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8 天敵
「触るな!」
目の前を過ったのは赤い記憶。頬を濡らした生温かい血の感触。毒々しい深紅に沈む少女の切れ切れとなった肢体。
あの光景をもう一度見るなんて絶対に嫌だ。
だが、激しい動作が災いしたのか、拒絶の余韻が消える前に陽向はその場に崩れ落ちた。四肢を引き裂くほどの痛みが全身を貫き、ぐらりと身が傾ぐ。
しかし、崩れ落ちるばかりと思った体は落下せずとどまった。横合いから伸びた腕によって柔らかく支えられたために。
「急に起きない方がいい。あちこち骨が折れているようだから」
冷たい水を思わせる声に陽向は瞠目する。その陽向を間近く見据え、彼は首を傾げた。
「どうした?」
「なんで、あんた、ばらばらにならな、い?」
彼はしばらく無言でこちらを見つめた後、陽向を元通り横たえてからぽつりと言った。
「本当に悪鬼だったんだ。君は」
その瞬間、陽向は息を飲んだ。彼のほの赤い唇にささやかな笑みが刻まれていた。
「まさか本当に会えるなんて思わなかった」
「あ、んたは…………闇、人?」
そろそろと問うと彼は黒い瞳を見開いてから、唇を綻ばせたまま頷いた。
「君たちの呼び方で言うならそう。僕は君たちの」
すうっと黒い目が眇められる。楽し気な色をその白皙に浮かべ、彼は囁いた。
「天敵だよ」
「天敵……」
彼の言葉を繰り返す陽向を、彼は口角を上げたまま眺めている。殺気の一つも感じられない彼に狼狽しながら陽向はそろそろと口を開いた。
「俺たちより強い力があるから、あんたは、ばらばらに、ならない、ってこと?」
問いに彼はゆらり、と首を振った。
「強さの程はわからない。普通に戦ったら君たちの方が強いんじゃないのかな」
「でも、四百年前の地下投獄はあんたたちが」
「地下投獄」
陽向の言葉を遮り、相変わらずの余分な色のない声で彼は囁いた。
「君たちは、僕たちを憎んでいるんだね」
問いに陽向は押し黙った。
確かに、自分たち炎の一族は闇人のことを忌み嫌い、その名を口にするだけで穢れると信じてやまない。なんといっても彼らは自分達と同じように普通の人間が持ちえない力を持ちながら、自分達をそれこそ悪鬼のように扱い、暗く閉ざされた地下世界へと押し込めた張本人なのだから。
陽向とて、彼らに思うところがないわけではない。彼らの行動がなければ自分は地下で生を受けることもなく、あの少女、人でありながら、炎の里に紛れ込んでしまった彼女とも接することはなかった。そうであれば、彼女が死ぬこともまた、なかったはず。
だとすれば自分にとっても闇人は憎むべき存在だ。目の前のこの彼のことだって。
「憎い、のかもしれない。あんたたちが俺たちを追い立てなければ、俺たちはこんなところにいない。俺も、人を殺すこともなかった」
「殺したの。人を」
すうっと彼が黒い瞳を再び眇める。その彼の表情に、陽向はかっとなり跳ね起きた。
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