─宵越し

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─宵越し

 四月の新学期はまず身体測定から始まる。  各教室や体育館などの会場にそれぞれの項目を割り振って行うが、なにぶん生徒の数が多い上に丁重に扱わなければならないので一日がかりだ。風紀はその見回りを任じられており、全校生徒が終わってから計測に移る。  たかが身体測定で何を取り締まるのか。新しく風紀に入った者の多くが抱えていたその疑問は実際に測定が始まってすぐにわかるだろう。  セクハラである。  身長計を担当した馬鹿はここぞとばかりにチワワの頭を撫で、聴力を測る為に電子音を流さなければならない阿呆はどうやったのか知らないがヘッドフォン越しに愛の言葉を囁く。  極めつけは視力検査だ。ボードを指す係のクソ野郎は偶然を装って卑猥な言葉を言わせようと目論んだ。ここまでくると呆れる。これが保健委員とは俄にも信じ難い。  しかも、敵は彼らだけではない。  後ろに並んでいた生徒が前の生徒の体重計を覗き見て後々脅して好きにしようと企むこともしばしばだ。同じ外部生である俺の幼馴染は実際その手段を用いられたし、俺が風紀に勧誘されたのはその不埒者を彼らに突き出したからである。  体育教師も何かと理由をつけて薄着の生徒の周りをうろつくので、博愛主義の月ヶ瀬にさえ白眼視されている。他の生徒からの風評は言わずもがなである。俺が在籍する前からずっと教員として働いており、当初からセクシャルハラスメントの権化と呼び声が高いそうだ。最悪である。  色々と例を挙げたが、要するに激務ということだ。計測は三年生から始まるので、こうしてぼんやりしていられるのは初めのうちだけであり、後になればなるほど地獄を見る。  特に実働部隊であるメロは大変だ。俺は主に指示役だからあまり動かなくて済むけれど、それでも日が沈む頃にはきっとくたくただ。 「メロ行きたくなーい」 「あとで飴あげる」 「やった、がんばる! また放課後にね!」  彼の腕に風紀の腕章をつけ、送り出す。風紀委員には全員白い万年筆を渡されているが、小さすぎるので威圧にはならず、こういうときには腕章で対応しているのだ。機能しているかは知らない。  身体測定はいいとしても、明日から始まる授業日の合間を縫って行われる健康診断の方が心配だ。授業中にクラスごと順番に検査するため、見張りの人数も限られている。  保健委員がいない分の仕事を養護教諭が担ってくれるのが不幸中の幸いだ。彼は優しくて理性的な人なので、きっと見張りにも協力的だろう。  その他の教師達はというと、指揮者の薄い各現場に散らばっているが、その貢献度合いは人によってまちまちだ。剣道場は風紀第四位である俺が指揮しているので教師は参加していない。 「あの人の周り、視線が怖いんだけど……」 「エロい目で見てるわけではない……よな?」  何列か向こうから一年風紀の声が聞こえた。何事かと思い、身長計の前に一歩進んだ小さな背中を遠目に見て納得する。  今しがた百五十九センチと記録されて「よっしゃ伸びた!」とはしゃいでいるのは我らが寮長である。言わずもがなショタだ。  童顔に低身長という子供のような容貌に反し、この学園には珍しい人格者で、その性格や姿形が人の罪悪感と庇護欲を刺激することで生徒会長に匹敵する規模の親衛隊を持つに至った。マジで良い人、とは友人談である。  聞くところによると、俺は彼によって推薦されて風紀第四位の座に収まることになったらしい。  彼とは入学初日に顔を合わせた程度の関係なので事実か定かではないが、もしそうなら随分と買われたものだと思う。キャラクターが浸透しているようで何よりだ。 「……あの人、なんか変じゃない?」  またも上がった怪訝そうな声にそちらを振り向くと、今度は別の生徒についてらしい。  視線の先には、記録員でもないのにボールペンを持って順番待ちをしている不審な生徒がいた。俺はその生徒に近づいてわざとぶつかり、彼が取り落としたボールペンを拾って「おかしいな……」とつぶやく。 「これ、インクが入っていませんね」 「あ……」 「ちょっとこちらに来てください。大丈夫。何もなければすぐに済みますよ」  にっこり笑って武闘派の風紀委員に引き渡す。ボールペンを持っていただけで疑われるなんて、とでも言いたげな付近の生徒に聞こえるよう、「近頃はカメラも小さくなって怖い世の中ですよね」と独り言をいう。  これは本当のことだ。盗撮カメラは色んな偽り方をして世界に蔓延っている。  主に韓国の女性の中では知名度が高いものの、未だ日本の男性間ではあまり認知されておらず、近年は学園でも取り締まりを強化しているほどだ。そのせいで春休みが丸潰れになったので、俺はこの類のものに対して生理的な嫌悪や恐怖感だけでなく怨念まで抱いている。男子高校生の春休みを奪った罪は大きい。  さて、被害者のフォローをしよう。そう思ってボールペンを向けられていた前列を見下ろし、うわ、と声を出しそうになった。  新緑色の丸い頭がふたつある。俺は四つの目がこちらを見上げる前に、「また何かありましたら風紀にお教えくださいね」と親切めいた声掛けをして、踵を返した。背後から声がかかることはない。  幸いと言うべきか残念ながらと言うべきか、その後も取り締まらなければならない案件がたくさんあったため、俺は彼らへの些細で複雑な気持ちを忘れることができた。けれど、問題が解決したわけでないこともわかっていた。  目に優しいもので現実を覆い隠すのは、王子様になる前から持ち続けている悪癖だ。
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