2. 杏色

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2. 杏色

差し出された男の手のひらに指先を乗せると、大きな手がゆっくりと包みこんでくる。そのつながった手に引かれて立ち上がると、通勤通学の人混みの横を通っていく。 大人の男二人が朝から手をつないで歩いているとあって不躾に視線をぶつけられる。二人の関係を探るような好奇の目にあからさまに不愉快に眉を顰める顔。目の端に映るそれらの数々に居た堪れなくなって背中を丸めて気配を消すも、男はそんなの気にも留めずにピンと伸ばして堂々と前に進んでいった。 この男は一体どこに向かっているんだろう。自分の足元を見つめているとふと疑問に思ったが、周りの目がある中で男に尋ねる勇気はなくて黙って後ろをついていった。 すると、男は駅のすぐ近くにあるマンションに入っていく。玄関で靴を脱いだところでおそるおそる顔を上げると、廊下を抜けた先にあるのはチラシの写真で見たようなおしゃれなリビング。目の前に広がるその光景に思わず足が止まった。 もしかして、リビングだけでオレが住んでいるアパートの部屋と同じ大きさなんじゃないか。これでまだ他にも部屋があるんだよなあ。なんというか住んでいる世界が違いすぎる。そう思った途端、オレが触れると汚れてしまう気がした。 「はい、ここに座って」 全身が緊張して硬直していると、朗らかな笑みを浮かべた男に誘導されてダイニングテーブルのそばに置かれた椅子の一つに腰かける。男はそんなオレの頭を撫でると、ダイニングテーブルに隣接しているキッチンへと向かった。 「そういえば、朝ご飯はもう食べた?」 その背中を追うように目をやれば、手を洗いながらカウンター越しに尋ねてくる。 「食べてない」 聞かれて初めて腹の空きを感じ始めた。とはいえ、さっきまではこれから寝る予定だったし家にそもそも食べられるものが残っているか。いや、なかった気がする。 「朝は食べる人? あまり食べない人?」 「食べないというか、いつも朝近くに寝て昼過ぎに起きるから」 「そういうことね。僕もたまにそういう日あるよ」 男は棚から皿を出したり冷蔵庫を開けて中を確認したりしながらオレに話しかけてくる。ただそれだけなのに瞬きを惜しむほどずっと見てしまう。 「僕は朝食べると眠たくなっちゃうからヨーグルトとかだけど大丈夫?」 「別に大丈夫? というか、今は眠気の方が勝ってる」 「じゃあ、食べたら僕のベッドで寝なよ」 「そうさせてもらう」 男と言葉を重ねるにつれてちょっとずつ気が緩んでいき、緊張が解けていったのもあって背もたれに身体を預ける。ほのかに残る気怠さも手伝って机の下で足を伸ばすと、男が用意する朝食を待った。 男は楽しそうにニコニコしながら冷蔵庫から大型のカップに入ったヨーグルトを取り出す。何も入っていないただの白いヨーグルトなのに、綺麗なガラスの器に盛りつけられるだけで一層特別なものに見えた。 「ブルーベリーは好き?」 「フルーツはなんでも好き」 「じゃあ、いっぱいかけないとね」 聞かれるままに答えれば、男はヨーグルトにブルーベリージャムをかける。ふんだんに乗せられた紫色のジャムは光沢があり、見た目だけでも十分なほど美味しいのが伝わってくる。 「そうだ!」 男がトレーに二人分のヨーグルトと水を乗せてこちらに持ってこようとしていると突然、目を真ん丸に開いて声を発する。いきなりの発言に内心驚けば、男はまた後ろを向いて冷蔵庫を開けた。 「フルーツ好きならいちごも食べる?」 振り返った途端、目に入ってきたのは大きな箱に入った高級そうないちごたち。白から赤へとグラデーションをつくるように並べられた大粒のいちごに釘付けになった。 「いちご! ……でも、いいの?」 フルーツの中でもいちごは特に好きだ。安くなってきた頃を見計らっては買い、一粒ずつ大切に食べるのを毎年楽しみにしている。 でも、あんな高そうないちごをオレが食べてもいいのだろうか。見たときは思わず好奇心丸出しになってしまったが、すぐに抑えこんで尋ねてみる。すると、男はうんうんと大きく頷いて肯定してくれた。 「美味しいいちごを取り寄せたんだ。だから、よかったら一緒に食べよ?」 「……本当にいいの?」 「これ、美味しいから食べてほしいんだ」 「それじゃあ、……うん」 「いっぱい食べようね」 男の言葉の端々からオレを気遣ってくれているのが伝わってくる。込み上げてくる気恥ずかしさはくすぐったくて小さく口角を上げると、男は白い皿にどんどん洗ったいちごを入れていく。 テレビでは見たことあるけど、本当に真っ白ないちごってあるんだ。水滴をつけたいちごは宝石のようにキラキラしていて、高級ないちごはこんなに綺麗なんだと子どもみたいに心を躍らせてしまう。 「はい、どうぞ」 そんな元気な声とともにテーブルの真ん中には山盛りになったいちごが置かれ、目の前にはヨーグルトと水が用意される。 「いただきます」 「い、いただきます」 準備を整えると男は向かいの席に座り、両手を合わせて挨拶をする。そんなの、小学校の給食でしかしたことがない。真似してやってみたけど、なんかぎこちない。 それに、今はどうしてもいちごに目が行ってしまう。ちゃんと食べていいか聞いたし、いいんだよね? 男の顔を窺いながらも手を伸ばすと、ヘタを取ってかじりつく。 口に入れた瞬間、じわりと果汁が広がる。噛めば噛むほど口いっぱいに瑞々しい甘さが溢れ出し、柔らかい果肉はすぐになくなってしまう。砂糖なんていらないくらい甘い。こんないちごがあるんだ。 「美味しい?」 男はヨーグルトにもいちごにも手をつけず、満足したように笑ってオレを見つめる。その問いに反射的に大きく頷いてしまったが、今は恥じらいよりも初めて出会った感動が何倍にも勝った。 「そういえば、名前聞いてなかったね」 いちごに夢中になっていると、ふと男がそう言う。確かに、と男と会ってからの短い記憶を思い出して納得すると、口の中にあるいちごを飲みこんだ。 「福原愛琉」 「愛琉ね。僕の名前は八千代薫だよ。薫って呼んで」 客には愛琉から取ってラブと名乗っている。なのに、薫には当たり前のように本名を言ってしまった。……まあ、薫なら変には使わないだろうしいいか。 もう、オレを下の名前で呼ぶのなんて大家のおばあちゃんしかいないし。そのせいか、薫から呼ばれた名前もなんだか自分の名前ではないようでしっくりとこないけど。 「こんな絵を描いてるよ」 薫がそばに置いていたタブレット端末を操作する。そういや、絵を描いてるって言ってたっけ。一旦、胸のざわつきについて考えるのを止めれば、こちらに画面が向けられる。 「なんというか、風景とか建物が多いんだな」 「そうだね。人物より背景の方が描いてるかも」 森の奥深くにぽつんと佇む赤い屋根の隠れ家、西洋のどこかにありそうな石造りの城。暖炉の火が灯った雪の日の図書室、毒々しい色の液体が入った試験官が並ぶ実験室。次から次へと表示されていく絵はどれも、その場所の温度や匂いまで伝わってくる。 「なのに、オレを買ったんだ」 背景が多いなら、わざわざオレを買わなくてもいいだろ。 「だってピンと来たから」 「なんだそれ」 「愛琉を描きたくなった!」 その感覚はよくわかんないけど、絵を描いているとそんなことを思うのだろうか。尋ねたいことはいっぱいあるが、薫があまりに元気よく言うものだからこれ以上の言葉は飲みこんだ。 ……それに、胸の辺りがやけにむずむずする。 「これからよろしくね」 これ以上薫の言葉を真正面に受け止めていたら、気をつけていても自意識過剰になってしまいそうだ。
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