─宵越し

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 窓から注ぐ暖かな陽が、アシンメトリーの柔髪に反射して白金色に光る。聞くところによると地毛らしい。深緑の瞳も自前なのだから、どこぞの貴族と言われても疑う気にならない。  上位風紀室はしんと静まり返っていた。きりのいいところまで終わらせて席を立ったメロが「チェスに集中するためにはまず万全なコンディションから!」と言ってトイレに行ったので、今は月ヶ瀬と二人きりだ。  盤面を見つめ、獲った駒を掌で回す。安牌はいくらでもあるが、いつも逃げていては勝つことが出来ない。やはり潔くナイトを犠牲にするのが最適手だろうか。このまま様子見を続けていては長丁場となりそうだ──。  そうして次の手を固めていると、俺の上から腕が伸びてきて思わず身を縮めた。カーテンが閉まる。ソファの後ろから観戦していたのは知っていたが、急に動かれると厭でも肌が粟立つ。 「驚かせないでください」 「すまない」  続けて文句を言おうとして数秒、謝られたことに気づき、頭の中がクエスチョンマークで埋まった。背後を見上げようとしたら、彼はメロが座っていたソファに腰を下ろして、顎に手を当てて盤面を見つめた。  この先の展開を見据えるように視線が揺れる。その間も月ヶ瀬は黙っていた。戦略を立てている様子はない。隙間なく話しかけてくる普段を思えば別人のようである。気不味い沈黙は最近よく味わうので慣れたものだった。  彼はどうして俺を新しい編入生の同室にしたのだろう。“風紀の王子様”というブランドの軟さは彼とて理解しているはずだ。  しかしそれを本人に直接訊けるほど俺は真っ直ぐな性格をしていない。窓からの採光を諦めてスイッチに手をかけたら、月ヶ瀬が「なぁ、」と呟いた。 「何でしょう」  振り返って尋ねる。彼は逡巡したように口を噤んだ。俺が沈黙に耐えかねて電気を点けると、彼は深く息を吐いてソファから立ち上がった。 「何かあったら頼れ。誰でもいいから」  思わず目を瞠ったが、間を置かず「わかったな」と肩を叩かれる。月ヶ瀬はそれきり談話室を出て行った。  絨毯の上で足を摺るように一歩踏み出したが、そのときにはもう扉は閉まっている。  月ヶ瀬の表情は相変わらず読めなかった。何かを言おうとして止めたのはわかったが、それが何なのかも、どうして言えなかったのかもわからない。ただいつもよりも真摯に俺を見下ろしていたのは理解している。普段は緩く垂れた目元はきつく伏せられていた。口元に笑みの空気は欠片もない。  「何かあったら」とはどういうことだ。今まではそんなこと一度も言わなかった。俺が第四位に就いたときすら軽口で済ませたのに。ソファに座り、ナイトを持ち上げた。駒は黙っている。  冗談だとしたら、きっと最後に付け足したのは「誰でも」ではなく「俺」だったはず。まるで何かが起ころうとしているみたいな言い方だった。  「何か」の最有力候補として挙げられる直近の出来事は、俺を巡って争っていたF生と体育教師の件だろうが(語弊)……たぶんそれは違う。  暴行未遂やセクハラには確かに受けたけれども、そんなことは一年のときに呆れるほどたくさん経験しており、その都度のらくらとやり過ごし、月ヶ瀬も程々の罰を与えて波風の立たないよう事を収めていた。  確かに、今回は予想通りどちらも無罪放免ということになっている。  被害者が俺だったのも有耶無耶になった原因のひとつだ。上司と部下という関係上、第三者からすると風紀委員長たる月ヶ瀬が俺の証言を信じ切るのは当然であるという懐疑的な見方をしてしまうため、司法である上位風紀は強く出られない。  もちろん月ヶ瀬が体面を気にせず被害を糾弾したなら結果は違っただろうが、被害者である俺が事を荒立てるのに消極的だったこと──王子様のブランドイメージに多少の傷がつくのは避けられないので──、目撃者であるFが事の顛末に無関心だったことなど、色々と条件が重なった。  そもそも月ヶ瀬は決まり事を守るという点においてかなり厳格であるため、俺の意思どうこうはあまり関係ないとも言える。  さらに、あの体育教師は良い意味でも悪い意味でも粗雑に扱われる傾向があったのだ。こいつに関することは真面目に受け取るだけ無駄、関われば関わるだけ面倒事が降りかかる、放っておくのが吉、……という具合に。完全に腫れ物扱いである。  そういう訳で、必ずしも過去に起こったあれこれと同じであると言い切ることは出来ないのだけれど──それにしても奇妙だ。月ヶ瀬は一体何を気にしている?  どんな「何か」が起こることを示唆し、一体それのどういった点を憂慮しているのだろうか。  浮かんだ疑問が輪郭を帯びる前にメロが戻ってきた。リョウは、と訊かれて肩をすくめる。  俺は微笑を貼り付け、ナイトから手を離した。  どちらにせよ俺には関係ない。  まずは、と冷たい真鍮の駒をケースに整頓する。  この世界は温度を持つ生き物だ。だからこそ、状況を支配するにあたって最も注意すべきは、そのコンディション。  盤上のキングたる俺を卒業式(チェックメイト)へと導くために、ひとつやってみたいことがある。  俺はソファから立ち上がり、職員室へ向かった。
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