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50 なにもかも間違いだった
影が手を引いたその後に残ったのは、全身がどす黒く染まった、すでにこと切れた死体。
「化け、もの…………」
「化け物!!」
「悪魔……!」
恐怖と嫌悪、憎悪に彩られた声が充満する。その中で榊は崩れた顔でかすかに微笑んだようだった。だがそれは刹那で、ふいに彼女の表情が止まった。
彼女の下に広がっていた影が一斉に彼女の体を埋め尽くした。白い包帯も、赤くただれた皮膚も何もかもが黒い影の中へ沈み、消えていく。
「榊さん…………!」
叫んだ陽向の目前、ひらり、と黒い衣が翻った。今も影に浸食される広場を駆け抜け、楓が走る。崩れ落ちようとする榊の元へ駆け寄った楓は彼女の体を抱き止めて叫んだ。
「今すぐ、毒を消します。大丈……」
だが、そう言う途中で楓は言葉を途切れさせた。彼の目がすうっと見開かれ、次いで固く閉ざされる。細い肩が耐え兼ねたように震えた。
楓、と名を呼ぼうとした。だがそれより早く、ふっと楓が伏せていた顔を上げる。
黒く美しく澄んだ目を、消せない憎しみの炎に焦がし、彼はこちらを見た。
きらきらと輝くその目はまっすぐに陽向を突き刺していた。
「ああ。本当になにもかも間違いだった」
榊の体を抱えたまま、彼は囁く。薄い唇が自嘲気味に震えながら歪んだ。
「苦しいのなら自分で命を終わらせればよかった。そうしていればこんなことにならなかったのに。悪鬼の手を借りようなんてどうして、どうして思ってしまったのか。僕は……馬鹿だ」
「楓!」
楓は陽向の声を振り切るように視線をもぎ離し、榊をそうっと地面に横たえる。ゆらりと立ち上がった彼に詰めかけた赤い髪の兵がどよめく。
「鬼はすべてここで滅びるべきですよね」
誰に言うでもないような低い呟きが落ちる。不穏な気配にぴりりと張りつめる空気の中、周囲を見回した楓は、ゆったりと笑んだ。
「知っていますか? 空気中には微量ながら毒素が含まれていることを。それは今の濃度であればなんら人体に影響はない。でもそれを凝縮させたらどうなっちゃうんでしょうね」
ねえ、と笑って彼はふわりと黒い袖に包まれた腕を広げた。
ぐん、と空気が重みを増す。唐突に襲いかかってきた息苦しさに喉を押さえた陽向の肩がぐい、と引かれた。
「下がれ! 陽向くん!」
必死の顔でそう叫んだのは、如月だった。
「きさらぎ、さ」
「いいから! 早く下がって!」
言葉と共に力の限り腕が引かれる。数歩、後ずさるや否や、陽向が先ほどまで佇んでいた場所近くにいた兵が倒れ込んだ。苦しそうに咳き込み、地面をのたうち回るその姿を陽向は唖然として見下ろした。
ばたばたと人が倒れていく。激しい咳交じりの呼吸音。地面に体を押しつけ、転がりもだえる人々の影。あっという間に立っている人間の方が少なくなったその広場の中、彼だけが笑っていた。大きく目を見開いて、笑って。
笑って。けれど。
はらり、と頬に雫が落ちた。
笑みを口元に刻みながら、瞳からは絶えず涙を流し、まるで壊れてしまったかのように彼は佇んでいた。
一歩、彼の方へと歩み寄ろうとする。その陽向の腕を如月が引く。抗う陽向の視界の中、楓がすうっと懐に手を入れるのが見えた。
取り出したのは懐剣。
白い指がするり、と黒光りした鞘を抜き払い、地面に投げ捨てた。大蛇を倒したときのように腕に押し当てるのかと思われた刃を彼は静かに持ち上げ、喉にあてがう。
彼のその手の動きで陽向は彼がなにをしようとしているのか悟った。
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