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8. 青鈍
薫の腕を強く抱きしめながら近くにあった喫茶店に入っていく。店内は昼近くというのもあってほどよく人がおり、うるさくない程度に話し声が満ちていた。
いつもだったら、やっと休憩できると安堵していただろう。だけど今のオレは一歩歩くたびに緊張が増していき、店内の空気とは裏腹に戦々恐々としながら案内する店員の後をついていった。
薫に勧められるままに壁側に座れば、元父親と女性が向かいに座る。でもオレはこの状況をこれ以上認識すると口から心臓が飛び出してしまいそうで、必死に店員から出された水を飲んでは机を見つめた。ただ、この席だけが異様に静かなのだけはバクバクと激しい心音の隙間からわかった。
「愛琉」
四人の間に重苦しい沈黙が流れる中、口火を切ったのは薫だった。
薫は机の下で指を交えて手をつなぎながらオレの方に顔を向ける。それが肌で伝わってきたからおそるおそる顔を上げて薫を見てみれば、まっすぐオレだけを見つめる薫の瞳に出会った。
「僕はいた方がいい? それともいない方がいい?」
言葉を紡ぎながらも絡めた指に力を込め、勇気を分けてくれる。いつもと変わらない優しい微笑みに、やっとまともに息を吐き出せた気がした。
多分、今から元父親が話そうとしているのはオレがずっと薫に隠していたことだ。薫とこれからも一緒にいたいなら、いつかは話さないといけない。それはわかっているけど、今は知られる心の準備が何もできていない。できることならずっと、薫には隠していたかった。
「……聞かれたくない」
さっきも水を飲んだはずなのに口の中は乾き切っていた。だけど、なんとか喉から振り絞った声を出して答えを伝える。
やっぱりまだ、薫には知られたくない。それに伝えるときが来たのなら、せめてちゃんと自分の口で伝えたい。
「じゃあ、近くの席で待ってるね。何かあったら遠慮せずにすぐ声をかけるんだよ」
どこか心配を滲ませた穏やかな口調でそう言うと、オレの頭を撫でる。本当はそばにいてほしい。だけど、決めたからには黙って薫の言葉に頷いた。
「僕はいつだって愛琉の味方だからね」
縋るように薫の目を見つめれば、大丈夫と何度も言いながらゆっくりと手を解いていく。完全に離れたところでちょうど通りかかった店員に声をかけると、薫は元父親とともに女性と数個離れたボックス席に案内されていった。
どんどん離れていく薫の背中を眺めていると、薫が座ると同時に振り返ってオレに手を振る。その頼もしい笑みに固唾を呑みこんで頷くと、太ももの上に拳を握って元父親に改めて向き合った。
「ひ、久しぶりだね?」
「うう、う、うん」
元父親と顔を合わせた途端、それを待っていたかのように元父親の方から話しかけてくる。本当はもっと平然とした態度で接しようと思っていたのに、たった二音の返事さえも詰まって不格好になってしまった。
心臓が痛いほど胸に打ちつけられ、気を緩んでしまうと目から涙が出そうになるから必死に下唇を噛みしめる。前にいる元父親に気づかれないように密かに深呼吸を繰り返すと、小刻みに震えながらも手を握りつづけた。
「最後に会ったのは小学生の頃だっけ。もうすっかり大人だね」
「……今年で、二十歳になります」
「もう二十歳なんだね。俺も老けるわけだ」
ふざけたようにそう言うと、ハハハと明るい声で笑う。だけど、その笑顔が無視してつくっているのは一目瞭然で、自分のせいだと思うと余計に胸が痛んだ。なんて言えばいいのか思考を巡らせて黙っていると、元父親の方から息を吸うような音が聞こえてきた。
「こんなこと、信じてもらえないと思うけど……、ずっと行方を探してたんだ。だけど、全然見つからなくて、だから愛琉が生きててくれて本当によかった」
息の音が終わったと思えば、さっきまでとは打って変わって真顔になった元父親が落ち着いた口調で告げる。
別に、元父親の言葉だからといって信じないわけではない。ただ、オレなんて探さなくてもよかったのにとは思う。子どものときの記憶でしかないが、仕事で忙しそうにしていたのにわざわざオレなんかに労力を割く必要が感じられない。
それにあの女の不倫がバレ、オレが血のつながっていない子どもだと判明したとき。元父親の母親、オレから見れば元祖母に「二度と顔を見せるな」と蔑む目で見下されたとき、自分はいてはいけない人間なんだと自覚した。
それ以来、自分は生まれてはいけない人間なんだと早く死にたくてしょうがなかった。だから、まさかこの人から生きていることを安心されるとは思ってなかった。
「今日はKouのグッズが出るっていうので買いに来たんだ。今の嫁が好きで」
ああ、とちらりと目線を外し、薫の向かいに座る女性を見てみる。あの女とは正反対の家庭的な雰囲気のある、ほんわかとした素朴な女性。女性の話題を出した途端、花が咲いたように顔を綻ばせる。
あの女と別れたとき、元父親は呆然としていて絶望に満ちていた。だから今、世間一般的な幸福を享受しているのを知れて安堵している。だけどそれと同時に、その幸せからかけ離れたオレなんかに気づかないでほしかった。
「Kouのイラストを見たとき、すぐに愛琉だってわかったよ」
元父親から与えられる言葉の一つひとつが居た堪れなさを強調してきて、だんだんと顔を上げられなくしていく。この胸の内にある不愉快な感情は何なのだろうか。ただ、この人にぶつけてはいけないのだけはわかっている。
「……オレのことなんて、忘れればよかったのに」
気づくと、声に出していた。
こんなこと、この人にだけは絶対に言っちゃいけない。頭ではわかっているし、抑えようとしているのに一度噴き出してしまったものは止まらない。やっぱり、この人に会っちゃダメだったんだ。
「オレとあんたは赤の他人なんだよ」
この人はあの女の不誠実な行為によって人生を壊された被害者で、オレはこの人にとって加害者でしかない。だから、この人がオレなんかを気にする必要はないし、この人の人生にオレなんて存在しない方がいい。
傷つけてしまいそうな言葉を溢れては、奥歯を噛みしめてギリギリと音を鳴らす。泣きたくないのに両目からはぼたぼたと大粒の涙が零れ、ズボンと手を濡らしていく。
「他人なのは、わかってるよ」
荒れた息を整えようと大きく息を吸っては吐き出す。すると、そんなオレを慰めるような優しい声をかけられた。それは記憶の中の、まだ父親だと思っていたときのものと同じで、とっさに下唇に歯を突き立てた。
「だけど、愛琉が産まれたとき。嬉しくて嬉しくて泣いたんだ。まだ目も開いてない愛琉を抱きながら何があってもこの子を守ろうって、この子の拠り所になれるように大切に育てていこうって決めたんだ」
どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。オレなんて最底辺の人間で、本当はこうして陽の下にいていいような身分じゃないのに。罵倒された方がずっと合っている。
「血はつながっていなくても一時は俺の子どもだったんだ。今でも大切に思ってるよ」
そんな言葉、オレにはもったいなさすぎる。お願いだから、これ以上そんな言葉を言わないでくれ。
「……お、オレは、金のためにショタコンのジジイやババアに売られたし、今までも身体を売ってきて生活してきた。そんな人間のこと、大切なんて言わないでほしい」
懇願するように言葉を絞り出すと、大きな音を立てて鼻を啜る。もう顔はびちょびちょで、力任せに拭いた袖もだいぶ色を変えてしまった。
こんなオレのことなんて、早く見捨ててほしい。オレはずっと醜くて、汚いんだ。大事になんてしないでほしい。オレは軽蔑され、泥水を啜るように生きていた方がいい。
「もう、会いたくない。あんたには新しい家族がいるんだから、オレのことはさっさと忘れてくれ」
なんとか言葉を綴ると、勢いに任せて立ち上がる。ここにいたら、次はどんな言葉を言ってしまうかわからない。……本当は、この人のことを傷つけたくない。
「さよなら、……ごめんなさい」
立ち上がって元父親に向かって深く頭を下げると、まっすぐ薫の元へと歩いていく。
「帰る」
「うん、わかったよ」
ぶっきらぼうにそう告げれば、薫は何も言わずに手をつないでくれる。それが今はすごくありがたい。会計を済ませると、後ろを見ずに喫茶店を出て行った。
「愛琉はもっと泣いていいし、もっとワガママを言っていいんだよ」
薫は元父親との会話は何も聞いてこず、ただぽつりとそう呟くだけだった。
――やっぱり、幸せが怖い。オレが幸せになんてなっちゃダメなんだ。
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