─宵越し

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 今年初めの授業日は雑務やら何やらで午後からの参加となったが、特に問題も起こらずに過ぎていった。  新しいクラスなので緊張していたけれど、ムギがいたし、同じ外部生の幼馴染も腹黒そうな薄ら笑いを浮かべて机に向かっていたのですぐに慣れた。去年のAクラスと比べて全体的に落ち着きがあったのも大きい。授業中は静か過ぎて眠くなってしまうくらいだ。  というのも、最近はいまいち眠りが浅くて、薄っすら意識を保ったままスマートフォンのアラームを止めて「もう朝か……」と欠伸するのがルーティンみたいになっているのだ。  このままでは不味いと思って、イヤフォンでASMR──直訳すると“自律感覚絶頂反応”になるが決していかがわしいものではない──の環境音やシャンプーなどを聞いてみたり、眠気の限界まで教科書を朗読したり、英単語を延々と書き取ったり、部屋のドアの前にリスナーに貰ったガラクタの入っているやたら重たい段ボール箱を置いてみたりしたのだが、いまいち効果はない。  なので日中は夜に来るはずの眠気が襲ってきて散々だった。  チャイムが鳴り、雑多な物音で教室がいっぱいになった。筆記用具を鞄にしまって風紀室へ向かおうとしていると、なにやら担任が俺を手招いている。  彼は学園では珍しい堅物教師という話だ。しかも万年筆持ちの顧問でもある。大人しく教壇へ寄った。絶対に面倒事だ。風紀(うち)が好き勝手にやったときの皺寄せという名の書類業務はいつも俺だから、今日もそれだろう。 「少し頼まれてくれないか」 「残念ですが、この時期は風紀が立て込んでおりまして。簡単なものでしたら」 「そうか、なら大丈夫だな。うちのクラスの御倉のことだが……」  風紀ではないことに驚きながら相槌を打つ。  どうやら御倉棗(みくらなつめ)という生徒が身体測定をさぼり、今日の授業もさぼり、それをどうにかしようとした学級委員長とやらが探しに行ったものの、未だ見つかっていないのだという。昨日も同じことがあったらしい。  担任は彼の単位が心配なのだろうか。きちんと進級出来ているようだし、放っておけばいいものを。  俺のいない間に決まったらしい学級委員長がどうすることも出来なかったなら俺でも難題だろうが、取り敢えず引き受けた体にしておこうと思い、頷く。  担任は少し安堵したように黒板消しを手に取った。食堂の各テーブルにタブレットがあるようなこの学園で、プロジェクターやOHP《オーバーヘッドプロジェクター》を使わず手が汚れるのも気にしないで黒板にチョークで書く教師は、俺の知る限りで彼だけである。 「僕が消しておきますよ」 「そうか? 助かる。これから職員会議でな」 「大変ですね」  背後から聞こえたクラスメイトの「さすが王子様……!」の声に口角が上がるのを我慢しつつ、上着を脱いでチョークの線を消していく。学園の掃除のために週一で業者が入るものの、黒板などは毎日のことなので生徒の自主性に任せられている。ポイントを稼ぐにはもってこいというわけだ。  最後に黒板消しを縦方向に滑らせ、ブレザーを羽織った。  教室にいるのは端っこに固まったチワワくらいのものだ。彼らに声をかけられる前にさっさと教室を出て、軽く廊下を回る。一応目星はついているが、真面目に探している姿を見せておいた方がいいだろう。  ひとしきり無駄足を踏んだところで、屋上に登る。大抵の不良はここにいるか、ここから見下ろせる中庭にいると相場が決まっているのだ。学園の一般的な不良は体育館裏で誰かをシメるか教室で授業妨害の一日を送るかの二択が多いのでそこは省くけれど。  きぃ、と音を立てて扉が開く。煙草の苦味が鼻をついた。雲ひとつない青空が広がり、その下のコンクリートに青年が一人顔を腕で隠すようにして寝そべっていた。  おそらく彼が御倉だ。黒髪に黒の大ぶりなピアス、比較的きちんと着込んだ制服。担任の情報と一致している。  相手の腕と脚が届かない程度の距離まで近づく。一年のとき、Fクラスが束になっても倒せない不良、なんて噂を聞いたことがあった。きっとそれは彼だ。  表面が鋭く箚さくれた黒曜石みたいな雰囲気が御倉の周りに漂っている。風紀が締め上げる奴等とはどこかが違う。こう、なんというか……養殖と野生みたいに。彼のそれは無理やり檻に閉じ込めた獣のようだった。 「御倉さん」 「……御倉さん」 「身体測定があるんだ。来てくれない?」 「…………あの……」  嘆息し、最後にもう一度「御倉さん」と呼びかけてみるが、案の定反応はない。俺は彼を連れ出すことを早々に諦めた。なにせどうでもいい。  担任の口ぶりだと、御倉は他人と積極的に交流する性格でもないらしいし、俺がまともに連れ出そうとしなかったからといって、それを言いふらすことはしないはず。その担任もどうせ職員会議だ。  今日やるはずだった仕事が明日にまわるのは残念だが、眠れる獣を叩き起こすよりは簡単だろう。  ゔゔ、とスマートフォンが震える。画面に表示されたのはユウの名前と「寮に戻りました」の報告だ。メッセージ履歴にはその文言が一字一句違わず並んでいる。  ユウとはあの後強引にメッセージアプリを繋がらせて、帰宅毎に報告をさせている。本当は一緒にご飯を食べるなどしてその間に情報交換をして彼の身の回りに問題が起きていないか把握する必要があるのだが、ユウはなぜか俺と話したがらないので、こうして最低限度の保護となった。  じっと御倉の様子を確認しながら、扉付き直方体みたいな建物の壁に背を預ける。いつまで経っても彼は反応を見せなかった。他人に興味がないのかもしれない。  それなら好都合だ。名目は「御倉が起きるまで待っていた」で構わないだろう。  そう考え、その場に三角座りする。コンクリートとの接地面が冷たい。けれどそれ以上に春の陽気が眠気を誘った。彼もこんな気分だったのかもしれない。ちらりと置物めいた男を見て、鞄の中から単語帳を出して捲った。
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