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「正彦を呼べ」
夫がこんなに真剣に私に命令するのは久しぶりだ。普段の私なら「ハイハイ」と軽く受け流してお茶を濁すところだが、夫の真摯な表情を見ていると、とても言い返せる状況ではないと思える。私は特に口ごたえもせず、夫の指示通りに息子の正彦を呼びに行った。
「お父さん、何の用?」
私と一緒に部屋に入ってきた正彦は、いつものように軽い調子で夫に話しかけた。
「いいから、そこに座れ!」
夫の有無を言わせぬ気迫に気押されたのか、へらへらしていた正彦の顔も一気に真剣な顔つきになった。
「うん」
正彦が夫の前で正座すると、夫は咳払いしたあと、おもむろに話し始めた。
「正彦、お前いつまで職を探し続けるつもりだ?」
「はあ?」
無職の息子はこのところ連日のように面接に行っているが、自分が気に入らないのか、向こうが断っているのか分からないが、どうもうまくいっていないようだ。いまだに職が決まらない。
「選り好みし過ぎてるんじゃないのか?」
「お父さんにはわからないさ。別に選り好みしているわけじゃないけど、なかなか条件に合うところが見つからないんだよ」
「それを選り好みというんだ」
「せっかく就職するんだったら、すぐ辞めたくなるようなところでは働きたくないよ。わかるだろ?」
「ふむ」
夫と正彦の意見のぶつかり合いに私が割って入る余地はない。男と男の真剣な話し合いだ。お互い気持ちを出し切ったほうがよい、と私は思ってる。
「なあ、正彦。あんまり無理しなくてもいいんだぞ」
夫の口調が少し変わった。厳しい詰問口調だったのが、やや労わりが感じられるような柔らかいものに。
「無理なんてしてないよ」
「それならいいんだが」
いつのまにか夫の顔が、息子を心配する親の顔になっていた。
「正彦。人には人それぞれの生き方というものがある。これが正しい、なんてものは何もないんだ」
「何が言いたいの?」
「就職するだけが人生じゃないってことだ」
「僕に就職を諦めろっていうの?」
「そうは言ってない。ただ、身の程をわきまえろ、と言ってるんだ」
「僕に能力がない、って言いたいの?」
「だからそんな風に受け取るな。俺はただお前にはあんまり無理をして欲しくないだけなんだ。働くことにこだわるばかりに、お前が押しつぶされてしまうようなことがあれば、俺は悔やんでも悔やみきれない」
夫の言葉からは哀願の想いが滲み出ていた。
「見くびらないでくれ。僕は簡単につぶれたりはしないよ」
私から見たら頼もしい息子の言葉も、夫には信頼に足る言葉には聴こえなかったようだ。
「なあ、正彦。どうしてそこまで就職にこだわる?」
「僕はこの社会で自分の存在価値を感じていたいんだ。社会の一員として働いていればそれだけで僕の存在意義はあるはず。だから僕はどうしても就職したいんだよ」
「働くことだけが、社会に貢献することじゃない」
夫がピシャリと言い放ったセリフに、正彦は少しばかり怯んだ。
「お父さん……お父さんみたいに無職になれ、って言うの?」
「そうだ」
夫と息子の攻防を緊迫したドラマを見るように眺めていた私は一気に現実に引き戻された。夫も無職、息子も無職。それを私は想像出来るだろうか。それが現実を受け止めるということであったにしろ。
「俺みたいに悠々自適に暮らしたらどうだ?」
「僕は嫌だ。お父さんみたいな生き方は」
「お前にもいずれわかるときがくる。いや、今がその時だ」
「勝手なこと言うな!」
正彦は逆上寸前になった。これはまずい。そろそろ私が口を挟む局面かもしれない。
「正彦。よく聞いて。お父さんの言うようにのんびりした暮らしも悪くないわよ。ほら年金だってもらってるし。75歳になってまで無理して働く必要はないわよ。それに雇ってくれるところだってそう簡単には見つからないだろうし」
「お母さんまで」
「それより正彦、そろそろ免許返納とか考えたほうがいいわよ。この間乗せてもらったとき、随分ヒヤヒヤしたんだから」
正彦は困った顔になった。
(了)
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