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ふりかえると、わたしに背を向けたままCRAVEの上に座るカシアがそこにいた。
「わざわざCRAVEを使って脳に侵入したんだけど、無駄だったみたいだね。痛かっただろうに」
「あの〈提案〉は……」
カシアは少しだけこちらを向き、にやりと微笑んだ。
「ぼくだよ。ぼくと同じように唆されてるのを見て、黙っていられなかった。悔しいけど、ぼくたちは騙されたんだ。まさかあの男がシステムの一部だったなんてね……」
「カシア、ただわたしは——」
「ごめん」カシアは伏し目がちにそういった。
「ぼくはほとんど無理やりログアウトさせられた。ベックになにかメッセージを残せたらよかったのに。せめて手紙が男の罠だってことを伝えられたら……」
気がつけば、わたしはカシアに抱きついていた。
「もういい。もういいんだカシア。またこうして会えた、それだけで十分だよ」
カシアは驚いたようにこちらを見つめている。
「ベック、どうしてそこまでして……」
「わたしはカシアになりたかった」カシアの髪を指で掴み、放す。「ずっと憧れてた。カシアになりたいって切望してた。渇望してたんだ」
「そんなたいそうな人間じゃないよ。欠点だらけさ。ほら、地面をよく見てごらん。一見美麗な草原でも、草の間から電力供給線が見えるだろう。無機物だってこうやって短所を隠してる」
「やっぱりカシアは面白いや。いいなあ、わたしは馬鹿だし想像力もない。いつも思ってたんだけど、カシアはどうしてこんなわたしと友達でいてくれたの」
「ぼくたちは友達じゃない」カシアの右手がわたしの右耳に触れる。「兄弟だよ」
「えっ、どういうこと」
「CRAVEに個体識別番号がのってた。ぼくたちは同じ人工子宮で培養されたんだ」
わたしは正面を見据えるカシアに寄りかかり、ぐいと首を前に出した。
「すごい! じゃあもうひとり兄弟が——」
「うう……」
わたしの重みで曲がったカシアの体から、苦痛の混じる音が漏れた。彼の肩を抱えながら正面に回る。彼の腹部は真っ赤に染まっていた。
「カシア、血が、血が!」
「ばれちゃった。ここに来る途中で誰かに撃たれたんだ。なんとかやりすごしたけど、たぶんもう長くない。とても痛いよ」
「大丈夫に決まってる! そうだ、怪我を治してくれる場所を探そうよ! たしか、そう、病院に行こう!」
「いや、どうやらそんな時間はないみたい」
カシアの目線を追う。一直線であったはずの地平線が、数台の小型有人機によってでこぼこになっている。わたしたち兄弟は、メタ精神空間だけでなく、紛れもない現実で排除されようとしていた。
「逃げよう、カシア。さあ、おぶるから」
カシアはふふ、と笑った。
「ベック、ここでお別れだ。ひとりで逃げてほしい。ぼくはここに残るよ」
なんで、という言葉は飲みこんだ。理由は一目瞭然だったからだ。しかし、理屈なんて関係なかった。なりふりかまわずカシアを抱えようとする。
「馬鹿な弟にはおしおきだ」
耳たぶを思いきりひっぱられ、反射的に手を離してしまう。
「なんで! 一緒に逃げようよ! カシアがいないとだめなんだ!」
細かい振動音が大きくなる。刺客が近づいているというのに、カシアは首を横にふり、冗談めかしていった。
「ベック、きみはきみだ。きみはぼくじゃない。それは素晴らしいことなんだ」
強い風が吹き、カシアの髪が揺れる。同じように草原も揺れる。
緑の波の音。運命の音。カシアの音。
「きみにしかできないことをするんだ。追い風だ、さあ、めいっぱい走れ!」
爪がめり込むほど拳を握り、顎が砕けるほど歯を食いしばり、わたしは走った。ふりかえることさえ不可能な速度で、涙が空中で止まってしまうほどの速度で走った。
もうカシアはいない。〈提案〉もいない。
わたしが頼れるのは、大地いっぱいに響き渡る自然の音だけだった。
緑の波の音。運命の音。わたしの音。
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