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36 毒
「触るな!」
悲鳴のような声で彼が制止した。とっさに手を止めた陽向の前で彼は袖を手荒に下ろし傷口を隠しながら怒鳴った。
「毒だ。触ったら死ぬ。だから触れるな」
「毒って……」
言いかけたとき、もそり、と楓の傍らで大蛇がうごめいた。ふっと楓が首を巡らせる。その一瞬を狙うように大蛇が最後の力を振り絞って動いた。巨大な口で彼の体をかみ砕こうとするのが陽向にははっきり見えた。
なにも考えられなかった。楓の体を力の限り突き飛ばし、大蛇に向かって突進していた。
手に大蛇のざらりとした鱗の感触を感じた直後。
ぱん、と破裂音が響いた。
続いて降って来たのは、赤い雨。
生臭いその雨を浴びながら陽向は見た。
ばらばらに千切れ飛んだ蛇の姿を。そして、必死な顔でこちらに駆け寄ってくる楓の姿を。だが、陽向が彼の傍へ走り寄ることは叶わなかった。
「こいつ、悪鬼だ!」
甲高い声で誰かが叫ぶのが聞こえた。
「見たぞ! 今、確かに殺した。触っただけで大繩がばらばらになったんだ!」
「悪鬼?! なんでこんなところに……」
「見てみろ、あの髪の色……。まるで鬼のようだ」
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」
声が渦を巻きながら取り囲む。見回すと、手に手に刀やら鍬やらを手にした男たちが陽向を取り囲んでいた。
黒い髪と黒い瞳が燃え盛る憎悪に赤黒く染まって見えた。
悪鬼。
唾を飛ばし、怒鳴る彼らがそろって言い立てる言葉を飲み込み、陽向はその場へへたりこむ。
ああ、そうだった。
渦巻く憎しみの声を耳に収めながら陽向はどこか冷めた思いを噛みしめた。
忘れていた。
楓があまりにも優しく微笑みかけてくれるから。あまりにも優しく触れてくれるから。
自分が悪鬼と呼ばれる存在であることを、自分は忘れてしまっていた。
大蛇を一瞬で粉々にできるほどの力を持っているくせにその危険さを忘れているなんて。本当に自分は罪深い。
陽向を取り囲む彼らの興奮は収まらない。緊張に耐え兼ねたように男の一人が陽向に向かい、手にした鍬を振り下ろそうとする。
その引きつった表情を呆然と見上げるしかできないでいる陽向の耳に、そのとき声が刺さった。
「やめろ」
凍った声が周囲に満ち満ちていた憎悪の空気をきりりと切り裂いた。
陽向を遠巻きに取り囲んでいた男たちの輪が破れる。その輪から滑り出してきたのは楓だった。
「お前たちは触ってはいけない。大繩と同じになるよ」
感情のない声が言う。光の一つもない谷底を思わせる彼の瞳を陽向はただ見上げた。
黒い衣をするりとさばきながら近づいてきた彼は、陽向の近くまで歩み寄るとおもむろに袖を上げた。白い肌に滴る赤が陽向の目を射た。
細い手が陽向の頬に触れる。だがその触れ方はいつもの優しい触れ方ではなかった。
乱暴な手が顎を掴む。声を発する間もなくぐい、と口が開けられた。
赤い血でまだらにそまった指先が陽向の口の上にかざされた。
…………毒だ。触ったら死ぬ。だから触れるな。
毒、と彼は自らの腕から流れる血のことを指してそう言ったはずだ。
触れたら死ぬ、と。
それをなぜ彼は自分に与えようというのだろう。
そこまで考えてふっと陽向は目を閉じた。
殺せ、殺せ、殺せ。
繰り返される憎しみの声が耳の中で渦を巻いた。
考えてみれば、当たり前のことだった。自分は彼らからしたら悪鬼と呼ばれる存在。力ない人を殺し回ったとされる凶暴な種族。
しかも今もこの里の場所を探し回り、討ち滅ぼそうとしているとされる種族の一人。
そして、彼はこの里の長。
彼自身が陽向を憎んでなんていないことはわかる。けれど彼の立場で陽向を助けることはできない。
仕方ない、ことなのだ。
脳裏に浮かぶのはあの少女の顔だ。遊ぼう、と笑って手を差し伸べたあの。
ばらばらに弾け飛んだ彼女から流れ出した血の記憶が陽向の網膜を赤く染める。
くすんだ赤色に沈んだ世界で、白い顔を呪われた色に染めて、彼が陽向の前に立っている。
その彼の、冷たく凍った顔を見上げ、陽向は微笑んだ。
いいよ。それであなたが救われるなら。
それで、いい。
赤い雫が陽向の口の中に落ちる。熱く甘い味を舌が感じると同時に、目の前がぼやけた。崩れ落ちた自分を抱き止めた細い肩の感触が、陽向が最後に感じたものだった。
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