9. 月白

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9. 月白

掛け布団から目まで出すと、ぼんやりと開いたカーテンを眺める。今日も全然寝れなかった。込み上げてくるままに大きく口を開けて欠伸をすると、ベランダに留まる小鳥の鳴き声に耳を傾けた。 起きないといけない。それは、わかっているんだけど……。今、目が覚めたばかりだというのに朝日に照らされているだけで気分が沈んでいき、全身が石のように重くなっていくのを感じる。 今日はやっぱりダメかも。そう思うとまた落ちこんで枕に顔を擦りつけると、パタパタとスリッパを履いた足音が近づいてくる。その瞬間、布団を頭の先まですっぽりと被ると身体を小さく丸めた。 「あいるー、起きてる?」 寝室の扉が開いたと思えば、そんな声が聞こえてくる。だけど、声を出すほどの元気がない。だから返事代わりにちょこんと頭を出せば、薫がベッドに乗ってすぐそばに近づいてくる。 「今日はどうかな?」 ここ数日、第一声はこれだ。お決まりになっているからすぐに布団を被ったまま頭を左右に振れば、オレの頭に大きく手のひらが乗せられる。 「そっかあ。じゃあ、ちゃんと休まないとね」 オレのそっけない答えに合わない、優しすぎるほどの声で呟くと、薫が布団越しで頭を撫でてくる。こうなってから毎朝されているが、そのたびに泣きたくなって両足を抱えると下唇を噛みしめた。 なんでこんなにオレに優しくしてくれるんだろう。わからない、わからない。 「じゃあ、気が向いたら顔を洗いなね。冷蔵庫の中に野菜ジュースやゼリーがあるから、いつでも食べていいからね」 オレを甘やかすその言葉になんとか頷くと、布団から出た頭にキスされた。 「僕は仕事部屋にいるね」 そう言うと薫の手が頭を撫で、オレの存在を確かめるように身体の線を撫でる。パタパタと足音が鳴ると、扉が閉まると同時に朝の静寂が寝室を包んだ。その瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出し、じわじわとシーツを濡らしていく。 もうずっと泣いてばかりだ。泣きたくない、こんな思いしたくない。大きく息を吸いこみ、掛け布団を抱きしめると苦しくなっていく。せめて薫には聞かれないようにと奥歯を噛みしめると、何も見たくなくて固く目を閉じた。 ……薄々覚悟はしていたけど、元父親に会ったあの日から前のように生活できなくなった。 憂鬱とした気分に支配されて布団の中から出ることができない。天井を見つめている間に一日が終わってしまい、起きているとずっと陰鬱な思考に囚われて何もかもが嫌になる。 自分は幸せになっちゃいけないのに、すっかり人並みの幸福を甘受してしまっていた。本当は存在しちゃいけないのに、明日も生きたいと思ってしまっていた。あの人には死ぬまで謝らないといけないのに、ぶつけてはいけない感情を言ってしまった。 薫と会う前もちょくちょくこんなことはあった。それでも以前は稼がないと生きていけないから踏ん張って起き上がり、普段通りに動けた。だけど、薫に甘やかされて数ヵ月。すっかり気力が抜けてしまい、今では人形のように動けなくなってしまった。 前、こんなに酷かったのはいつだっけ。そうだ、高校二年生のときだ。 確か、一つの上の先輩に身体を売っているのがバレて突然襲われかけたのだ。学校はまだ安全だと信じていたし、目立たないようにと注意していた。だからこそ、未遂だったものの精神的に参ってしまって、一週間まともに登校できなかった。 あのときはどうやって立ち直ったんだっけ。この状態になると起きているのか寝ているのかわからなくなって記憶が曖昧になる。だから上手く思い出せないし、思い出そうとするとそのときの気分に引っ張られてまた沈んでいく。 でも、考えこんでいたおかげか、涙が止まってきた。顔に触れる布はびちょびちょだし、腹もなんとなく減っている。それに気づいた今しかない。そう思って勢いをつけて掛け布団を横に避ければ、思いっきり四肢を伸ばして仰向けになった。 すっかり見慣れてしまった天井。身体の形に寄り添うように形を変えるマットレスに、肌触りのいい布団。なんでオレ、ここにいるんだろう。オレなんて、今にも壊れてしまいそうなボロアパートがお似合いなのに。 もう生きたくない。なのに、自分で死ねない。ここにいちゃいけない。なのに、ここから出て行けない。……好きになってはいけない。なのに、好きになってしまった。 やらないといけないことはわかっている。だけど、オレをこの世に引き留めるものをつくってしまった。できてしまったせいで実行できない。いざ実行してしまえば楽になるのはわかりきっているのに。 ……もう、ダメだ。 のっそりと上半身を起き上がらせると、これでもかってほど腹から息を吐き出す。息が苦しくてしょうがない。だけど、今はこれが精一杯。ベッドから片足ずつ下りれば、壁に身体を預けながら歩いていった。 長くない廊下をとぼとぼと進んでいき、洗面所へと入っていく。そこで顔を洗い、歯磨きをし。涙の代わりに水で前髪までびしょびしょに濡らし、目を真っ赤にさせたオレの顔は少し、人間になれた気がした。 タオルのある場所は知っている。オレが風呂から出ると、その音を聞いた薫が駆けつけてきて頭を拭いてくれるから。けど、今は手を伸ばすのも億劫で髪から水を滴らせたまま歩くと、まっすぐ仕事部屋へと入っていった。 「あっ、愛琉!」 扉を開けた瞬間、パソコンを凝視していた顔がこちらへと向けられ、オレを認識した途端に嬉しそうに笑う。仕事で忙しいはずなのに……。その顔にまた胸が締めつけられたけど、ここまで来たのだからと倒れるように薫に抱きついた。 椅子に座る薫に跨り、首に両腕を回す。嫌がらせのように濡れる額を薫の肩に擦りつけると、ふわりと薫の好きな香水の匂いがした。薫は何も聞かずに受け止めると、オレの背中を撫でてくれる。 「おはよう、愛琉」 穏やかな声でそう言うと、オレの耳にキスをする。優しくて平和な、いつまでもつづいてほしい時間。でも、このまま黙っているとこの空気に流されてしまいそうで、薫の腕の中で息を吐き出すと顔を上げた。 「抱け」 「えっ?」 「今すぐオレを抱け」 じっと薫の目を見つめ、言葉を突きつける。 やっとこの言葉を言えた。吠えるように言葉を出したけど、また涙が滲んできて瞳の表面を覆っていく。薫はオレがこんなことを言うと思ってなかったのか、驚いたまま固まってしまった。 薫はオレに金を払うくせに抱いてこない。そのくせ、オレの身の回りの世話は十分ってほどにしてきて、いつの間にか薫にしてもらうのが当たり前になっていっている。多分、この環境がいけないんだ。きっと抱かれたら、他の客と同じように後腐れなく去れると思うんだ。 「なんでそんなこと言うの?」 薫が驚きすぎてしばらく沈黙になっていたが、ぽつりとそんな言葉を漏らした。 「金払ってるんだから抱け」 「うーん、それはまだかな?」 言葉を紡ぐほどに大粒の涙が零れていき、また頬を濡らしていく。 「なんでだよ!」 オレが、オレなんかが怒鳴っちゃいけないのに大声をぶつけてしまった。ああ、ダメだ。なんでこんなに上手くいかないんだろう。頭が混乱して目の前にあった肩に顔を擦りつけると、薫は当然のように抱きしめてくる。 「僕は愛琉が好きだから大事にしたいんだよ」 「オレなんか、大事って言うな」 「大事だよ」 どうしてオレなんかを大事に思うのかわからない。オレなんかが大事にされちゃいけないのに。だけど、なんて言えばいいのかわからなくて呻き声のような低い声を噛みしめた歯の隙間から漏らしてしまう。 「どうして、オレは、……」 「愛琉は愛されるのが下手だね」 背中に回った手で服を掴む、上半身を重ね合わせるともっと薫から離せなくなってしまった。それでもしゃくりをあげながら言葉をつづけようとすれば、薫が今までに聞いたことないほど優しい声で頭を撫で始めた。 「愛琉が自分を大事にできないなら、僕がそれ以上に大事にするよ」 その言葉に抑えつけられていた感情が弾けると、子どものように声を上げて泣いてしまった。
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