─宵越し

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 風紀室は校舎の最上階にある。生徒会も階は同じだが、理事長室を中心に見て風紀とは対称の位置になる。  そこには仮眠出来るほど大きなソファや銀装飾の洗面台など設備が整っており、執務台は書類の束を載せても広々と使える。一般風紀の使う教室のような部屋を通らなければ仕事部屋に入れない仕組みになっているのが唯一の難点だ。  長い階段を登り、金属室な扉にカードキーを宛てがって中に入った。生徒達の会話が止まる。一斉に視線が集まり、そちらへ顔を向ける前に逸らされる。  ずらりと並んだ机の前を横切って、奥の扉をもうひとつのキーで開け、扉を閉めた。  大理石の壁に埋め込まれた瑪瑙(めのう)と飾られた七宝焼、それらを見下ろすのは壮麗な天井画だ。天空にも似た大きな窓には繊細な白銀の装飾が施されているが、全体が絹の布地で覆われており、静謐な空気を生み出している。  上位風紀室。ここにはまだ誰もいないようだ。  メロは交友関係が広いけれどお喋りもそこそこに来るらしいので、もうすぐやってくるだろう。  月ヶ瀬は知らない。俺よりも早く来てさっさと仕事を終わらせ生徒と火遊びする日もあれば、全く来ないで遊び明かしている日もあるし、逆に仕事尽くしの日もある。気分屋なのかもしれない。  第四位の席に座り、溜まった書類を消化する。月ヶ瀬の印鑑が必要なものが混ざっていたら彼の席に置いたり、メロの落描きメモが挟まっていたら回収して後々背中に貼り付ける為にセロハンテープを用意したり。その他はきちんと考えて処理するが、段々頭が働かなくなってきた。糖分不足だ。  腹の虫が鳴る前に紙袋を開ける。途端にバターの甘い匂いが辺りに広がった。  ひとくち齧る。ぱりっと焦げるほどに焼かれた香ばしい表面が歯で崩れ、中のしっとりとした生地に行き当たる。そこでようやくフルーティな酒の薫りがした。咀嚼して飲み込み、また齧る。  小さな菓子が無くなるのは早く、満足がいかない。そこでバケットの出番だ。付属のブルーベリーソースを塗り、齧り付く。  待てよ。持ち帰り用のブルーベリーソースを渡されたのだから、桐谷は俺が店内で飲食しないとわかっていたということになるのでは……?  半分くらい予期していた衝撃の事実に、バケットを噛む歯が止まる。やっぱり遊ばれていたのか。俺の馬鹿。  桐谷の食えない笑みを思い出していると、扉をノックする音が聞こえた。  食べていた物を紙袋にしまって見えないように椅子に置き、ドアスコープを覗いた。丸く歪んだ一般風紀数人の姿が見える。おそらく何か確認したいことがあるのだろう。  豪奢な扉を開けると、心なしか緊張した面持ちでこちらを見上げた。いや、緊張というには些か問題のある顔色だ。冷や汗も滲んでいる。体調不良だろうか。 「どうしたの?」  普段よりも気を遣って優しい声を出すと、真ん中にいた猫耳っぽい髪型の一年生が一歩前に出る。 「四位様に確認したい事項があったので」 「そうなんだ。ありがとう」 「いえ……」  それにしてはやけに緊迫しているのはなぜだろう。そう思いつつ、俺は差し出された資料に目を通し、疑問点を聞いて「それはね──」と説明した。  なんのことはない。学園における転入制度に関するものだ。一般的な学校と変わらないが、試験で言えば俺の受けた編入試験の倍は難しい。ただでさえ難題なのに満点近く取る必要がある。  風紀第四位を任じられるに際して詰め込んだ情報を頭の中で整理しながら話しているうちに、彼らの顔に血色が戻っていく。立ちくらみがおさまったのだろうか。  俺は不思議に思いながら最後まで記憶を辿って詳説し、資料を胸に抱いて「ありがとうございます」と明るく告げて去って行く彼らを見送った。閉めるドアの隙間から、席に座る大勢の生徒の表情が先程の彼らとまるきり同じように晴れていく様が垣間見える。  紙袋を机の上に戻し、バケットを齧った。甘いはずのブルーベリーは酸味ばかり際立って感じられる。最後の一欠片を口に放り込んだとき、閉めたばかりの扉が開いてふわふわの髪がひょっこり覗いた。 「やっほ、進んでる〜?」 「そうだね、まあまあかな」  紙袋を畳んで答える。メロは気の無い返事をして、ローテーブルの上に広げられた盤を指で突付いた。順に配列された駒がひとつ倒れる。 「チェスしない?」 「いいけど、メロはまだ仕事を進めていないでしょう」 「え〜」  メロがぐずっていると、開きっ放しの扉をノックする音が聞こえた。いつの間にか月ヶ瀬がドア枠に寄り掛かってこちらを見ている。 「いいだろ。やってあげなよ」 「貴方がすればいいじゃないですか」 「だって俺がやったら勝っちゃうもの」  その通りだ。メロが持ち込んで以来風紀上位室の恒例行事と化したチェス戦の絶対王者は他ならぬ彼で、残された二位を俺とメロで争っている状態である。昨日は俺が勝ち越したため、メロが駄々を捏ねているのだ。  月ヶ瀬は見慣れた様子で笑った。ソファに足を組んで座り、倒れた黒のポーンを立たせる。  それを見たメロが「じゃあリョウとやろ〜」とソファに近づき、俺をちらちら見てくる。仕方なく口を開いた。 「帰る前に一戦。それでいい?」 「やった〜!」  メロがいそいそと執務机に座り、書類を捲る。俺はその様子を見守って、自分も筆記用具を握った。
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