─宵越し

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 次に二年生の計測だ。三年生に比べて人気のある生徒は少ないので、淡々と進んでいく。  しかし俺としてはむしろこちらの方が大変だ。何しろAクラスだった頃の知り合いが待ち時間にやたらめったら話しかけてくるのである。もう名前も覚えていないのに。二クラスずつの移動が恨めしい。  若干名エスケープしていたがそこは担任に任せよう。ひとしきり捌いたとき、きゃあと小さな悲鳴が上がった。  そちらでは生徒会書紀の千歳(ちとせ)むぎが記録用紙を片手に計測台を降りていた。入学式のときに目が合った彼だ。  手を振るとこちらに気づき、人目を気にする素振りを見せながらぱたぱた早足で近づいてくる。俺は縫いぐるみに抱きつきたくなるような暖かい衝動をぐっと堪え、笑みを深めた。 「お疲れ様」 「ゆえも、おつかれ、さま」 「今回も伸びたでしょう」 「ん。五センチのびてた」  思ったより伸びてる……。妬ましくなりつつ頭を撫でる。ふかふかの毛並みはまるでテディベアだ。  彼は俺がAクラスで遠巻きにされていたときからの友達である。当時は二人共役職についていなかったから、所属する部活で顔を合わせるなど話をする機会が多かった。最近はお互い忙しいけれど、またどこかに遊びに行けたらいいと思う。  ムギがくすくす笑って身を捩る。擽ったがりながらも嫌がる様子はない。ちらりと周囲を盗み見ると、大半の意識がこちらに集中しており、作業が進んでいないようだった。  俺はムギから手を離そうとしたが、その前に風紀の数人が出入り口の方に顔を逸らす。  廊下では険しい顔の教師陣と風紀委員長が何やら深刻そうに言葉を交わしながら開け放たれた扉を横切って行き、ややあって月ヶ瀬だけが剣道場に入ってきた。  ムギが俺の手を握るのをバイバイの代わりにして去って行く。彼の人見知りは治りそうになかった。 「元気?」 「いつも通りです」 「こら、そこは“委員長が来てくれたので元気になりました”だろ?」  乾いた笑いが漏れた。  彼はいつも軽薄だ。偉ぶってないのにそういう発言をするし、風紀には手を出すつもりがないのに可愛がる素振りを見せる。そのくせ広報委員会の隠し撮りなんかは軽々と避けてみせるのだから、彼の能力は本物である。もちろん風紀委員長としての手腕も。  俺の薄い頬に悪戯な指先が伸びてくる。さりげなく避けた。これこれ、とでも言うように気分良さげに頷かれ、たいへん遺憾である。  そもそも俺を口説こうとするのなら、他の男達を全員切ってからにして欲しい。俺の心はそんなに安くない。  この間なんて、風紀の仕事で月ヶ瀬の部屋を訪ねたら「キャーッ」と声がして、中から両手で数えて足りるかどうかという人数の一般生徒が半裸で出てきた。それはいいのだが、その後が問題だ。ベッドサイドのテーブルで月ヶ瀬と仕事の話をしていると──月ヶ瀬がそこから動こうとしなかったため──、ベッドの丸まった布団が何やらもぞもぞと動いており、ぞっとした。中にはまたもや一般生徒が隠れていた。  月ヶ瀬は笑っていたが、俺がうっかり機密事項をあの空間で口にしていたらと思うと恐ろしくて堪らない。もちろんそうなりそうなときは月ヶ瀬が止めてくれただろうし、月ヶ瀬が俺を出迎えてから寝室に直行しててこでも動かなかったのも隠れ潜む一般生徒を監視するためだったのだろうが、それにしたってありえない。頭おかしいんじゃねえの。  先日の一件を思い出しながら内心むっとしつつ、澄まし顔で仕事の有無を訊けば、月ヶ瀬は「ファンサービス出来る程度に暇だなぁ」と背後の観衆に手を振った。たちまち上がる歓声。うるせえ。  俺は月ヶ瀬の影から顔を出し、測定の手を止めていた生徒達を動かした。  彼らの一部は月ヶ瀬の甘いマスクに夢中でいっこうにメモリを見ない。俺の指示はちゃんと耳に届いているのだろう。実際、理性は顔の向きを変えようと頑張っている。しかし眼球だけが月ヶ瀬に釘付けなのである。  風紀委員達には一年生の測定の後に嫌なことが待っているので、少しくらいの気の緩みは許してしんぜよう。だが……そこでぶつぶつ呟いている腐男子、顔は覚えたぞ。  風紀委員に構いきりでまともに月ヶ瀬の相手をしていないが、彼は然程気にした様子もなく目を細め、剣道場を後にした。
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