グーテンベルク・AI

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グーテンベルク・AI おそらくは冬の河に由来する冷たさなのか。    橋梁の上に立ち、こう、と鳴り響く風を浴びていた。コートの裾がうすら寒くはためく。このように言ったところで俄かには信じてもらえないかもしれないが、私はなぜこうして河川上に立ち尽くしているのか、皆目見当がつかないのだ。  手すりの冷たさに指先の感覚を失いかける。記憶喪失ごっこをしているつもりはない。いや、そんなものしたくはない。こんな寒い場処からは早々に退散し、暖かい自宅(どこかは解らないが)に駆け込み、凍てついた身体を溶かしたいというものだ。だが、解らない。何一つ解らないのだ。  ひとまず私は図書館を目指すことにした。なぜ図書館なのか、と訊かれても困る。図書館ならば暖房が効いていて暖かいという理由は後付けである。卒倒するかのようなこの状況において、図書館、の三文字がなぜか脳裏にひらめいたからだ。  図書館に赴くことは決定したとして、一体どこにあるのか。所在なくコートのポケットに手を突っ込むと、スマートウォッチが無造作に入れられていた。スマートウォッチというものは常に身につけていてこそ真価を発揮する代物だと思っていたが。なにはともあれ、そのGPS機能のおかげで無事図書館へとたどり着くことができた。  実際に着いてみると、私を喜ばせたのは暖かさよりもむしろ膨大な知識の存在であった。数多の文献が十進分類法にのっとり区画され、秩序の下に列挙されている。そして漠然と知識を求めて滞在する地域の住民。私はどこかとほうもない懐かしさを憶え、何気なくOPAC端末の前に腰かけた。  おもむろに操作を始めると、画面右端にすでに知っている文字列が踊っている。 ――Project Gutenberg―― 「なにかお困りですか?」  おそらくはカウンターに戻る途中だった司書が、硬直して数十分は経過したであろう私に親切に声をかけてくれた。 「ああ、プロジェクト・グーテンベルク。著作権切れの本を読める、海外の電子図書館です」  礼を言う余裕もなく、私は震える指でリンクをクリックする。イタリア語。中国語。ラテン語。――ドイツ語――、 「館内での閲覧のみの場合は自由に行えますが、もし印刷をご希望なら、複写申込書にご記入を――」 ――カトリコン。印刷所。スマートウォッチ。42行聖書。GPS。活字印刷機。河。巨大な河――、マイン河――、 「……、お客様!?」 「……まただ」  小さく息をつく。一心不乱にモニタに向かっていたプログラマは、眼鏡を外し大きく伸びをした。 「難航してますねえ、」  マグカップを手に背後を通りかけた同僚が、小さく笑みを浮かべて話しかけてくる。腰を屈めてモニタを覗き込んだ。  膨大な資料や文献をもとに、過去の偉人たちの〝仮想脳〟をネットワーク上に構築するプロジェクト。世界史に登場するようなおおかたの偉人たちの〝脳〟は出揃ったというのに、ヨハネス・グーテンベルクだけがどうしてもうまく行かない。 「いっそ日本語プログラミング言語にしてみるか⁉ と原点回帰してやってみたけどダメだったわ」 「それは思いきりましたね……」  同僚は苦笑を浮かべつつ、モニタの文字列を目で追う。ブラックボックステストのエラーはこれで何度目になるかわからない。 「そもそも俺はグーテンベルクにあんま詳しくないんだよ。要は活版印刷術を発明した人でしょ? そんなの現代人にとっちゃあんま意味なくね?」  このデジタル時代にさぁ、と愚痴るプログラマを一瞥したのち、同僚は背筋を伸ばしてから少し遠くを見た。 「知りたかったんだと思いますよ」  プログラマが無言のまま振りかえってくる。 「確かにヨハネス・グーテンベルクの生涯には謎が多い。活版印刷術自体も、そもそも東洋のほうが先に発明していたのにとひどい言われようだ。啓蒙思想だとか、そんな高尚な思想が本当にあったかどうかもわからない。ただ――、」  換気のためわずかに開けた窓から、風が舞い込んでくる。同僚はそれを浴びて眼を細めた。 「印刷が好きで、魅せられて、もっと知りたくなったんじゃないですかね」  そんなもんかねぇ、と椅子をきしませ独りごちるプログラマを傍らに、同僚は風に身を任せる。知りたい。もっと、見果てぬ先に――、  夏はすぐそこに迫ろうとしていた。 (了)  
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