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9 深淵の瞳
「殺したくて殺したんじゃない! 俺は、知らなくて……触るだけであんなことになるなんて。あんな」
言いかけて猛烈な吐き気を覚え、とっさに口元を押さえる。が、胃の中にそれほど食べ物が入っていなかったためか上がってきたのは胃液だけだ。喉を焼く苦い痛みにたまらず呻いた陽向の目前に、つと手ぬぐいが差し出された。
「落ち着いて」
涼し気な声が冷静に命じる。落ち着き払ったさまに腹立たしさを感じながらも、吐き気は押さえきれず、差し出された布をひったくるようにして口元に当てる。
布からは清しい香りがした。
嗅いだことのない柔らかい香り。これはなんだろう、と思っている間に、香りに鎮められるように吐き気も、燃え上がっていた怒りの炎もするすると消えていく。
数秒後、すっかり落ち着いた自身の状態に驚きながら彼を見返すと、彼はわずかに瞳を和ませた。
「悪鬼というのはたけだけしく、言葉も通じない野蛮な連中だったはずだけれど、君は違うようでよかった」
「その悪鬼を、あんたはどうして助けたの」
問いに彼が目を見開く。まっすぐな眼差しに急に恥ずかしさを覚え、陽向は顔を逸らした。視線を避け、彼からの言葉を待つ。だが、いくら待っても返事は返ってこない。そろそろと顔を戻した陽向は目を見張った。
彼はまだこちらを見据えていた。陽向が観念して顔を戻すだろうことも見通していたかのように。
真っ黒く、どんな色も通さない深淵を思わせる瞳でありながら、どこまでも深く続く闇の層の向こうを思わず透かし見たく思ってしまう、そんな不思議な瞳に射抜かれ、浮かぶはずの感情も言葉もすべて溶けていく。
見つめ合ったのはどれくらいだろう。ゆっくりと彼が瞬いた。金縛りが解けるように、陽向も細く呼吸する。
「多分、すぐには動けないと思う。右腕、それに肋骨も数本折れている」
陽向の問いには答えずそう言った彼の目には、先ほどのような力はなく静けさだけが宿っていた。呆然とその彼の目を見返すしかできないでいる陽向に彼は淡々と言葉を継いだ。
「ここは僕らの里のはずれ。めったに人はこない。だから」
言いながら、ゆっくりと彼は腰を上げた。
「しばらくここで養生して。動けるようになったら帰ればいい」
すうっと背中が向けられる。すたすたと部屋を横切り、石造りの扉を開けて外へ出ていこうとする彼に向かって陽向はとっさに怒鳴った。
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