余命三秒の救世主

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「家族の方を呼んで!おそらく明日までもたない」 「先生、この患者さん、身寄りがないみたいで……」  朧気に、医師たちのそんなやり取りが聞こえてくる。長く続いた苦痛から、ようやく解放されつつあるのがわかる。  意識が体から少しずつ抜け落ちていく感覚に包まれながら、男は自らの死がすぐそこまで迫っていることを悟った。 (享年五十一歳ということか……)  人生百年と言われて久しいこのご時世からすれば、まだまだ折り返し地点だ。男は早すぎるお迎えを恨めしく思った。とはいえ、幕が下りつつある自分の人生を、名残り惜しいと思う気持ちがあるわけでもなかった。  男はそこそこ裕福な家庭に生まれ、何不自由なく育った。だが学業はふるわず、落第寸前で学校を卒業し、親のコネでなんとか小さな会社に入れてもらった。そこで大したことのない仕事をだらだらと続けてきた。  何かしら人より秀でた能力があったわけでもなく、熱中できるものを見つけてのめり込んだり、向上心をもって何かに取り組んだという経験もなかった。目標もなく、その日その日をクラゲみたいに流されながら漂ってきただけだ。  生まれつき臆病で心配性な性格が災いしてか、結婚もせずじまいだった。だから家庭を持つことも父親になることもなかった。  四十を過ぎた頃、事業で失敗した心労からか、父親が心臓の発作で亡くなった。支え続けた母親も後を追うようにして病死した。唯一の肉親を失い、男はますます無気力な毎日を繰り返した。  やがて男は、大したことのない会社の中でも明らかなリストラ要員となり、自主的な退職へ追い込むための様々な圧力や嫌がらせを受け始めた。他で働き口を見つける自信のなかった男は、あの手この手の執拗かつ陰湿な仕打ちに耐えながら、何年も会社にしがみついた。  ある日、心身ともに疲弊した男は、どこかのネジが外れてしまい、事件を起こしてしまった。  深夜、自宅付近の住宅街を全裸で徘徊したのだ。ただ解放感に浸りたいがためのほんの数分の行動だった。だが、運悪く夜遊び帰りの女子高生に目撃され、通報を受けた警察に公然わいせつの現行犯で逮捕された。  初犯であり起訴だけは免れたが、どこからか伝わった噂が職場にも広がり、男はさすがに退職せざるを得なかった。  男は貯金を取り崩しながら仕事を探した。しかしこれなら自分にもできそうだなと思える仕事は簡単に見つかるわけもなく、そうこうしているうちに、これまでにない激痛が胃を襲い、病院へ駆け込んだ。精密検査の結果、すでに転移がはじまった癌であることがわかった。  以来、男は重苦しくやるせない闘病生活を数年に渡って続けて来た。そして今日、いよいよその人生の最期の日を迎えようとしていたのだった。 (死の間際に、走馬灯のように人生がフラッシュバックするというのは本当なんだな)  混濁した意識の中で情けない我が人生を振り返った男は、これでは先に逝った両親に合わせる顔がないと思った。  男は死ぬ直前にもかかわらず、どうしたものかと悩み始めた。  そもそも、あの世で親は自分を待っているのか。親はどこまで息子の生前について知っているのか。神様みたいにすべてをお見通しなのか。会いたくなければ会わずに済ます方法はあるのか。  往生際悪くあれこれと考えているうちに、男は子供の頃、母親に言われたある言葉を数十年ぶりに思い出した。 「人殺しさえしなければ、何をやってもいいんだからね」  それは、もちろん文字通りの意味ではなく、何事に対してもあまりに引っ込み思案すぎる息子にハッパをかけるための言葉であった。子供ながらに男もそれを理解していた。  結局、母親の気遣いも虚しく、男の性格は死ぬまで変わりはしなかった。ただ、男は今になって改めて母親の言葉を振り返り、文字通りの意味では自分がその教えを守っていたことに気づいた。  男は到底褒められない人生において、人殺しだけはせずに済んだのだ。  ほんの少しだけ、男は気が楽になった。 (何も成し遂げられなかった人生だったけれど、誰の命も奪わずに終えることはできた。それだけは褒めてほしいな……)  男は最後の力をふりしぼって片手を挙げ、親指を立てた。母親に、そして去り行く世界に、OKのサインを見せたかったのだ。  その日の夜遅く、男は病室で静かに息を引きとった。            *    少年は四六時中、死ぬのが怖くてたまらなかった。  腎臓の病を患い入院したのがきっかけだった。医者によると、やっかいな慢性病ではあるが、すぐに死に直結するものではないらしかった。けれども少年は、病室のベットの上で、一日中、死について考えるようになった。気を紛らわすために、ゲームをしたり漫画を読んだりしてみても、死の恐怖はすぐに頭の中に沸き上がった。  死んだらもうゲームだってできないし、美味しい物も食べられない。親や友達にも二度と会えなくなる。  死ぬのは何十年か先のことかもしれないけれど、明日死んでしまう可能性だってゼロではないのだ。  そもそも死がどういうものかもよくわらない。死んだ人が教えようとしても教えられないからだ。  寝ている時みたいに意識がなくなる状態が続くだけだという人もいるけれど、つまりそれは、二度と出られない暗闇の世界に独りぼっちで永久に閉じ込められてしまうことを意味しているように少年には思えた。 (どうしてみんなは、平気な顔で毎日生きていられるのだろう。死は誰にでも間違いなくやって来るのに)  少年に取り憑いた死の恐怖は、彼の病より余程たちが悪かった。このままでは病気が治っても、与えられた人生を全うするのは不可能だと思った。  少年は、死にたいくらい、死ぬのが怖かった。  入院して十日ほど経った頃、隣のベッドに中年の男が運ばれてきた。家族はいないようで、医師や看護師さんの立ち話から、末期のがん患者だとわかった。  すでに意識は朦朧としていて、しゃべることもなかった。たまにカーテンの隙間からのぞく顔には、いつも苦悶の表情を浮かべていた。  何時間かおきに看護師さん点滴を取り換えにきたが、たぶんそれは鎮痛剤とか栄養剤で、積極的に治療する薬でないことは、少年にもわかった。  すぐ隣に、まさに死を迎えようとする患者が現れ、少年はますますその恐怖にとらわれた。毎晩、男の気道から漏れる息がうめき声のように聞こえてきて、寝付けない日が続いた。  一週間が過ぎた。少年は男の息の音が少し違って聞こえ始めた。何かの声に似ている。 (赤ちゃんの泣き声だ)  少年はそう気づいて、恐る恐る男のベッドに近づいてみた。相変わらず険しい表情だった。少年はすぐにベットから離れようとした。すると次の瞬間、男の表情が微かにほころんだ。少年はびっくりしてその顔に釘付けになった。男は確かに微笑んでいた。そしておもむろに片腕を上げると、右手の親指を立ててOKのポーズをとった。    廊下から足音が聞こえた。看護師さんが見回りにきたのだ。少年は急いで自分のベッドに戻った。  病室に入って来た看護師さんは、いつものように点滴の量を確認し、男の脈を測った。だがしばらくすると、慌てたように音を立てて病室を出ていった。    その夜、男は若い当直の医師と数人の看護師に囲まれ、息を引き取った。夜が明ける前には、少年のいる病室から静かに運び出された。  生身の人間の死を目の当たりにしたにもかかわらず、何故か少年の心は落ち着いていた。男が死に際に見せたポーズがそうさせたのだった。  少年は、孤独な男がどこか納得した様子で死を受け入れたことを、我が事のように思い、安堵した。そして、あれだけしつこく少年に取り憑いていた死の恐怖は、男の去りぎわの振舞いによって、一瞬にして吹き飛ばされてしまったのだ。 (どこでどんな人生を送ってきたのかは知らないけれど、あなたは間違いなく僕の救世主様です)   男のいなくなったベッドは、すっかり朝日に包まれていた。少年は目を閉じ、光輝くシーツに向かっていつまでも手を合わせた。  〈了〉    
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