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16 満ち潮 引き潮
「なに」
熱が去ってもなお、彼の体温は自分よりも低い。ひんやりと冷たい皮膚の感触に、陽向は我知らず安堵の息を漏らす。
「触れる、と思って。あんたには」
そのまま彼の手首をそっと握ると、彼は困惑したように目を瞬いてから、手にした器を手近な台に置き、その手で手にしたままの杓子を持ち替え器に戻す。
「闇人はみんな、あんたと同じなの?」
問いに彼は思案するように目を伏せてから、さあ、と答えた。
「わからない。悪鬼と呼ばれる者に会ったのもこれが初めてだから。おそらく里の皆もそうだろう。だからこうして触れあうことが可能なのが僕だけのことなのか、それとも里の全員がそうなのか確かめるすべはない。さすがに君を里の皆に会わせるわけにはいかないし。ただ」
ゆっくりと目を開け、こちらを見た楓は静かな声で続けた。
「言い伝えられてはいる。君らが満ち潮ならば、僕らは引き潮のようなものだと」
「なに、それ」
首を捻ると、彼はすうっと手を上げて自身の手首に巻きついたままの陽向の手を解き立ち上がる。そのまま室内の一角、壁際にある引き戸を開け、中から一冊の本を取り出した。
「海」
ぱらりと本をめくり、とある箇所を開いた彼が本を陽向の膝に広げて置く。
それは写真だった。濃淡二つの青がくっきりと一つの線を境に分かたれたその写真の中、群青に染まった部分を指さし、彼は淡々と説明を始めた。
「これが海。途方もない量の水が一か所に集まった場所。海は太陽、そして月の力によって絶えず押したり引いたりをしている。それを潮の満ち引き、という」
「見たことある。本、集めている人から同じようなの見せてもらった」
「君たちも海を知ってはいるんだね」
感心したような声にむっとして陽向は顔をしかめた。
「馬鹿にするな。見たことはないけど知ってはいる。地上人との関わりは俺たちにだってあるんだ。むやみに交流することは禁じられてはいるけど」
「結構。君たち一族が静かに暮らしていてくれてなによりだ」
あっさりと言い、ぱたん、と彼は本を閉じた。元通り書棚に本を戻す彼に、陽向は、なあ、と呼びかけた。
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