣って、鉄柵に寄り掛かって街を眺めてみる。
さっきまで下では沢山の人が走り回っていたようだけれど、今はもう一人の姿もない。
すぐ手前に建物が立ち並び、そのさらに向こうにも建物は続く。遠くのビルから立ち上る黒煙が、青空の片隅を汚していた。
そんな風景を見ていたところで、この暑さがどうにかなるわけがなかった。
私はうざったく光を放つ天体を睨みつけた。このまま手を伸ばして握り潰せればどれだけ爽快か。そんな無意味な妄想をしてみる。
私はせめてもの抵抗として、手で庇を作った。
透き通るような青い空と、山のように積み上がる白い雲。そして私の横には、袖のない黒いコートを着た、長い黒髪の綺麗な人。
携帯端末で撮影すれば見栄えの良い画になるだろうと思った。
ねっとりとした生暖かい風が、彼女のコートをはためかせた。
「本当に変わるのかな?」
私はさも全てを理解しているかのように、隣の彼女に尋ねた。
「変わるさ」
彼女は即答した。
「どう変わるの?」
大人たちは口を揃えて、国を変えるんだ自由になるんだと言っていた。けれども何をもってそれが達成されるのか、私は実はよく解っていない。
良いかいと言って、彼女は私の背丈に合わせて身を屈ませた。
「みんなが能力を持てば、仲間外れがいなくなるでしょ?」
「うん」
私は頷いた。漠然とだけれど、多分そうなるだろうということは理解できた。
「でもね、それだけじゃダメなんだ」
「ダメ?」
私が尋き返すと、彼女はうんと首肯いた。
「本当に変わらなきゃいけないのは、社会の仕組みなんだよ」
「シャカイって、何?」
単語の意味が解らず、私は首を傾げた。
すると彼女は少し困った顔をして、指を顎に置いた。
「人の集まりとか、人々の関係とか……そういう意味だよ」
「じゃあ、どうしてその……社会の仕組みが変わらなきゃいけないの?」
私がそう尋くと、彼女はなぜかくすりと笑って、前髪をかき上げた。
「あたしたちがやっているのは、あくまでも一時凌ぎ。でも、それによって新しい仕組みが——これから増え続ける特殊障碍に合った仕組みが一度つくられてしまえば、もうあたしたちみたいなのがあんな場所に閉じ込められることがなくなるんだよ」
あんな場所——特殊支援区域のことだ。暗くて、痛くて、いつもお腹が空いていた。もう二度とあんな思いはしたくない。
「特殊障碍者が増えれば、否応なく、特殊障碍者に適した社会になる。障碍者にとっての本当の障害は、身体じゃない。社会なんだ」
そう言って彼女は、また鉄柵に寄りかかり街を眺め始めた。
「変わると良いね」
私も鉄柵を掴んで、街を見るフリをした。本当は、もこもこと形が変わる黒い煙を観察していた。
そうしているうちに、暑いのも煩いのも、いつの間にか気にならなくなっていた。
〈了〉
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