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藍瀬ユゥカは、遥か遠く、夕景に浮かび上がる黒い壁を見つめていた。
どんな衝撃にも、どんな温度にも、どんな環境変化にも耐え抜く、市民を守る安心安全の壁。そういう触れ込みで建造されたものなんだそうだ。
特殊な強化合金で作られたあの壁は、五メートル四方のパーツが、何百万、何千万と、立体パズルのようにぴったりと隙間なく組み合わさってできている。
——忌々しい。
ユゥカは舌打ちをした。意識的に鼻に皺を寄せたから、大層醜い顔だったに違いない。
あの壁はいつからあるのだったか。それらしい年代の数字が頭に浮かぶが、それは着工した年なのか完成した年なのか、はたまた全く関係のないイヴェントの年なのか、勉学が苦手だったユゥカには判らない。
とにかく、ずっと前——ユゥカが生まれるより以前からの景色だから、今となってはあの壁は遠くに見える背景でしかない。
でもこうして意図して視界に収めると、無性に苛々してくる。
その感情に応えるように、風がユゥカの長い黒髪をなびかせた。ふわりと顔にかかる髪を、自然と目が追う。視界は遠景から近景へと切り替わる。
そよぐ繊維の隙間から、つまらない街の景観が見える。
この辺りは厳格な居住環境基準をクリアした高級住宅街だ。だからどの家もことごとく、同じような色、同じような形をしている。
——でもこの辺はまだマシ。
それぞれの住居には、僅かだが辛うじて個性があり、差異があり、変化がある。
ところが養生エリアは深刻だ。全く同じ規格の、全く同じ色と形をした棟が、不気味なほどに規則正しく並んで建っているのだ。
子供の頃、何度かそこに行ったことがある。何もかもが均一化された白一色のそれらの建物は、子供ながらに気持ちの悪さを感じた。
そこは世間一般では養生のための施設だとされている。
養生と言っても、何かの病気を治す施設などではない。実際は、体の良い監禁場所だ。
その施設にいる人々は、生まれて間もなくからそこに収容され、ただそこに住まわされている。娯楽はなく、外出もできない。許されるのは、最低限度の学習と、食事と睡眠、入居者同士の交流、それからごくたまに訪れる縁者との面会だけ。
あの娘も——そこで生活を送っていた。
——ルカ。
「祖月輪……ルカ」
その名を口にした途端、周波数の高い耳障りな電子音が鳴った。
ユゥカは陰鬱な気分で、その音源である左手首の装置に目を遣った。
ヘルスウォッチ。
小さな液晶画面には、現在の時刻と、服用を促すサインが表示されている。
「はぁ……」
つい溜め息が漏れる。
どうしようか逡巡しつつ、ユゥカはジャケットの裏ポケットへ手を伸ばす。
今日の仕事はもう全て終わっている。
——なら。
良いか。
ユゥカはポケットからピルケースを取り出した。薄黄色の錠剤——Aピルを二錠だけ手の平に落とし、口に放った。口腔内崩壊錠が舌の上で溶けて口内に広がる。
それからものの数秒で、電子音が止んだ。
ピルケースをポケットへ突っ込み、ヘルスウォッチに視線を落とす。次の服用推奨時刻が表示されている。
ユゥカはヘルスウォッチを指で弾いた。
これは首輪だ。
この都市の住人のほとんどは、この鬱陶しい機械の装着が義務付けられている。
時間はもちろん、脈拍、血圧、歩数などを計測し、電子マネーの支払いや全方位無線測位システムまである。
多彩な機能が搭載されているが、これの装着を義務付けた人間の本懐は、持ち主の健康を維持することなどではない。本当に管理したい情報は、持ち主の位置と、ウォッチの装着と共に体内に埋め込まれた計測器から送られる、血中に含まれるある物質の濃度だ。それ以外はおまけに過ぎない。
「ん……」
ユゥカは咄嗟に側頭部に手を当てた。
脳を貫く、細く鋭い音。
副作用だ。
Aピルを服むと必ず起こる、不快な耳鳴り。
こんな物を服まなければならないのは甚だ嫌なのだが、仕方のないことだ。
ユゥカは——障碍を抱えているのだ。
ヘルスウォッチの装着と同様に服薬が義務付けられているのは、ユゥカと同じ障碍を持つ人たち。マトモだと分類される人間にはこんな物は必要ない。
障碍と名が付くものの、体の不調などは一つもない。この障碍を持つ者と健常者の違いは、ほんの僅かなものだ。
視聴覚の消失や四肢の欠如などの一般的な障碍を持つ人らを一般障碍者と呼称するのに対し、ユゥカたちの障碍は特殊障碍者と呼ばれる。この呼び方の他に、非特殊障碍者と特殊障碍者とを区別する別の呼称があるのだが、そちらの呼び方は差別的な含みを持つような気がして、ユゥカは使うのを避けている。
特殊障碍者は皆、ある因子を分泌する脳の一部が不全を起こしている。ただ、それだけだ。容姿も思考も行動も、普通の人と何ら変わりはない。
それなのに多くの人間は、病気だ異常だ危険だとレッテルを貼り、特殊障碍者たちをこんな場所——特殊支援区域に閉じ込めた。
区域外で生まれた特殊障碍児はもれなくここへ送られ、逆に特殊障碍者から生まれた健常児は両親から離され区域外へ送られる。そんな制度のせいで、区域内は無保護者児で溢れている。
特殊障碍児の親は申請すれば子供とともに区域内で暮らすこともできるそうだが、そんな選択をする人は三分の一程度だと聞く。
あの遠くの壁は、キケンな人種を外に出さないようにするための、巨大な防壁なのだ。
再び苛立ちが湧き上がり、ユゥカは舌打ちのために舌先を口蓋に触れさせる。
その時、
「藍瀬」
背後から呼ぶ声がした。
「はい」
舌打ちを中断して振り向くと、ノンフレームの眼鏡をかけた神経質そうな男が立っていた。
「仕事が入った」
そう言って男——桜庭哲人は、端末のディスプレイをユゥカに向けた。
「またですか」
ユゥカは呆れを露わにして言った。
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