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21 声
彼は答えない。こいつ、と頭に血が上りかけたとき、ふいに彼が捕らわれていない側の手を伸ばした。冷たい指先に頬を包まれ、頭に上がっていた血が一気に下がった。
「悪鬼は些細なことをいつまでも気にする種族なんだね」
悪鬼。
自分達を呼びならわすその名に陽向は口をへの字に曲げた。
「悪鬼って呼ばれたくないって言ったはずだ」
彼は目を細めてこちらを見つめてから、すっと陽向の耳に唇を寄せた。そして。
「陽向」
涼し気な声が名前を呼んだ。ただ名前を呼ばれただけだった。なのにどうしようもなく胸の奥がぎゅっと締め付けられ、陽向は動揺した。
これはなんだろう。
感じたことのない胸の痛み。傷の痛みじゃない。もっと奥が熱を持って疼く。
耳の傍、感じる彼の息遣いに頭の芯が熱くなる。
その陽向の耳元で彼がふいに囁いた。
「明日、僕はここに来られない」
「は、え?」
思わぬ言葉に目を白黒させた陽向の顔から顔を遠ざけ、彼は軽い仕草で陽向の手を解いた。だがそこで食い入るように見つめてくる陽向の視線に気づいたのか、彼は面倒くさそうに首を振った。
「君がどうとかそういうことで来られないと言ったわけじゃない。僕の役目のために来られない、と言っただけ」
「あんたの、役目……?」
ここで見張ることが彼の役割というのは嘘だったのだろうか。それにしても陽向のことを天敵と言い、見張っているとまで言っておきながら目を離していいものだろうか。
だがそこで陽向は自分自身に吹き出しそうになった。
やはり自分はどうかしている。長年、穢れだと、憎むべき仇と教えられてきた闇人側の心配をするなど、と。
「逃げ出すなら確かに明日は絶好の機会だろうけれど、やめた方がいいと思うよ」
陽向の表情を読み違えたらしい楓がつまらなそうに忠告してくる。
「君は自分の里がある方角もわからない。明かりもない。骨も折れている。逃げ出しても野垂れ死にするのがおちだ」
「そうだろうな」
まったくその通り過ぎて返す言葉もない。いやそれ以前に。
元通り本を引き寄せて広げる彼の横顔を眺めながら陽向はやはり混乱していた。
彼が不在と聞いて最初に浮かんだ感情が、逃げ出せる、と沸き立つ思いではなかった自分に。
「役目ってなに?」
そろそろと問うが彼は答えない。それもそうだろうな、と妙に冷めた気持ちで陽向はのろのろと横たわる。
なんといっても自分は虜囚なのだから、なんでもかんでも答えてくれるわけがない。
実際彼は問いに答えてくれることはなく、三度の食事を運び、それ以外の時間は読書をして過ごし、懐に入れた懐中時計を取り出してその針が9を指したころ、小屋を出て行った。
明日もここに来そうなくらいあっさり、じゃあね、と言って。
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