1. 曙色

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1. 曙色

火曜日、午前七時。この時間帯歩いているのはほとんど、これから会社や学校へと向かう人たちばかり。その人波を縫うように反対方向を進んでいくと、自分が社会のはぐれ者なのだと卑屈になっていく。 本当は生まれたときから人の輪からはみ出した人間なのに。無駄に良い夢を長く見てしまったせいで真っ当な人間のように一端に痛む心を持ってしまった。 「……ああ、クソ」 早足で人混みを抜ければ、無意識に小さく吐き捨てていた。 ていうかあのゴリラ、金払ったら何してもいいと思ってんのか。ご自慢の筋肉を鍛えるより先にエロ動画で夢見てるその脳みそを鍛えてこい。 気分が落ちこんでいくにつれて誰でもいいから当たり散らしたい気持ちにも、何もかも投げ出したい気持ちにもなってきた。だから本人がいないのをいいことに心の中で昨晩相手した男の悪口を言うと、鈍い痛みを発する腰を撫でて荒れた機嫌を抑えこんだ。 どうせならもっと貰っておけばよかった。そもそもこうなったのも、本当はもっと早く帰れたのにゴリラがしつこく次の約束をこぎつけようと引き留めてきたせいでこの時間になったわけだし。 じわじわと心を支配していく負の感情を原動力に大股で歩く。兎にも角にも今は早く家に帰って寝たい。そう自分を急かすのに、だんだんとケツの穴にある違和感を無視できなくなってきた。 一旦、どこかで休もうかなあ。虚しさや怒りで感情がぐちゃぐちゃだし、何より一歩進むたびに身体が軋んで動かしづらい。とりあえず身体だけでも落ち着かせたい。 立ち止まって辺りを見渡せば、駅前の広場に設置されたベンチが空いている。足先をそちらに向けると、気怠い身体を引き摺る。辿り着くと同時に勢いよく腰を下ろせば、胸の内に溜まっていた感情に押し出されて大きく溜息をついた。 最近、上手くこの時間帯から逃げてきたからか、久々に感じると記憶よりずっしりと重くて息苦しい。 嘆息を漏らしつつ背中を丸めれば、パーカーのポケットに両手を突っこむ。座るだけでもだいぶ楽になる。歩いている人の邪魔にならない程度に足を伸ばすと、靴の中で指を伸ばした。 ここで休んだら、急いで家に帰って速攻寝よう。けっこう良いホテルに泊まったはずなのに全然休めなかったし。隠すのも面倒で前を向いたまま欠伸をすると、駅の中へと吸いこまれていく人たちをぼんやりと眺めた。 羨ましいなあ。きっと、この景色を“普通”って言うんだろうなあ。 気が緩むとそんなことを考えてしまう。オレが思ってはいけないのはわかっているけど、道行く人の姿を眺めているとたまに羨望や嫉妬が抑えられなくなって狂いそうになる。なのにいつもこの景色から目が離せなくなるから、いっそ自傷行為だと笑い飛ばすしかない。 ああ、早く消えたいなあ。 ……なんか、こればっかり言ってる気がする。 ふとそんなことを思えば、途端に考えるのがすごく馬鹿らしくなってきて自然と口角が上がった。この調子なら家まで行けそうかもと背中を伸ばすと、自分に近づいてくる人影に気づいた。 「ねえ、君」 想像よりも声が柔らかいなあ。身構えてとっさに視線を落とせば、汚れたスニーカーの先を見つめながらそんな感想を持つ。その靴先の前によく磨かれた革靴が来たところでおそるおそる顔を上げれば、黒髪の若い男の微笑んだ顔が目に入ってきた。 見たことない奴だなあ。二十代前半といったところか。昔から一回り以上上の奴ばかり相手にしてきたからか、同世代っぽいというだけでちょっと心が軽くなる。 「なあに、お兄さん?」 目の前にいる男の笑みを真似するように口角を上げると、明るい声色をつくって答える。初対面はできるだけ良い印象であった方がいい。長年染みついた意識がそのまま態度に出ると、有無も言わずに受け入れる体勢を取った。 とはいえ、今日はもう相手はできない。後日なら喜んでオッケーするけど……。 「僕に君をちょうだい?」 打算と下心あり気に考えていると、男の口から思ってなかった言葉が飛び出してきた。想定の範囲外の言葉だったのもあって思考が急停止すると、オレをまっすぐ見つめる朝日に照らされた瞳に引き込まれていった。 「はあ?」 呆然としてぽっかりと空いた口からはそんな短い言葉が零れる。 「オレとセックスしたいってこと?」 「セックスだけがしたいわけじゃないよ」 いや、だけじゃないって。セックスはしたいんかい。 思わずそんなツッコミを心の中で入れると、閉じた口の端が上がってしまう。じゃあ、セックス以外は何がしたいんだよ。男の登場でさっきまでの鬱々とした気分から肩くらいまで抜け出していて、自ずと会話をつづけようとしている。 「じゃあ、オレに何をしてほしいの?」 そう尋ねながら上目遣いで男を見つめ、ついでに顔をちょっと傾げてみる。 傾きに応じて切るのが面倒で放置していた前髪がさらりと流れる。目にかかっていた毛先がなくなり、男の顔がよく見える。そういえばこれ、客に好評な顔だなと思い出せば、男の目が少し輝いた気がした。 「僕、絵を描いてるんだけど君にモデルになってほしいんだ」 興奮を抑えつつもそう告げれば、男はオレの答えを求めてじっと黙る。上からじりじりと感じる視線の圧にゆっくりと目線を外すと、一旦落ち着いて男から言われた言葉の意味を整理してみる。 オレを絵のモデルにって本気で言ってるのだろうか。確かにオレは見た目がいい。それはこの仕事をしている上で売りになるから自覚はしているが、それ以外の価値なんてないだろ。オレを描いても時間の無駄にしかならないと思う。 「オレなんかでいいの?」 「“なんか”じゃないよ。君がいいから声をかけたんだよ」 考えるほどに溢れる自虐的な心から尋ねれば、すぐさまそんな言葉が返ってくる。男から与えられたその言葉はオレの心に僅かに残った柔らかい部分をくすぐり、飢えを満たそうと視線を男に向けてしまう。 「それで、いくらでオレを買ってくれるの?」 決して耳障りのいい言い方ではないのはわかっている。だけど、この男の優しさにこれ以上触れてしまったら、オレがオレでいられなくなる気がする。……ヒトの優しさは怖い。 「できれば僕の家に一緒に住んでほしいから月20万はどう?」 男はそんなオレの臆病な心から出る牽制も気にせずに話をつづける。ただ気づいていないだけなのか、それともわかっていて流しているのか。引っかかったが、それよりも男の口から飛び出した自分の値段に驚いた。 「20万は高いでしょ」 「そうかなあ」 さすがに冗談だろうと笑えば、男は当然なのにと言わんばかりに首を傾げて不思議がる。なんでそんな反応なんだ? 一体、この男の目にはオレがどんな風に見えているんだ。 「オレにそんな価値ないよ」 「うーん、じゃあ月30万で」 男に訂正を求めるも、そんなのは意に介さず満面の笑みで推し進める。 「いや、だから!」 オレなんかにそんな大金を払う必要はない。呆れからとっさに口調を強めて訴える。 まあ、本当に払われるかなんてわからないか。心の中でゲスい笑みを浮かべれば、純粋そのもののような丸い瞳に映る自分に気づいた。その瞬間、急速に反抗する力が失ってしまい、逃げるように目を逸らした。 「君はとっても素敵だし魅力的だよ。ただ、君が気づいていないだけ」 男は穏やかにそう言うと、オレの頭を撫で始める。頭に乗った大きな手はやけに優しくて、何故か無性に泣きたくなった。
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