第10話 イオスの夢想

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第10話 イオスの夢想

 ダニエラとイオスは、カールの家に来ていた。  アンナはキッチンに、ダニエラはその対面のテーブルに、カールとイオスは少し離れた窓際の椅子に腰を降ろしている。  ダニエラはチラリと男達の方を見た。何やらカールがイオスに生徒の成績表などを見せている様だ。青田買い、とでもいうのだろうか。所属が決まるのは卒業してからの事だが、こうして事前にチェックして、必要な人材を自分の配下に入れるように根回しするんだそうだ。いかにもイオスらしい。  カールはイオスの質問を受けて、その生徒はああだこうだと楽しげに話している。カールの声は大きくて聞き取りやすいが、イオスの声はあまり聞こえて来ない。  そちらに集中していると、目の前にカプレーゼが置かれた。 「あ、ありがとうございます」 「騙しちゃったお詫びよ」 「いえ、そんな」 「今日はゆっくりして行ってね。二人が離婚しなかったお祝いをするわ」 「あの、その、ありがとうございます」  ダニエラが恐縮すると、アンナは女性らしく微笑んだ。 「お腹の子、大事にしてあげてね。出産まで何があるか分からないものだけど、無理はしないで」 「あ、はい」 「何て、偉そうなことを言えないんだけど。私は出産前、子供の命よりカールの命を優先しちゃったことがあるから」 「そうなんですか?」 「カールにこっぴどく怒られちゃったわ。男だって、生まれる前の命を大切にしてくれる。好きな人との子ならなおのこと、ね」  好きな人。  好かれている、ということは分かった。しかし信じるとは決めたものの、今一決定打がない。一体彼はいつ、好きになってくれたというのだろう。  パクリ、と目の前のカプレーゼを頬張る。口の中に広がる甘みと旨み。良いチーズを使ってそうだ。 「おい、アンナ。こっちにも何かくれ」 「出来てるわよ」  カールが取りに来ると同時に、アンナはカプレーゼを渡した。カールはそれを受け取る前に、ダニエラの背中をドンと叩く。味わっていたチーズが、勝手に喉を通り越した。 「おい、良かったな! ダニエラ!」 「げふっ。ありがとうございます、教官のお陰です」 「学生の頃からイオスイオスっつってたもんなぁ。子供まで出来ると思うと、感慨深いぜ。十五の時から、ずっとイオス一筋だろ?」 「え? いえ、違いますよ。イオス様だけなのは確かですけど、あの頃は憧れだけで恋愛感情はありませんでしたから。好きになったのは、付き人になってからです」 「んあ? そうなのか? じゃあ惚れたのはイオスの方が先だったってわけか」  カールの言葉に、ダニエラは目をこれ以上開かないくらいに丸める。 「……え?」 「『え?』って、知らねぇのかよ。イオスはなぁ……」  ニヤニヤするカールに、アンナは「ちょっと、カール!」と窘めている。しかしカールに気にした様子は見られない。 「聞こえる距離にいんだから、言われるのが嫌だったら止めに来んだろ?」  と、わざと大きな声でイオスを横目に言った。ダニエラはイオスを確認したが、彼は手に持っている成績表から目を離さず、何も反応しなかった。構わずカールは続ける。 「お前、卒業前に俺んとこ相談しに来ただろ? イオスの付き人になりたいってよ」 「はい」 「俺はイオスに、一度お前と会ってくれるように頼んだんだ。そしてイオスが学校に来た」 「え? 私、学生時分にイオス様とお会いなんてしてませんよ?」  カールはプッと吹き出すように笑った。 「そりゃそーだ! イオスは遠目からお前を見ただけで、即採用したんだもんよ! 一目惚れだ、ヒトメボレ!」  ヒトメボレ、とボソリと呟く。にわかには信じられない話だ。あのイオスが、平凡な顔立ちの女に一目惚れなどと。 「本当、ですか……?」  恐る恐る尋ねてみると、イオスは手に持っていた成績表をパサリと置いて、ダニエラに向き直った。 「本当だ。好きになったのは、私が先だった」  ヒュウ、と囃し立てる口笛が鳴った。確認するまでもなく、カールだ。 「ど、どうして言って下さらなかったんですか……」 「言う必要はないと思ったからだ」 「ないわけないじゃないですか!」  信じられない、と思わず言葉に出してしまう。イオスの表情が少し曇った。 「私が好きだったなら、どうして付き合い始めた当初、あんなに冷たかったんですか?!」 「すまないな。ダニエラの気持ちが本物かどうか、試していた。付き合いが長くなってからでは辛いのでな」  そう言えばアリルが、イオスはダニエラを試しているのではないかと言っていた事があった。しかしまさか、そんな早い段階で試されていたとは。 「じゃあ、私を利用して結婚したって言うのは嘘だったんですか?!」 「利用したのは本当だ。私はもっと、ちゃんと愛を育んでから結婚したかった」 「私が三年で離婚するって言ったら、ホッとしてたじゃないですか!」 「失脚せずに済むと思えば安堵もする。それに僅か三年でも、ダニエラと夫婦でいられると思うと嬉しかった」 「そ、そ、そ…………」  あまりの怒りに言葉が出てこない。この悩み抜いた三年間をどうしてくれよう。 「そ?」 「そんな大事なこと、何で早く言ってくれないんですかっ! 愛されていないと思っていたこの三年分の補償責任を、どうとるつもりです!」  物凄い剣幕でいきり立つダニエラに向かって、イオスは前進し始める。 「出来ることは何でもしよう。全て、ダニエラの望む通りに」  そしてダニエラの前まで来ると、イオスは優しい笑みを見せた。反則だ、こんな時の彼の笑顔は。怒りが収まってしまうではないか。 「じゃあ、結婚式を挙げて下さい」 「わかった」 「必要ないって、言わないで下さい」 「わかった」 「大家族でも住める家を建てて下さい」 「わかった」 「プロポーズをして下さい」  そう言うとイオスはその場に跪き、ダニエラの手を取る。とても、スムーズな行動。 「我が愛するダニエラ殿。どうか私と結婚し、その生涯を私と共に歩んでいただけますか」  さらりと出てきたイオスの言葉に、ダニエラは訝しみの眼差しを送った。 「イオス様……何か、言い慣れてません?」  するとイオスは顔だけ上げると、いつもの悪どい笑みを浮かべる。 「私もダニエラに負けず劣らず夢想家だ。このセリフをダニエラに言うことを、出会った日からずっと夢見ていた」 「……っ、イオス様!」  その悪どい笑みが好き過ぎて死んでしまいそうだ。胸がキュンキュンと悲鳴を上げ、ダニエラは跪くイオスに、覆いかぶさるようにして抱きついた。 「もう二度と、『自由にしてあげる』なんて言ってあげませんよ!」 「ああ、それでいい」  イオスはダニエラの細腰を抱き、己の唇を落とした。  柔らかで温かな感触がダニエラの全身を駆け巡る。  これこそが彼女の求めていた、心の通ったキスだ。  愛されている事を、実感できるキス。 「結婚、してあげます。生涯を共に、生きます」 「……ありがとう、ダニエラ」  再び交わしたキスの後ろで、ヒュウという口笛と、おめでとうという言葉が聞こえた。   ***  澄み渡った青空の下で、ダニエラは三人分の影を見つめる。 「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう」  見上げると、白い影法師が映し出されていた。 「見えました? イオス様」 「ああ、ちゃんとこの子も映っていた」  イオスは我が子を抱き上げ、優しい笑みを妻と子に向ける。そんなイオスを見てダニエラは微笑んだ。 「ご飯にしましょう。そこのアルバンの街で買ったケバブですけど。とっても美味しいんですよ」 「そうか、頂こう」  気持ちのいい風が吹き抜る。ダニエラは今、いつかの夢想よりも遙かに素晴らしい光景が繰り広げられていることに、深い喜びを感じた。 「帰りは遅くなってしまいそうだな。アルバンの街に泊まって行こう」 「そうですね。それがいいと思います」 「……っふ」 「ふふっ」  二人の幸せな笑い声は、風に乗ってどこまでもどこまでも続いた。 fin.
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