序章 新月の夜

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 殺戮が始まってからものの一〇数分で、辺りは再び静寂に包まれた。元は六〇人ばかりが住んでいた集落の中で、今や息をしているのは殺戮者の二人だけだ。同じように殺しを続けていた二人だが、六〇のうち五〇近くを斬ったのは、散切り頭の方である。  自然と上がっていた呼吸を整え、総髪の男は懐から出した手ぬぐいで刀を拭うと、鞘に収める。所作にはどこか気品があった。  男は闇の中、視線を走らせる。一軒先の道をふらりと歩く散切り頭の影が見えて、後を追ってそちらへと向かった。  先を歩いていた散切り頭は、不意にあるところでしゃがみ込んだ。地面の上の何かを見ている。  彼のその無防備な背を目にし、後を追っていた総髪の男は、はっとして足を止めた。  「好機だ」と感じたのだ。  高鳴りだした鼓動を抑え、息を殺す。総髪の男の身に張り詰めだした緊張感は、今しがた、集落の住民を斬っていた時にはなかったものだ。  収めたばかりの刀の柄に手をやる。物音をたてぬように忍び足で、散切り頭の背後へとにじり寄った。  もう一歩踏みこめば、居合で目の前の背を袈裟斬りにできる――と確信するその時。 「哀れよな」  しゃがみ込んだままの散切り頭が言う。  気づかれていたかと、総髪の男は全身に緊張を漲らせたまま、動きを止める。  「何が」と問う、その唇は薄い。すっと抜ける鼻梁に、柳眉。地味だが整った面は、いわゆる塩顔と呼ばれる類の顔立ちである。 「見てみろよ(ふじ)。この女。子をしっかりと腕に抱いたまま死んでいる。死してなお手放そうとしない」  藤と呼ばれた総髪の男は、言われるままにそちらを見た。手は刀の柄にかけたままだ。  散切り頭がしゃがみ込んだその先には、地面の土にまみれて倒れている女と、その腕の中の、赤子とも呼べる程の幼き男児がいた。咄嗟に身を挺して、子を庇おうとしたのだろうと推察できる態勢だ。彼女は背中を丸めているが、彼女の体ごと男児も同時に斬られている。二人の体から溢れ出した血は、散切り頭の足元にまで広がっている。  その鮮やかかつ大胆な斬口は、散切り頭がやったものに違いない。そもそも、藤にはこの親子を斬った記憶はないのだから、犯人は彼以外に存在しない。 「お前がやったのだろう」  にべもなく言い捨てながら、藤は彼らの死体から、無意識の内に視線をそらした。 「ああ。こんなか弱き女と、年端も行かぬ子を殺すこともなかろうに」  散切り頭の男が続けた言葉。  藤はぎゅっと眉根を寄せて、怪訝そうな表情を浮かべた。この男は、自分の手で今しがた人を殺めておいて、その者に哀れだと言っているのだ。不可解にも程がある。 「かわいそうに……」  散切り頭は、今度は誰に聞かせる様子でもなく呟く。彼はかたわらに落ちていた羽織を拾いあげ、目の前の母子の亡骸へ、頭を隠すようにしてかけてやった。  その声、その所作、その態度からは、彼が本当に母子の死を悼んでいる様子が伝わってくる。毒気を抜かれ、藤はついにゆっくりと、刀の柄から手を離した。 「そう思うなら、どうして殺した」 「頼まれたから」  問いかけると、散切り頭の返答は、迷う様子もなくなされた。   どうしようもない答えを聞き、藤は思わず天に助けを求めるように、空を仰ぐ。  ――嗚呼。  月のない夜空には、さやかな星だけが(またた)いている。息を吸い込めば、むせ返るような血の匂いに混ざって、近くの潮の香りが届く。そのまま大きく呼吸をして、しばらく。
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