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49 毒の影
赤い髪の兵に飛びかかった男の体が粉々に砕け散り、地面を深紅に染めた。
悲鳴が悲鳴を呼ぶ。逃げ出す者、怒りに燃えて猛然と向かっていく者。混乱の中、次々と聞こえる破裂音。悲鳴を残し、砕け散る人。人。
……陽向は思っていた。皆、四百年も前のことをいつまでも恨みになど思うはずがないと。過去はどうであれ、その恨みが子孫にまで受け継がれることなどないと。
けれどそれは間違いだった。どれだけ時間が経とうと与えられた側はその痛みを憎しみを忘れない。
ここに押しかけた炎の兵は皆、戦いに慣れてなどいない、人を殺したこともない人ばかりのはずだった。陽向の町は平和で戦いとは無縁だったのだから。なのに、今、戦いを知らぬはずの彼らは憎悪と興奮に顔を染め、自分達に向かってくる者をその力で葬り始めている。いや、それだけではない。抵抗を示さない人間にさえ血に濡れた手を伸ばす。
血に刻まれた憎しみが彼らを突き動かしていた。
そして逃げ切れないと悟った里人もまた、必死に抵抗しようと兵に向かって武器を振り上げる。彼らにあるのは恐怖。死にたくないと叫ぶ心の声が闇雲に兵に向かうその顔にはくっきりと浮かび上がっていた。
やめろ、と声を上げた。里人に飛びかかろうとする兵を引き止めようと手をかける。だが、歪んだ熱気にあぶられた兵は制止を聞きはしない。あっという間に混乱の渦は広がり、人がまた倒れる。
その人と人の隙間、陽向は見た。
おぼつかない足取りで集会所から出て来る、榊の姿を。
彼女は広場で繰り広げられている光景を見据え、しばし佇んだ後、手を上げた。包帯に覆われた手が仮面にかかり、ゆっくりと仮面は外される。
その下から現れた顔に、彼女にも襲いかかろうとしていた赤い髪の一団が後ずさる。焼けただれ、めくれ上がった皮膚で覆われた顔の中、激しい光を宿した二つの眼球が広場に舞い踊る炎の影を映して禍々しく光っていた。
「悪鬼よ! 今すぐ立ち去りなさい! この里でこれ以上勝手をするならば、私の身の内に巣食った毒があなたたちを殺すでしょう」
低く、しかししっかりとしたその声に、喧騒が途切れる。彼女は腐り落ちそうなその唇を満足げにゆがめると、しゅるり、と手に巻いた包帯を解いた。赤く染まった皮膚から血が滑り、ぽたり、と地面に落ちた。
やめろ、と叫ぶ声。それは楓のものだったのだろうか。
一滴。二滴。零れ落ち、地面に染み込んだ血が黒く変色し、じりじりと面積を広げるのを陽向は見た。さながら影のように広がったそれに恐怖に濡れた声が上がる。
「下がれ! 下がれ!」
口々に叫び、慌てたように和装の人々が退去する。異変に気づき、赤い髪の兵たちも後退しようとしたが、広場の半分をあっと言う間にその黒い染みは嘗め尽くし、そして。
染みに触れた者たちが絶叫した。
地面に蹲っていた染みが足元から這い上がり、あっという間に彼らの体を覆いつくす。影が本体を食らうように赤い色彩が黒い影に覆いかぶさられ飲み込まれる。黒く染め上がられた人々が引きはがそうと身もだえるが影は散らない。
「痛い! 痛いーーーー!!!!」
「熱い! 溶ける! 溶ける!」
「いやだああああ! 助けて…………!!」
「おかあ、さん…………!」
口々に叫ぶ彼らを仲間が必死に助けようとする。だがそうすることで影は手を差し伸べた者へも牙を剥く。悲鳴が悲鳴を呼び、飲み込まれた者がもだえ苦しみながら一人、また一人、地面に崩れ落ちていく。ぷすぷすとかすかな煙を上げ倒れ込んだ彼らから、じりり、と影が剥がれ落ちた。
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