─宵越し

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 最近は全くと言っていいほど集中出来ない。寝不足もそうだが、それくらいで使い物にならなくなる頭だったら今より余程眠れていなかった小学校時代は余裕で留年しているに違いないので、問題はそこではないのだろう。  半分ほどを覚え切った頃には空が紫立っていた。夜が始まる数分前だ。普段よりも進度が目に見えて遅い。どうせならこの時間に眠ってしまったらどうなのかという話なのだけれど、そんな無防備な真似をしていたらあっという間に食われる学園なので、それは愚問である。  俺は血流の悪さから感覚が薄くなった尻を拳の甲でぐりぐりしながら立ち上がり、御倉に「これから寒くなるので気をつけてね」と声をかけた。やはり無視である。気にせず出口に向かい、階段を降りた。  風紀室に寄ってソファで寝ようかとも考えたが、余程行き詰まっていないときは布団で横になった方が身体に良いだろうと思い直した。この先数週間は健康診断があるので風紀は放課後出ずっぱりだし、なんなら授業中も自分のクラスのときは見張りを任じられている。  なら一体自分の身の安全は誰が守ってくれるというのか。もはや答えなどわかりきっている疑問を口の中で呟き、角を曲がる。すれ違った一年生の好奇の視線が突き刺さった。いつもこうだ。おそらく彼らの興味が薄れるのにひと月はかかるだろう。  そのすぐ後に職員会議から戻ってきた担任に任務失敗を告げたり、次いで溜息を飲み込んだ顔で言われた「時々様子を見に行って欲しい」という頼みを渋々承諾したりするクエストを経て、寮棟への渡り廊下に差し掛かる。  向こうから人影が現れたので右側に寄った。しかし相手はこちらが避けた方に身体をずらす。また避ける。ずらす。  それを何度か続けて、俺はようやく相手が誰だかわかった。なのでそのまま歩いて行き、容赦なくぶつかる。相手の方が体格はいいけれど、俺が避けると思っていたらしく踏鞴(たたら)を踏むことになった。そして転んだ。彼に手を差し伸べ、振り払われる。 「クッソ、この性悪王子!」 「何を言ってるのかわからないな」 「なんだと!? 今日こそ俺が本性を暴いてやるっつってんだよ!」 「ごめん、初耳だ」  彼はポメラニアン。やたら俺に突っかかってくる年頃の男の子だ。  へにゃりとした垂れ目に垂れ眉なので怒ってもあまり怖くないし、性的に襲ってくるわけでも、暴力で従わせようとしてくるわけでもないので無害だ。だからいつもこうして可愛がってやる。要約すると駄犬である。  ポメはぐるると唸っている。相手にする気がないのに気づいたらしい。面倒くさいので、未だタイルに転がっている彼のくしゃくしゃ頭をぐっと押し込むようにしてすれ違った。  そのまま寮へ歩き出すが、彼は慌てて立ち上がって「待ちやがれユエ!」と俺の肩を掴んだ。 「どうしたの?」 「どうしたのじゃねえよ……あーあ、せっかくいいこと教えてやろうと思ったのに」 「へ、変態……」 「そういう意味じゃねえよ!!」  偉そうに踏ん反り返っていたかと思えば顔を真っ赤にして言い返してきた。じゃあどういう意味だよと思ってしまう俺はこの学園に染まりきってしまったようだ。  二年目にもなるとポメがどれだけその手の話題を苦手としているかはわかっているのでもちろんわざとである。聞くところによると俺のいないところでは割とフランクらしいけれど、なぜか俺の前では恥ずかしがってしまう辺りが童……いや、これ以上は名誉に関わる。  ぼくなんにもわかんない。黙って首を傾げていれば、威勢を無くしたポメが舌打ちして俯いた。 「……なんでもない」 「焦らしておいてそれはないでしょう」 「焦らっ、お前こそ言い方ってもんがあんだろ!」  ポメは溜息をつき、苛立たしげに頭を掻いてぶつぶつ何かを呟く。そうしたいのはこっちである。  これだから嫌なのだ。いちいち噛み付いてくるから話が進まない。そもそも彼は俺に用もないのに話しかけてくるから話自体に中身がなく、何がしたいのかさえ不明瞭だ。俺は肩から手を離してくれたのをいいことに、彼を置いて渡り廊下を歩き切る。背後からきゃんきゃん喚く声が聞こえてきた。  寮の事務員さんに会釈して中に入る。  エントランスホールでエレベーターを待つ間、ふと彼の言葉を思い出した。いいこと、とはなんだろう。くだらないことに違いないと流してしまったが、わざわざ夕方に寮から出てくるのは少し変だし、何か引っかかる。  ポケットの中で万年筆を弄びながら考えていると、昨日の委員長と教師の会話が頭に過った。もしかして何か関係があるのだろうか。  窓の外はもう日が暮れていた。やがて重い扉が開く。  きっと考え過ぎだ。そう思い直し、中に乗り込んだ。
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