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チープなネオンライトさえも届かない裏の裏。血に濡れたレザーブーツの鈍い反射だけがぬらぬらと光る路地の奥から、途切れ途切れに悲鳴が上がる。
嘔吐を堪えるような、あるいは喉を引き絞るような、思わず耳を塞ぎたくなる声だ。
その痛ましい音の中心で男は這いずっていた。陸に打ち上げられた魚を思わせる、虚しい姿だった。
『珱死楊』という名の由来。それは、“人魚の棲家となる大海”である。
チームカラーのピンクは珊瑚色から取った。
ここは初めから『人魚』のためにつくられた場所なのだ。
無理に陸に上がって誰かに囚われてしまわないように、暖かくて明るい海の底にずっといてもらえるように、傷の男──『珱死楊』副総長はこのチームを作ったのだ。
男の頭に、美しい青年の姿が延々と流れ続ける。
たくさんの笑みとたったひとつの怒り。彼はそれに魂を縛られていた。そして逃れようとした。
青年を──『人魚』を喜ばせることができたなら、きっと解放される。そう信じた。
しかし男に与えられたのは笑みでも怒りでもない。
──オレ、ここ出て行くから。
拒絶だった。
「奴等の下部組織っつーから来てみたケド、全ッ然よえーなァ。残念残念」
足が男を嬲るのを止め、アスファルトを蹴った。男の顔に砂がかかる。じゃり、と口に感じる異物感と苦み。それによって男は現実を見上げた。
男を下したのはチャイニーズルックのチンピラだ。この日本の田舎でするにはふざけた格好だと舐めてかかり、そして今は無残にも踏み台にされている。
チンピラは煙管を燻らせ、何度か咳をしていた。鼻っ柱を踏みにじりながら笑っている。
彼の向こうでは眠らない街に彩雲の影が降りていた。焼け落ちた屋敷に立ち上る焔がめらめらと輝き、赤に青にと時を刻む。潮が引くように夜が逃げ出した。なみなみとした朝が満ち、濃い影を落としている。
傷の男は、痛みに痺れた舌を動かした。
「お前、は……誰だ……?」
「ン? あァ。俺か……」
チンピラは砂をかけるのをやめる。目を細め、寂寥の笑みを浮かべた。
「──暁庭朱色。ただの負け犬だ」
*
「いい、持っておけ。今日は気分が良いんだ
。で、おれらの縄張りだが──」
「…………」
「なんだ?」
「……ンーン、貰えるモンは貰っとくってだけェ」
てなわけで。俺はショッキングピンクのキャップを返しそびれた上に、一夜だけ泊めてもらった。
夜に棲まう人間は少しの貸し借りも忘れないものだが、この傷の男はその傾向が強いらしい。
どうにも鼻血垂らしてボコされていたみたいだから俺のことで何かあったのかと思っていたが、朝までフローリングに寝転んで、いつまで経ってもリンチの予兆のひとつも感じられないままである。
俺は狐狸の類に化かされたような気分で学園に戻った。
暁を覚えたまま時が過ぎる。
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