第5話 飛ぶ鳥跡を濁す

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第5話 飛ぶ鳥跡を濁す

六ヶ月が、何事もなく過ぎた。  否、何事もなく、とは正確ではない。ただ起きていることを、書面で流すように見るようになっただけのことだ。  執務室での日々に、さしたる変化はない。毎日来る書類と報告に目を通し、判を押す。夜が来れば簡易シャワーで汗と熱を流し、椅子に座ったまま俯いて眠る。  仕事に没頭するのは、頭の中に渦巻く感情から、少しでも目を背けるため。だから彼女に関する資料は、特に表面的に読むだけになっていた。  訓練は順調。任務決行の日に変更は無く、一週間後に迫っている。何もかもが、予定通りに進んでいる。  なるべく、何も考えないようにしていた。少しでも思慮を巡らせれば、頭の中が茹ってしまう。ただ無為に過ごす。限界に近付くこの身体の痛みから、自分を裏切った現実から目を背けながら、ただ淡々と、粛々と。  それでいい。最初からそうすればよかった。元よりこの世界に、期待をするべきではなった。そんなものは、あの炎熱地獄の中で焼き尽くしておくべきだったのだ。  夜。雑務を終え、シャワーを浴びようと上着を脱いだ時、懐に入れていた小瓶が床に落ちる。 「……あぁ、昨日で全部飲んでしまったのか」  ストックは自室にある。今更、とも思ったが、臓腑の痛みが走れば、眠ることもままならない。久々に扉を開ける。迷子にでもなるかと思ったが、半年足らずの引きこもりでは、記憶が錆び付くことはなく、何を考えるでもなく、自室の前まで辿り着いた。  およそ半年ぶりに扉を開く。当然と言えば当然だが、中はあの日のままだ。  散らかった部屋。壊れた家具や小物。足の踏み場もない。  せめて入り口辺りは片づけるか、と、明かりを点け、散らばっているゴミを手に取って、 「……?」  見覚えのない封筒を見つけた。扉の下の隙間から挿し入れられたようだった。訝し気な目は、苦し気に歪む。 『九条朱鷺様へ        和泉燕』  捨ててしまえ。自分を偽った者の言葉など、上っ面の誠意と謝罪で塗り固められているに決まっている。今までだってそうだったじゃないか。  頭の中で私が囁く。部屋を出る私の手は、封筒を持ったままだ。  執務室に戻り、鍵を掛け、机の上の明かりを点ける。封を開けようとして、手が震えていることに気付く。  恐れている? 何を?  思考を振り払い、中身を取り出す。それは、数枚からなる紙束だった。彼女の、直筆の手紙だった。 『拝啓、九条朱鷺様  貴女がこの手紙を読む時、私はもう飛行機に乗り、敵陣の只中への突撃を終えている頃でしょう。』  まずその文言に、呆れた溜息が出た。これは遺書のつもりだったらしい。予め書き留めるのはともかくとして、それを死ぬ前にバレるような場所に仕込む奴があるか。 『これは、謝罪と、弁明と、言い訳の手紙です。貴女を失望させた愚かな女の、私の、今日にいたるまでの事情、心情を、貴女に告げていなかったもの全てを書き連ねたものです。もしそんなものは知りたくもない、とお思いであれば、どうかこの先を読まず、そのまま焚書していただいて構いません。それでも許されるのであれば、私の浅ましい言い訳を、どうか聞いて欲しいです。  私は、佐渡のとある小さな町に生まれました。生まれに特殊な経緯はありません。なんの面白みもない、ただの一般家庭の女でした。人と違う点と言えば、男性を愛することが出来なかったということと、親の代から受け継いだ、その身に流れる血液型くらいです。両親はそんな私を愛してくれました。孫の顔を見せられないかもしれない、と告白しても、お前がいるならそれでいい、と言ってくれました。ただそれだけの人生のはずでした。特別山も谷もなく、ただ片田舎の町で、何も成すことなく、お婆ちゃんになって死んでいくだけの人生を送るはずの、しがない女でした。  そんな私の運命を最初に変えたのは、一つの病でした。十五歳の時、私の身体に、大きな腫瘍が見つかったのです。難しい話は分かりませんでしたが、まだ明確な治療法が分からず、病巣が癒着しているため切り取ることも出来ず、かといってただ摘出するだけでは、機能不全で寿命を縮めるだけだと、お医者様は言いました。治すには年の近い人から、健康な臓器を移植するしかありませんでしたが、希少な血液型のせいで病院のストックは使えず、また臓器自体の重要性から、生きている人から分けてもらうことも出来ない、と。  余命六年を宣告され、私はただ泣きました。絶望し、何かも分からぬものを呪いました。何故私がこんな目に遭わなくてはいけないのか。人並みの愛を持てない人間に、人並みの命は勿体ない、とでもいうのか、と。  そうして無気力に涙を流す日々が続いたある日。お医者様から、とある女性のことを教えて貰いました。私と同じ病に罹り、同じく余命を宣告された身で、英雄と呼ばれている女性のことを』  手紙の中で書かれているお医者様の顔が、自分の記憶にある顔で再現された。和泉二等兵と私は、故郷が同じだった。のみならず、同じ病院で同じ医者に掛かっていたのか……!  あり得ぬ話ではない。同じ地で同じ病に罹る者がいたなら、一度診た経験のある医者の所に連れられるのは自然なことだ。だが、病状は彼女の方が深刻だった。 『どうか、お医者様のことを悪く思わないでください。私の様子が、よほど見るに堪えないものだったのです。私が少ない命を生きる理由になるのであればと、医者としての守秘義務を無視して教えてくださったのです。  事実、それは私にとって一つの希望になりました。  日々体内から響く痛みに耐えながら、それでもなお、自分以外の人を守ることに命を捧げている、不死鳥の英雄。少ない余命を燃やし尽くすように生きる孤高の貴女に。病魔に冒された身で空高くを駆けた貴女に、私は心から憧れたのです』  そこまで読んで、ようやく私は、彼女の勘違いに気付いた。医者の語り方が悪かったのか、彼女に望みを与えるための方便だったのか、彼女は私が病に冒されたのが、不死鳥と呼ばれるより以前なのだと思い込んでいた。 『その日から、私は軍に入ることを目標にしました。男の人に並び立てるだけの身体能力は望むべくもないけれど、その分勉強を頑張りました。貴女のようになりたいと思い、飛行機の操縦技術を、知識を徹底して学びました。両親は、そんな私を応援してくれました。少ない命を、存分に自分の為に使って欲しい、と。それに多分、入隊できるなんて思ってもいなかったのでしょう』  だが、出来てしまった。戦況の悪化と政府の焦りから始まった節操のない安物買いの籠の中に、彼女は入ってしまった。そして、この基地へと……。 「……まて」  それではおかしい。彼女は、私に会うためにわざとこの基地に配属されたわけじゃないのか? 『湾岸基地の噂は聞いていました。戦士として未熟で、成長の見込みが無いような人間を使うための場所である、と。そこへ配属が決まった時は、多少は残念に思いました。飛行機に乗れる機会は、ずっと少ないだろうと思ったからです。そして内心で溜息をつきながら、初日の決起朝礼のために集合したら。  そこには貴女がいました。  偶然でした。予想外でした。全くの想定外でした。当時、私の心の中では、貴女は今も飛行機に乗り、前線を率いている英雄だったのですから。こんなところで会えるなんて、本当に、想像もしていなかったのです。  貴女に近づきたかったのです。少しでも、貴女の英雄譚を知りたかったのです。私と同じ病であることも、同郷であることも、一杯一杯、早く話したくて仕方がなかったのです。だからつい浮かれてしまって、貴女のことをちゃんと考えもせずに、近づこうと躍起になってしまっていました。改めて、あの時の無礼を、心からお詫びします。そして、そんな私を許してくれたことを、本当に、嬉しく思っています。  あの日、ともすれば余命を宣告された時以上に、悲しくて、悲しくて、ずっと泣いていました。どうすれば許して貰えるか。どうやってあの人にお詫びをすればいいのか。  けれど、貴女は呆れたように笑いながら、私の無礼を、それ以降も近づくことを許してくれました。その時の気持ちは、今も心に刻み込まれています。  ごめんなさい、一目見た時に恋に落ちた、というのは嘘です。  九条上官への憧れは、あの日、あの夜に、恋心に変わっていたのです。  告白するつもりはありませんでした。貴女はその気はない、と言っていましたから。なにより、隣に座ることを許してくれた貴女に……他人の事情を押し付けられることに辟易としていた貴女に、それ以上を望む贅沢は、決して許されないと、そう思ったのです。貴女の心も考慮せず、自分のことしか考えていなかった私に、そんな権利はないと。  私が貴女に隠していたことは、これが全てです。こんな逃げるような告白でごめんなさい。  それと最後に、もう一つ。  お医者様から貴女のお話を聞いた時、病巣のことも、血液型のことも伺いました。上官の病に冒されている箇所は、私の身体では健康体です。そして、私の血液型は、貴女と同じです。基地の医療班に頼んで、該当箇所を摘出、保存してもらいました。どうせ飛んだ先で堕ちる身体です。臓器が減って寿命が縮むことくらい、へっちゃらです。  だからお願いです。どうか私のそれを、貴女の身体に使ってください。  私が貴女に渡せる、唯一の、精一杯のお詫びです。どうか、どうか、お願いです。  私のことが嫌いでも、そんな女を身体の中に入れたくない、と思ったとしても。  ここまで読んでくださった、心優しい貴女に、私は、生きていて欲しいのです。私の心を救ってくれた不死鳥の英雄様。どうか、どうか、どうか』  手紙を閉じ、机に置く。 「……馬鹿だ」  一人呟く。言葉は私の思いを更に掻き立てる。 「……私は、馬鹿だ……!」  本当に、なんという大馬鹿者だろう。自分のことしか考えていない? それは私もそうではないか。彼女の事情も、言葉も、私から聞こうとしたことが何度あった? ただ騙された、と被害者ぶるばかりで、彼女の話を聞こうとすらしなかった! 彼女はこんなにも、こんなにも、私を純粋に思ってくれていたというのに。  自分で自分を嘲笑う。彼女の心の機微を読み取ることも、あの潤んだ瞳の奥にあった感情の飛沫を、察することも出来ないとは。 「……っ」  そのまま口を衝こうとした言葉を、寸前で飲み込む。それは、今ここで言うべきことではない。そんなことをする前に、やるべきことがある。携帯を取り出し、久しく入力していなかった番号を押す。  時計は零時を回っていたが、相手はすぐに出た。 「……お久しぶりです、先生。和泉燕、という子に会いました。……いえ、先生が謝る事ではありません。それより、彼女について、訊きたいことが……」
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